神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 7月号 神人あいよかけよの生活運動


どんな時もどんなことも

湖北教会での信心体験発表で、鈴木直良氏(滋賀・北里・信徒)が話された内容を抜粋して紹介いたします。


祖母と母の祈りから
 私は、昭和21年生まれの68歳です。信心は母方の祖母からで、私は三代目になります。
 祖母と共に滋賀県の鏡山教会にお参りしていた母が、近江八幡市佐波江に嫁いだ昭和26年頃に、近くに金光教の教会ができました。岡野すみゑ師が布教された、北里教会でした。母は私が小学校に入った頃から極度のリウマチを患っていましたが、それでも日野川を越えて北里教会にお参りするため、いつも私に「船を押してくれ」と頼みました。そうして、子ども心に「母の病気が治るように」とお願いしながら、母と共にお参りするようになりました。母は、いよいよ松葉づえでも歩くことができず、肘をつきながらはって動くようになっても、毎日床の間のご神前でご祈念をしていました。私は、そんな神様一筋だった母の姿に、本当の信心を教えられました。
 祖母は百四歳で亡くなりましたが、102歳までご本部参拝をさせていただきました。毎日「金光様」と唱え、心に守りをかけている祖母でした。
 今は、月に一度お墓に参り、私を心配してくれる2人の霊(みたま)様のお働きを、毎日の生活のなかで感じています。

私を支えた言葉
 岡野すみゑ師は、「天地の神様は見てくださっているから、どんなことでも神様にお願いするように」と、いつもおっしゃっていました。私は先生にどのようなことでも相談させてもらい、先生は私が助かるように毎日神様にご祈念をしてくださいました。
 先生とは、不思議な縁がたびたびありました。私が教会にお参りしようすると、日野川の上流にある橋の上で、親教会へのお参りやお供え物を買いに出掛けている先生に、ばったり会うのです。私の行った先で、先生が買い物をしておられたことも何度もありました。先生はいつも、「神様がご用に使ってくださっているのや」とおっしゃって、「とびきりの物を神様にお供えするのやで。真一心にお供えさせていただくのが、神様の氏子としての働きやで」と教えてくださいました。 先生は、天地自然をいつも大切にしておられ、「天地の働きがなければ、人間は生きられませんよ」と諭してくださいました。「生きても死にても天と地とはわが住みかと思えよ」「天に任せよ、地にすがれよ」というみ教えがありますが、先生はそのとおりにご祈念をされていました。
 教会にお参りすると、「船にも車にも積めないほどのおかげをここまで、お広前とお結界の境まで、いつも神様がお下げくださっておる。どうしてみんな持って帰らへんのや」と、時にはお叱りを頂くこともありました。
 先生はいつも「真一心に、どんなこともお願いすれば、神様はすぐにおかげを授けてくださる」とおっしゃっていました。そして、どんなことでも、お取次を頂くと「直ちゃん、もうおかげを頂いたで。神様はおかげを授けたとおっしゃる。何も心配いらん」と言ってくださいました。先生がお結界でおっしゃるように、そのたびにおかげを頂きました。

本当の食事の頂き方
 20歳の時に、椎間板ヘルニアになりました。手術のために入院すると、腎臓病であることも分かり、医師に「先に腎臓病を治さないと、ヘルニアの手術はできない」と言われました。そこで私は、教会に参って先生にお届けをしました。「命ある限り私を使ってもらえるのだったら、手術を受けさせてください」と願うと、先生はいつものように「直ちゃん、心配いらん。おかげ頂ける」と言ってくださり、私は安心して病院に戻りました。教会から頂いたご神米を手に握っての八時間に及ぶ手術が成功し、命を頂きました。その手術に、3000ml必要だったはずの血液が、わずか1000mlで済んだので、医師も「腎臓病でこんな大きな椎間板ヘルニアができたのも不思議やし、本当にどういうことだろう」とおっしゃっていました。
 手術後に内科へ移り、腎臓病のための食事療法を受けて安静の生活となりました。入院してからは塩分の無い物を食べていたので、内緒で塩昆布をもらい、それをご飯の下に隠して食べていました。もちろん、次の日は体がパンパンにむくみます。腫れが引いては食べ、引いては食べ、を繰り返していると、とうとう「こんなことするのやったら退院してください」と看護師に叱られました。その時に、先生がお見舞いに来てくださり、「直ちゃん、『食物はみな、人の命のために天地乃神が作り与えたまうものぞ。何を食うにも飲むにも、ありがたくいただく心を忘れなよ』とおっしゃる。だから、薬やと思って頂きなさい」と言って、梅干しを下さいました。先生のおっしゃるとおりに、その梅干しを薬と思って頂くと、次の日は全くむくみませんでした。「これが本当の頂き方か。ありがたいなあ」と思わせていただきました。

神様におすがりするほかない
 平成25年の8月に、MRI検査を受けました。すると、肝硬変、肝臓がん、腎臓病が見つかり、その併発で体が腫れました。医師には、「鈴木さん、病院ではもう治療ができません。抗がん剤もカテーテル手術も、肝臓が悪いから透析もできません。病院としてはお手上げです」とさじを投げられました。しかしその時、「こんな嬉しいことないなあ。今までは医師や薬に頼ってきたけれども、これで病院のお世話にならんでもいいのやなあ。神様におすがりするほかないのやなあ」という気持ちが湧いてきて、本当に嬉しかったのです。このことが、本気で信心をする大きなきっかけとなりました。
 一年後の昨年7月には、熱が出て、震えが起こり、寒気がする症状が起こったり治ったりして、やむを得ず病院に行きましたが、「もう何もできません」と言われ、自分でも「もう助からんなあ」と思いました。妻は子どもたちに、「お父さん、今度病院へ行ったら帰って来ないかも分からんよ」と話していたようです。病院では3人の医師が私の治療について話し合ってくださり、家族には、「きょうが山ですから、承知してください。今のうちにご主人に話すことがあったら話しておきなさい」という説明があったそうです。しかし、そんな医師の説明をよそに、私はお見舞いに来てくださった方に、自分で自分の経過を話すことができ、それを見た医師が「不思議や、なんであんなに話せるのやろう」と首を傾げるほどでした。そして、教会の先生はじめ、皆さんに祈られ、命がどうなるか分からない1週間をおかげ頂き、それからは日に日によくなっていきました。
 ある時、「私のことを神様にお願いしてくれへんか」と、娘婿に教会へ参ってくれるようお願いをしました。するとその後、医師から「9月8日に退院してよろしい」と言われました。仏教徒であり、なかなか金光様の信心を頂けない娘婿でしたが、「あんたが神様にお願いしてくれたから、ちゃんとおかげを頂いた」と言うと、「よかったですね。そんな言葉をお義父さんの口から聞けて、嬉しいです」と言ってくれました。

つながっていく信心
 同じ頃、私の1つ年上のいとこが別の病院に入院しました。入院時には元気だった彼はどんどん悪くなっていき、ひん死の状態で入院した私の方が先に退院してしまいました。退院後に、教会で頂いたお神酒を持って、お見舞いに行きました。「お神酒さんを頂くか」と言うと頭を下げるので、瓶のフタに注ぎ、「自分で飲めるか」と尋ねると、飲んでくれました。ありがたいなあと思いました。彼の姉が毎日のように世話をしており、「お神酒さんが欲しいと言って、もし自分で飲めなかったら、脱脂綿に染み込ませて吸わせてあげてな」と伝えて帰りました。
 それから数日後に電話があり、「あんたが持ってきてくれたお神酒さんが、一滴だけ残ってな。その一滴を飲むや、息を引き取ったわ。おかげを頂いたわ」と言われました。すぐに神様にお礼を申し、「いとこは亡くなったけれども、最後のお神酒を頂いて息を引き取り、おかげを頂いてくれて、こんな嬉しいことはないなあ」と思えました。
 その後、彼の姉が「教会にお参りしたい」と言い出し、私が本部へお参りする時に、「直ちゃん、これからご本部に行くのか。それならご本部に母と主人と私と娘のお供えをしてくれへんか」と言うので、お供えさせていただきました。こうして信心がつながり、喜んでくれ、「これからお参りする時は誘ってな」「直ちゃん、神様って、ありがたいなあ。どんな時もお願いさせてもらうわ」と言ってくれています。神様を親と思い、おすがりしていくことが信心だと自分では頂いています。
 私は、神様から命という宝物を頂きました。子どもたちへの信心の継承のために、「家族全員で教会へお参りをする」「何が何でも子どもを連れてお参りをする」「家では神様の前で子どもたちと一緒にご祈念をさせていただく」ことを実践させていただきました。どんな時も、どんなことも神様にお礼、おわび、お願いをするように、子どもたちに伝えています。今では、家族全員が神様からおかげを頂いています。
 今後の信心の目標として、「今月今日で一心に頼め。おかげは和賀心にあり」とのみ教えのとおり、お取次を頂き、神様の願いである「人を助け、お導きができる生き方」を求めていきたいと思っています。私は、「信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ」を信条におかげを頂かせてもらっています。これからも、神様のお役に立つご用にお使いいただけるようにと願っています。

(2016/7)

   




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