神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 10月号 神人あいよかけよの生活運動


One for All, All for One 牟田教二(福岡県・門司港教会)

復活の鍵になる言葉
 来年は、東京オリンピックが開催されます。すでに「内定者が決まった」とか、「金メダルをいくつ獲得できるか?」といった、さまざまな報道やキャンペーンが繰り広げられ、徐々に盛り上がってきています。さらに、今年の9月からは、ラグビーのワールドカップも日本で開催されます。
 ラグビーは、背の高い人や低い人、太っている人や痩せている人、さまざまな体格の選手が一つのチームとなって、一つのボールを、自分より後方にいる味方にパスをつなぎながら、相手ディフェンスをかわして前進し、相手陣地を目指す競技です。それぞれの体格に応じて、それぞれの役割を理解し、勝利という目的に向かってお互いに協力することが求められます。自分勝手な一人よがりのプレーは通用せず、チームのため、みんなのために働き、またチームは、一人の選手が十分に活躍できるようにサポートします。その精神を「One for All, All forOne(一人はみんなのために、みんなは一人のために)」という言葉で表されています。 この言葉の由来は、1618年のボヘミア、今のチェコで、カトリックとプロテスタントとの間で起きた30年戦争の時に、プロテスタントの指導者が一致団結する時に述べた声明文の一節だそうですが、それが後にスイス国民のモットーとなったり、小説『三銃士』の文言となって広まったようです。そして現在では、ラグビー選手たちのモットーとなっています。
 私は、ラグビーを専門にしていたわけではありませんが、小学校の朝礼で校長先生がよく、この言葉を話していました。特に金光教の教勢が低迷している今日、私は、このフレーズが復活の鍵になるのではないかと思っています。それは、みんながそれぞれのところで、一人の氏子の助かりに向けて祈りを結集する、ということです。
 今、「取次の形骸化、信心の枯渇」が起きていると言われています。そのため、「結界取次による助かりの実現」に向けて、いろいろと取り組みがなされており、特に教師の育成に力点が置かれています。全教の教師が今一度、先人たちのような取次力を復活できればいいとは思います。しかし個人的には、教祖直信や昔のような高徳な先生方、今風に言えば、信心のエリートを組織として輩出するのは限界があるのではないかと思っています。
 それは教師の立場での発言としては失格でしょうが、むしろ私たちは、徳のない者だという自覚を持ち、いい意味で開き直って、徳のない私たちにさえも、神様は「人が助かる」ということを期待されており、「人が助かることさえできれば、それで結構である」という教祖様、神様の願いに向けて、私たちは何ができるのかを求めていくべきではないかと思うのです。そこには、教師も信徒もないチーム作りが必要だと感じています。


言葉が通じない中でも
 私は1995年から約10年間、北米とハワイで御用する機会を頂き、アメリカ社会で布教されている先生方と一緒に、信心のお育てを頂きました。日本からアメリカに行かれた先生方の中には、英語をそれほど理解せずに渡米された方もおられます。日本からアメリカに移民された1世やその子どもたち、ビジネスや留学で渡米された方々、新移民1世と言われる人たちは、日本語が分かりますので、教会にお参りしてお取次を願っても話ができます。けれども、3世、4世、5世ともなると、「話を聞いて助かる道」と言われているにもかかわらず、日本語が通用しないのです。ですから、このお道が次第にフェードアウトしてきています。北米では40年ほど前から英語による布教に切り替えていますが、決して、信心継承がうまくいっているとは言えません。 日曜日に教会へ行くという習慣があるアメリカ社会では、平日にお参りして取次を頂くことが少なく、先生方も祭典や祈念が中心となっていました。昔、儀式は無言の説教と言われていましたが、日本風の儀式ではアメリカ社会には伝わりにくく、お結界に行っても言葉が通じないので、難儀のもとが理解されません。
 このような状況を目の当たりにさせていただいた時、結界取次の崩壊は言い過ぎかもしれませんが、そんな印象を受けました。祈念力のある先生には、不思議とおかげを頂くという印象で参拝される方もいますが、次世代にはつながっていないように見受けられます。その頃から、言葉が通じなくても人が助かることはできないのか、どうすれば人が助かり、このお道が広まるのかを考えるようになりました。

祈りが持つ可能性
 そんな時、新聞に興味深い記事が掲載されていました。それは、「アメリカのある病院で患者を2つのグループに分けて、回復の違いを調べた」という論文の記事でした。片方のグループには通常の治療をします。もう片方のグループには通常の治療に加え、患者には知らせずに患者のことを他人に祈ってもらうという内容でした。
 祈られていないグループ側の患者さんは、いくら祈られていないと言っても、家族の祈りが込められているでしょうが、祈られているグループ側には、全く関係のない人たちからも、回復を祈られているということがみそです。祈る人たちも、患者といっても他人ですから、どれほどの祈りを捧げていたのかは分かりませんが、祈られていることを知らないにもかかわらず、祈られているグループ側の方が回復が早かった、という報告でした。
 この記事を読んだ時に、小学校の校長先生が言われた「一人はみんなのために、みんなは一人のために」というフレーズが甦りました。大勢の祈りが一人の患者さんを助けることにつながっているんだと。たとえ自分が他人から祈られていることを知らなくても、祈られている人は助かっていくということなのでしょう。
 教祖様や昔の高徳な先生は、一人で千人分、万人分の祈念力があり、神様のおかげを受けることができ、人を助けられたのだと思います。では、徳のない我々はどうすればいいのか。それは、一人ひとりの祈りを集めることで、高徳者と同じ状況を作ることだと思います。神様は、親様と言われているように、私たちの魂の親ですから、子どもの願うことは聞いてくださいます。
 例えば、一人の子どもが親にお小遣いの値上げを頼んだとします。その時、兄弟が一致団結して親に頼んだらどうでしょう。「弟は最近、勉強を頑張っているし、私たちもお手伝いするから」と、弟のために兄姉も共に嘆願すれば、親も「あの子たちがそこまで言うのなら」となることもあります。一人では成し遂げられないことでも、大勢で嘆願すれば願いがかなうこともあるように、一人の氏子が助かるよう、神様へ連判状を出すような祈りがあってもいいのではないかと思います。まさに、「みんなは一人が助かるために」祈ることだと思います。


現代版の祈りの結集
 今では通信機器の発達で、いつでもどこでも、いろいろな情報を得ることができ、また、発信もできます。その一つにSNS(インターネットを介して人間関係を構築できるスマホ・パソコン用のWebサービスの総称)があります。私が在籍している門司港教会では、「LINE」を利用してグループを作り、信者同士の祈りの場を設けています。最初は、女性部メンバーの連絡手段だったのですが、教会長であった義母の入院がきっかけとなり、男性陣も加わって、教会長の現状報告や病気回復の祈りの場となり、教会長帰幽後も、単なる連絡手段にとどまることなく、祈りの場、信心共励の場として続いています。
 私は各教会が作っている日めくりカレンダーを利用して、その日の教えを発信したり、メンバーの方も、自分の子どもさんのことで「今日から期末テストがあります」とか、「○○の仕事があり、都合よく進みますように」とか、「今日は○○さんのご命日です。御霊様の道立てを祈らせていただきましょう」、「今ある平和が大勢の人の命の上に成り立っているのだということを思い出して、日々の祈りを厚くさせていただきましょう」などのメッセージを発信し、さまざまな事を祈り合っています。
 そして、次第に門司港教会のメンバーだけではなく、個人的に知り合った人の事も、当事者の許可を得て、グループラインに載せ、その方の助かりを祈らせていただいています。これは私の個人的な感覚ですが、教会の信者さんたちは、日々の生活で自分や家族の事だけでなく、見ず知らずの人の事も祈って神様とつながる稽古ができ、その実が上がっているように感じています。


天地書附に込められたもの
 教祖様は、明治6年に政府から「神前を撤去せよ」という命を受けて、人を助ける行為ができなくなりました。布教ができなくなった時、奥に下がって、あらためて神様と対峙し、対話をされた時に「天地書附」が生まれました。そして、それを参拝者に配り、「日頃から目につくところに貼りなさい」と言われました。教祖様が何もできなくなった状況をあらためて考えた時、教祖様は、「自分がいなくても、この広前に参拝できなくても、一人ひとりが神様とつながればいい。神様を日々の生活から離さなければいい。そのために、この書附を目につくところへ貼るなり、置いておくなり、神様を忘れない生活をすればいいのだ」という思いだったのだろうと拝察します。言い換えれば、「天地書附」は信心を分かりやすくした一種の布教文書であったのではないかと思えるのです。
 教祖様は布教当初、布教公認のために宮建築を進めたり、布教のための資格を得ようとしたり、社会に向けて、いろいろな手立てをなされていましたが、神様、教祖様は、「人が助かりさえすればそれでよい」ということを中心軸に据えて、制度的なことでお道の信心を曲げることはされませんでした。
 このお道を広めるには、教師も信徒も関係ありません。取次をする先生の取次力、祈念力、信心の成長は必要なことではありますが、一人ひとりの心の中に神様を見いだし、神様とつながっていく信心生活をすること、つまり、「天地書附」の信心をすることだと思います。天地金乃神様とご縁を頂いた我々は、たとえ小さな徳や祈りの力であっても、むしろ、小さいがゆえに団結して、人のことを祈り、人が助かっていく、このお道を広めていく信心をしていくことが大切なのだと思います。
 元教監(今の教務総長)であった安田好三師は、「みんな取次者になろう」とおっしゃったとのことです。教師と信徒、そんな立場は抜きにして、「One for All, All for One」という精神をもって、共に育つ「取次ぎ助け」の働きができるように、一人ひとりが取次者となるような気持ちで、人の助かりを祈り、その祈りを合わせることが、今、必要なことではないかと思っています。
(2019/10)

   



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