信心運動

HOME › 教会信奉者の方へ › 神人あいよかけよの生活運動 › 「教報天地」運動のページ

教報天地 2月号 神人あいよかけよの生活運動

「神のおかげにめざめ」について

 昨年八月に開催された「運動」に関する会議で、発題を受けて協議された内容を、前回に続いて掲載する。

● 「神のおかげ」には大きく分けて、「信心せんでもやってあるおかげ」という世界と、自分の願ったとおりのおかげを頂くという二層がある。大方の信心は、自分の願いどおりのおかげを頂くことが中心だが、直信先覚のところでは、「信心せんでもやってあるおかげ」にめざめるということが語られており、それが信心のスタートであり、土台となっている。天地の大恩に報いるためには、「生活即信心」にならざるをえない。それが教祖様が求められたものであり、そこに還っていくことが大切ではないか。

● 参拝した氏子に、「天地の道理とはこういうことであり、私たちは神のおかげのなかに生かされている」と言ったとしても、それが分かるかどうかは別問題であり、そこには時節もある。「願い」の二行目に「神のおかげにめざめ」とあるが、「お礼と喜びの生活をすすめ」ていくなかで、ある時にふと振り返って、「あれもおかげであった、これもおかげであった」「すべて神様のお働きのなかでのことであった」と、「神のおかげにめざめ」る人も多い。必ずしも、一行目、二行目、三行目という順番で信心が進んでいくとは限らない。

● 「よい話をしていく運動」で、「願い」の最初に「天地のいのちに生きるわれとして」とあったが、ある先生が「その文言だけでいい」と言われた。私はその時、「心をときはなし」「よい話をしよう」という文言のほうが実践につながると思ったが、先生が言いたかったのは、「天地のいのちに生きるわれとして」という意味が分かれば、自然に実践につながっていくということだったと思う。

● 四代金光様は、「おかげのなかで難儀をしておるから助かるのであります。難儀のなかにおるのであったら、どこへいっても難儀であって、どうすることもできんのでありましょうが、天地の限りなき恵み、教祖様のおかげ、そういうなかでいろいろなことが起こっているのであります」とおっしゃられた。問題を抱えて参ってきた人といっしょに難儀のなかに入り込んでしまったら、出口がない。取次者は、「信心せんでもおかげはやってある」といわれるなかでの難儀であることを芯にして、教導しなければならないのではないか。

● 「信心せんでもおかげはやってある」と聞いて、「それなら、なぜ信心する必要があるのか」という問いが返ってくることがある。その問い返しを自分が受けて、どう深めていくかが問われている。「天地金乃神様の広前は世界中である」と聞いて、「神様の広前が世界中なら、なぜ教会に参る必要があるのか」という問いも同じことだが、それは本来、この道の信心が教祖広前で生まれ、神様のお広前のなかにあるという実感が、自分のなかでどんどん展開するうちに、気がつけば、神様のお広前は世界中だったという驚きがあってのことである。

● 先輩の先生方は、「神様とつながることによって、問題は解決しなくても幸せは得られる。わが心のなかに神様が生まれなければ、助からない。そうならなければ、そもそも人間は助からない存在なのだ」と確信されていたのではないか。

● 「おかげ」や「助かり」ということを整理しなければならない。問題を抱えた氏子がお取次を頂いた時点で、神様がお引き寄せになったのであり、神様がその問題の奧にある難儀をどう見ておられ、どう助けたいと思われているのかが、高徳の先生には分かられた。だからこそ、問題を置いてずばり核心に入ったり、「日を切ってご祈念させてもらいましょう」と言えたのではないか。それが見えにくい私たちには、助かりや信心の筋道を求めることも大事である。

● 「神のおかげにめざめ」の「めざめ」は、単に気づくということではなく、それぞれが頂いている分けみたまが震え、命が叫ぶような感覚だろう。取次唱詞で「生神金光大神御取次 真一心に願わしめたまえ 日に日に新たに頂かしめたまえ」と、「願い」の一行目そのままに唱えているが、その中身が問われ、お結界でお取次を願うことを、教師も信徒もできているかが問われている。私は、「お結界で全部吐き出しなさい。それを神様にお届けします。あとはお知らせがあるから待ちなさい」と言っている。「それぞれに神様のお働きがあり、それをキャッチするため、日々油断せず、神様に心を向けなさい」と教導している。

● 「神のおかげにめざめ」を、よく天地の大恩という言葉で説かれることがあるが、神様の願いや働きは、神様と教祖様との間でも「どうしてこういうことができただろうか」という世界であった。とらえ方が偏ると、天地のお働きのようなおかげが中心になって、具体的な貧・病・争に関わるおかげや、取次によって現れる神様のお働きが語りにくくなるのではないか。天地の恩徳を分からせていただくというところに力を入れていくと、人間には分からない部分を分かったかのように思ったり、信心の筋道を示せば示すほど、神様が分かったように語ったりする。そこには緊張感がいる。

● 先輩の先生方は、広大無辺な天地のお働きのなかに生かされている自分であることを、信心の稽古をとおして求め、めざめさせられていくことこそ大切であり、それが神様と自分との間柄を深めていくと、とらえられていたように思う。「凡夫の自覚」という言葉も同様で、神様の分からなさを絶えず自覚され、分かったつもりになっていることを問題にされた。自分に理解可能な天地であれば、そこで信心が止まってしまうが、本来、天地に向かって常に前に進むイメージが先輩方にはあったのだろう。

● 神様のことを話せば話すほど、神様を小さくしてしまうことがあるかもしれないが、大切なことは、自分の言葉で神様と自分との関係を話すこと。例えば、幼いわが子が絵を描いた時、親には何を書いているか分からなくても、「これはお父さん」と言われると、自分のことを懸命に表現してくれたことがうれしい。それが神様のお心ではないか。知識や表現は拙くても、稽古をしていくことで、どんどん大きくなっていかれる神様であるという視点がいる。

● 今日まで何度もおかげを頂いてきたが、それらは別々のものではなく、全部つながっていて、「氏子助けたい」という神様のお働きがいつも私を包み、見えるおかげ、見えないおかげを頂いて、今日の自分がある。過去の事柄は変わらないが、信心の目で整理していくと、その意味が変わる。「あれもおかげであった、これもおかげであった」ということにつながる。そのおかげに込められた神様の願いは何か。助けられた自分は何をすればよいのか。「おかげの自覚」には、それだけの深みがある。

● これまで「立教神伝」に本教立教の意義が集約されていると言われてきたが、教祖様のご生涯全体に神様の願いが現されていると感じる。
 「万国まで残りなく金光大神でき、おかげ知らせいたしてやる」と言われるように、神様のおかげを知らせることに生涯を捧げられ、親神様のおぼしめしを貫かれたご信心が、教祖様のご理解や先人の信心をとおして伝わってくる。「運動」は、「神も助かり、氏子も立ち行き」という世界を目指しているが、天地の大恩、神様のありがたさを知ることが「神が助かる」という道筋であり、「難儀な氏子を取次ぎ助けてやってくれ」と言われる取次の中身である。それを自己確認することがいる。

● 「神が助かる」「神が喜ばれる」という視点が示されたなかで、今日までのおかげを振り返り、そこに込められた神様の思いに出合わせていただきたい。「願い」の一行一行が語りかけてくるものを、どれだけご用のなかで実践できるか。その実感、成果、反省が、次の一歩を踏み出すことにつながっていく。

(2013/02)

   



このページの先頭へ