信心運動

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教報天地 6月号 神人あいよかけよの生活運動

生き方が変わる信心の稽古を

本年一月の「信行期間」に当たって、本部では「教祖百三十年を迎えて、『神人の道』を一人ひとりの生活に」というテーマで、「朝の教話」が行われた。そのなかから、「神人あいよかけよの生活運動」に関わって、福田浩師(大阪・城北)が話された内容を紹介する。

お取次を頂く稽古
 本年は、教祖様百三十年、金光四神様百二十年、三代金光様五十年のお年柄である。私たち信奉者にとって信心の節目と頂き、ここから一人ひとりの信心が神様、教祖様、歴代金光様にお喜びいただけるよう、お育てを頂いてまいりたい。
 信心のお育てを頂くには、不断の稽古が必要であり、私なりに「神人あいよかけよの生活運動」に一年間取り組ませていただいたが、「運動」の「願い」の一行一行は、願いであるとともに、信心の成長の姿を現したものであると頂いている。
 今年の正月に、修徳殿講堂で「吉備遊び」が催された。昨年末に事前の発表会があり、さまざまな年代の子どもたちが自分の演目を発表したが、その時は「まだ稽古が十分ではないなあ。当日は大丈夫かな」と思うところがあった。ところが、本番では一人ひとりが見事に演じ、感心させられた。まさに、稽古の積み重ねのたまものであろう。
 このたびの「運動」が発足してから、私自身、自らの信心の稽古ということを考えるなかで、ふと思わせられたことがある。それは、「願い」の一行目に「御取次を願い 頂き」とあるが、教会で御取次をさせていただく立場にある私自身が、では、どれほど御取次を頂いているか、ということであった。
 そのような思いのなかで、教主金光様の奥様が毎朝、ほぼ決まった時刻に、本部広前に参拝され、お結界で金光様の御取次を頂かれる姿を見せていただいた。ご家庭にあっては夫でもある金光様と、いろいろ会話もなされるであろう奥様が、日々、金光様の御取次を頂かれるのはどういうことであろうか、と思わせられた。
 奥様のお気持ちを拝察するに、一人の信奉者として、神様に今月今日たまわった命の御礼を申され、ご家族のこと、関わりある方々のこと、ご自身のことなど、御取次を頂いておられるのであろう。ところが、私自身の手元を思えば、在籍教会を離れてご用させていただき、留守を勤めてくれている妻に、信者さんのお届けや家族の様子を聞かせてもらいながらも、あらためて自分自身のことについて御取次を頂いていないことに、気づかせられたのである。
 数十年前のことになるが、岡山県天瀬教会の教会長であられた故・秋山佑一先生に聞かせていただいたお話がある。まだ先生が幼い頃、蚊に刺されたことを三代金光様にお話しされると、三代金光様は、わが子であっても、「はいはい、神様にお願いさせていただきましょう」と、どこまでも一人の神の氏子として、その願いを取次いでくださったという。そのご姿勢こそ、まさに教祖様に始まり、歴代金光様が現してくださっている御取次のご内容であると思わせていただく。
 そのことに気づかせていただいてからは、一日の始まりと終わりに、在籍教会の御取次を頂く稽古に取り組ませていただいている。その稽古をとおして、信心のお育てを頂き、「神も助かり、氏子も立ち行く」といわれる「神人の道」を現すおかげを頂いてまいりたいと願っている。

生き方が変わる
 さらに御取次の働きということで、あらためて気づかされた話がある。ある教会の信者さんが、先生に次のように御取次を願った。
 「私は親孝行がしたくて、親に毎月お金を送りたいとお願いしています。しかし、生活が苦しくて、送れない時があります。神様は親孝行をお喜びになると聞いていますが、これだけ一生懸命願っているのにできないというのは、どういうことでしょうか」
 その時、先生はご祈念をするなかで、「残飯」という言葉が心に浮かんだ。そして、「あなたは親孝行というけれども、それは親に残飯を食べさせているようなものです。まず、毎月初めにその分のお金をよけて、先に親に送らせてもらいなさい。あとの残りで、自分たちの生活をさせていただきなさい。それが本当の親孝行ではないでしょうか。それで足りないなら、その分を神様にお願いして、おかげを頂くのが筋でしょう」と話された。
 信者さんは、その御取次を頂いてからは、毎月初めに親に送金し、足りない分を神様にお願いするようになった。すると、月末にはきちんと家計の帳尻が合い、商売もだんだん繁盛して、思う以上のお金を親に送ることができるようになった。
 これは、御取次をされた先生も、御取次を願われた信者さんも、その事柄をとおして真剣に神様に願われ、先生がそこから頂かれたものを話されることによって、信者さんも親孝行の本当のあり方に気づき、生き方が変わらされていった。そこに、自らの願いを遙かに超えた神様のおかげが生まれてきたことを物語っている。

神様が生まれる信心
 教祖様は、山口県熊毛教会の初代教会長であった徳永健次師に、「私のことを人が、神、神と言いますが、おかしいではありませんか。私が、なんの、神であろうぞ。私は、何も知らぬ、土を掘る百姓であります。… あなた方が神様のお子でありましょうが。生神ということは、ここに神が生まれるということであります。私がおかげの受けはじめであります。あなた方もそのとおりにおかげが受けられます」と伝えておられる。
 御取次の場は、まさに神様のお働きが生まれてくる場である。お結界で思いや願いをお届けし、それを聞いていただくということだけではなく、その御取次によって、自分自身の生き方が変わらせられ、命のありようが変わらせられてくる。そこに神様が生まれてくださる。そういう信心を、私たちは頂いている。
 真剣に御取次を願い、頂き、神様のごひれいが輝くような信心にならせていただきたい。そのための稽古が今、求められている。自分の生き方が変わることによって、神様、教祖様、金光様にお喜びいただける信心へと進ませていただきたいと願っている。

(2013/06)

   



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