神人あいよかけよの生活運動

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教報天地 8月号 神人あいよかけよの生活運動



 平成26年度教師研修会で、「神様のご演出─今、おかげの船に乗るがよい─」と題して行われた青木洋師(兵庫・柏原)の講話要旨を紹介いたします。


予想外の贈り言葉
 私は教会で生まれ育ちましたが、神様の存在を信じることさえできないまま、厳しい父への反発もあって、学生生活を送った大阪でしばらく会社勤めをしていました。
 ところが、上司の自殺や精神疾患に悩む同僚との出会い、複雑な人間関係の争い事などを体験したことで、財や地位や名誉を与えられても満たされることがなく、「生きがい」という生きる価値を問い求めるようになっていきました。
 「世のお役に立つ人にならせてもらいなさい」と教え育てられた私にとって、まずは両親が頂いている金光教の信心に、その「生きがい」があるのか。そのことに興味を持ち、疑問も感じるようになり、その答えがあるかもしれないという思いで、金光教学院に入学してみようという気になりました。
 退職手続きをして帰る道中、たまたま大阪で金光教の教会を見つけました。私が学院に入学することを話せば、この教会の先生も喜んでくださるに違いない、きっと歓迎されるだろうと期待して、お参りしました。
 お結界に進むと、修行生のような方が下手に座っておられました。教師子弟であることを伝え、「このたび学院に入学させてもらいます」と言うと、残念そうな表情で「そうですか」と言われるだけでした。拍子抜けした私に、「実は私も、教師を志して学院に入ったのですが、卒業して戻ると、師匠から『教師とはなあ、石の上で血が流れるまで人のことを一心に願い、その血をアリがなめてもありがたいと思えなあかんのや』と言われました。そんなことを私はようしません。教師にならんかったらよかったと後悔しました」と言われました。みんなに祝福されて学院に入ろうとする私には、あまりに衝撃的な言葉で、想像以上に厳しい世界に入ることへの覚悟と不安を感じずにはいられませんでした。今にして思えば、その言葉は私への最高の贈り言葉であったとお礼申しています。

おまえの宗教は本物か
 ちょうどその頃、高校時代の親友が他の宗教に入信し、熱心に活動していました。そして、互いの宗教を理解してもらおうと語り合う日々が続きました。自分の信じる宗教に自信を持つ彼との違いは歴然で、「おまえの宗教は本物か?」と問われました。「本物や!」と言いたいけれども、正直なところ分かりません。「金光教など辞めて、うちの宗教に来い」と、自分の宗教をアピールできる姿がうらやましくも見え、「金光教は果たして本物なのだろうか? 神様っておられるのだろうか」という疑いさえ起こってきました。
 私は「本物や!」と言いたいために、教会長である父に尋ねました。
 「お父さんは長いこと信心してるけど、金光教は本物か?」と尋ねると、父は「教祖様はこういう方でなあ。こういう教えがあってなあ」という話ばかりで、私が求める答えからはほど遠いのです。私はただ本物であることを証明してほしいのであって、そんな昔話や他人の話はどうでもいい。「今、ここで神様を見せてほしい」と毎日迫ると、父は困り果てて、ついに「『どうぞ神様、分からせてください』と、神様にお願いしなさい」と申しました。私は腹が立って、「神様がいるかどうかも分からない者が、何で神様にお願いなんかできるんや。神様がありがたいと分かっているからこそ、お礼も言えるんやろうけど、分からん者にできるはずがないやろ」と食ってかかると、「あんたは理屈ばかり言うから話にならん。もう好きなようにせえ!」と言われてしまいました。
 入学の日が近づいてきました。何としても神様の存在を感じたいと思い、ご神前に向かい、「本物やったらバチでも当ててみんかい」と、けんかを売り続けていますと、ついに神様がお答えくださり、偽物ではないことを確信して入学することができました。

わが計らいを去って
 学院在学中、ある先生が私に、「あなたが誰かとけんかをして、相手を殴りたいと思った時、その場で神様に『この人を殴りたいのですが、よろしいでしょうか』とお尋ねしなさい」と言われ、驚きました。誰とも仲良くしているのに、なぜそのようなことを言われるのかと不思議に思う私に、「神様が殴ってもよいと言われたら殴ればよい。殴るなと言われたら殴らなければよい。何も言われなければ、言われるまで待てばよい」と教えられました。はじめは、「たとえ感情が高ぶっても、その場で神様に向かうことによって気を静め、感情をコントロールしなさい」という意味だと受け止めましたが、学院を卒業して一年ほどした頃、自分や信者さんの願いをお届けする体験をとおして、神様のおぼしめしに寄り添うとはどうすることかとの問いに、このみ教えの意味するところを気づかされたのです。
 「神様が『殴れ』と言われたら殴ればよい」という中身には、「殴ってはいけない」ということを前提に教えられてはいないということ、つまり、人間の善悪の判断をも捨てて、まずはありのままに願い、後はすべて神様に任せていくこと。神様からお許しを頂ければ、殴っても立ち行く道があるのだということです。神様にお願いをする時、先に結論を決め、その願いが届くか届かないかを人間考えで判断してしまうことが多いのですが、それが神様のみ心に近づいているのかといえば、どうも違うような気がします。「殴りたい」は例えであって、「○○したい」という自分中心の考え方すべてに共通して言えることだと気づかされました。
 私自身、これまで歩いてきた道を振り返ると、なんという自己中心的で身勝手な生き方をしてきたか。神様の声に耳を傾けることもせず、われよしとして、人を押しのけ、人を責め、「○○したい」という我情我欲の道を「真の道」と思い込んだり、無理を通したり、知らず知らずに多くの人を巻き込んで歩いていたことにも気づかされました。自分の正体が見え、神様のお働きにお礼申し、至らぬところをわびずにはおれない思いにならせてもらえたのです。
 今、この教えは、結界取次の中心に据え、氏子の願いを届ける無条件の祈りと、取次の働きに願い任せるあり方を、常に問うてくださっています。

お育てくださる神様
 教師を拝命して間もなく、金光教全国青年教師連盟に教区代表として出席しました。参加者と楽しい時間を過ごした最終日の前夜、執行部の方々に呼ばれ、「会計を担当していた人が急に辞めなければならなくなったので、あなたに引き受けてほしい」と言われました。突然のことでもあり、数字も苦手な私は丁重にお断りしました。
 すると翌朝、再度ご依頼があり、最後まで押されて、とうとうお受けせざるをえなくなりました。納得できない気持ちと不安な思いのまま、本部広前に参拝すると、四代金光様がお結界にお座りになっていました。引き寄せられるようにお結界に進み、ついその思いを吐き出してしまいました。
 すると、金光様は、私のほうを振り向かれ、「あのなあ、不安を土台にしてはいかんなあ」と、お言葉をくださいました。「小学生には小学生の勉強があるじゃろう。神様は、小学生の子に中学生の勉強をせいとはおっしゃらん。幼稚園の子に小学生の勉強をせいともおっしゃらんからなあ。1年生には1年生、2年生には2年生の勉強があって、神様は無駄事はなさらん。『信心も手習いも同じ事、一段一段進んでいくのじゃ』と教祖様が教えてくださっているように、お育ていただけば楽じゃ。要は、神様に使うてもらうことが大事じゃからなあ。使うてもらうには、お育ていただかなければなあ」と、諄々(じゅんじゅん)と説いてくださったのです。
 そのお言葉の一つ一つが心に染みてきて、「ますますご用にお使いください」と口を突いて出てしまいました。すると、金光様は、お広前に響きわたる大きなお声で、「そうじゃ、それじゃ」とおっしゃられました。私は覚悟を決めさせられました。大切なのは、ご用ができるとかできないではなく、このご用をとおして神様にどうお育ていただくか。「それはあんたの姿勢次第じゃ」と問われたような気がしました。
 以来、このお言葉が、事あるごとに私を導いてくださいます。今の自分の信心は何年生か。幼稚園児は先生が遊んでくれたり、ご褒美ももらえますが、小学生も高学年になれば勉強も難しくなってきます。中学生になったら試験があります。信心のうえでも、時に神様が試験をされたり、補習をされたり、大目玉をくださることもあります。義務教育が終われば、自ら求める勉強が必要になるように、自ら求める信心になっているかどうか問われてきます。

恐れ多い神様
 「神様は無駄事はなさらない」との金光様のお言葉どおり、神様はさまざまなご用をとおして、無理なくお育てくださろうとなさいます。在籍教会から車で三十分ほどの所にある教会が教師不在となり、その教会の管理をさせていただくことになりました。月例祭に数人の信者さんがお参りされるようになり、在籍教会から通って、教会長代行のご用をさせていただくという恵まれた環境を頂きました。ご大祭や葬儀の祭主も経験させていただきました。まさに神様が、手取り足取り教えてくださるようにお育てくださいました。
 その教会にも慣れたある日、ご神前のお掃除をしようと、神殿に上がった瞬間、背中に痛みが走りました。体が動かなくなり、ねじ伏せられるように床に倒れ込みました。まるで自分の部屋のように、ずかずかとご神前に入った私に、「おまえの力で掃除できるものならしてみい」と言われたようで、這(は)うようにしてご神前を下がり、改まった思いで黒衣に着替えて、お掃除をさせていただきました。
 翌日、在籍教会でもご神前のお掃除をさせてもらいました。ところが、前日にそんな目に遭ったのに、ここはわが家の広前だからという安心のなかで、ずかずかと拝礼もせずに上がった神殿の床にねじ伏せられました。またまたおわび申してご神前を下がり、着替え直して、ご用にお使いいただきました。以来、私は、畳に額を付けて拝礼するようになりました。お優しい神様ですが、恐れ多い神様でもあることを教えられた体験でした。
 今でもよく神様にお気づけを頂きます。そうした体験をとおして、次第に神様が私の一歩前を歩いてお導きくださっていると感じるようになりました。無茶なことを言う人がいても、その人の後ろで神様が言われているような思いにもなります。人と出会うと、神様が私のためにその人を引き寄せてくださっていると受けさせていただくようになり、それらはすべて「神様のご演出」というとらえ方をするようになりました。

すべておかげのなかの出来事
 先日、本部広前の月例祭にお参りさせていただき、いざお届けしようとした時、上着のボタンが欠けて畳に落ちました。「おやっ」と思い、ポケットに欠けらを入れ、お結界でお届けしました。
 その後、教祖様の奥城を周り、歴代金光様の奥城に向かっている時、ふと、四代金光様から頂いた「ボタンの掛け違いをせんようになあ。お礼が先じゃ」というお言葉が浮かんできました。最初のボタンを掛け違うと、後は全部ずれていきます。なぜこんなことになったのかと後悔する時、大概、お礼が土台になっていなかったことに気づかされます。この時も思い起こせば心当たりがあり、「ああ、ボタンの掛け違いだった。まさにお礼を土台にしてなかったなあ」と気づき、お広前に戻って、「お礼が足りませんでした」と、お結界でおわび申し上げました。
 たまたまボタンが欠けたことによって、お気づけをくださったのです。「順序を間違わないように」という四代金光様のお取次が、今も私のなかで生きていることをはっきりと感じさせていただきました。
 いろいろな体験をとおして、次第に神様のご演出に生きるという生き方に変わってきました。言うまでもなく、人生の主人公は自分自身です。神様は、私という主人公がどのように成長していくのかを楽しみに、私が育つためのシチュエーションを整えてくださいます。人との出会いや関係も、そこで得る知識や感動も、すべて神様のご演出によって成長させていただいているのだと思います。起こりくる事柄すべてに無駄事はなく、神様の大いなる願いが込められているという受け方を、とことんまでさせていただきたいと願っています。
 日々のご祈念にもその願いを込め、「起こりくる御事柄に現れし神様の願いを、聞き違い、受け違い、説き過ちいたしませんように、今月今日の改まりをもって、ますます信心向上、一切安心の大みかげをこうむらせていただきますよう、お願い申し上げます」とお唱えして、それぞれの事柄のなかに神様の願いを見逃さないように、おかげをこうむらせていただいています。私たちみんなが、すでに大きなおかげの船に乗っているのですから、生き生きと元気な心で、神人生活をさせていただきたいものです。
(2014/8)




   



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