神人あいよかけよの生活運動

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教報天地 9月号 神人あいよかけよの生活運動


本部広前月例祭(5月10日)祭典後の教話で、堀尾光俊師(大分・日田)が話された内容を抜粋して紹介いたします。


信心をする、信心になる
 ご霊地参拝の折、私と妻が新幹線に乗ると、ほぼ満席のなかで2人がけのシートに座ることができました。すぐ前の席も空いていましたが、同時に乗り込んできた1人の女性が窓側の席にバッグを置き、自分は通路側に座って寝たふりをされたのです。その後、別の乗客が乗ってきましたが、眠った様子の女性に声をかけられず、次の車両に移っていきました。ところが、新幹線が出発するや、女性は体を起こして、バッグからお菓子を取り出しました。「ゆっくり1人で座りたい」ということだったのでしょう。
 3人がけシートの通路側に座り、真ん中の席には荷物を置いて、テーブルを倒してパソコンを打つ人もよくいます。窓側の席は空いていても、「座りたいので通してくれ」とは言いにくいものです。それは人としての思いやりに欠けているのではないでしょうか。
 以前、エレベーターに乗っていて、たまたま入り口近くにいた私が、操作盤の「閉」ボタンを押しました。その瞬間、「待って!」と声が聞こえ、慌てて「開」ボタンを押すと、二人の婦人が乗り込んできました。ところが次の階に止まると、その婦人が「これ以上乗るのは無理。早く閉めて!」と言うのです。自分が後ろに詰めれば、待っていた人が乗れるのです。「信心にご縁を頂いておれば、決してそういうことはないだろうな」と思いました。


 昨年、本部の教祖130年生神金光大神大祭に参拝させていただいた時のことです。大型バス2台に3教会合同で、約90人が乗り合わせての参拝でした。普段、教会で参拝させていただくと、前日に金光様のお退けをお見送りした後、祭場北口で記念撮影をします。ところが、その日は土砂降りの雨で、いつもは会堂正面で記念撮影をする他の団体も、祭場北口に押し寄せてきました。私たちはその場を追いやられ、急遽(きゅうきょ)、祭場内の階段に移動しました。
 そんな時、信者さんの言動に2通りあります。「いったいどこで撮るんですか」と不平がましく言われる人と、「ご苦労でございます。おしめり(雨)を頂いて、農作物が喜んでいますね」とお礼を言われる人です。信心の段階の違いともいえるでしょう。
 「私は何十年来、信心していますので」と言われる方には、危うさを感じることがあります。「信心をする」と「信心になる」とは違うのです。それを知って稽古させていただかないと、上手に使い分けるようになります。「口に真(まこと)を語りつつ、心に真のなきこと」というみ教えがあるように、教祖様の時代にもそういう方がおられたのでしょう。
 私自身、「信心する人の真の信心なきこと」というみ教えがずっと問題にさせられています。お道の信心をさせていただいておれば、家族や周辺の人たちから好かれ、頼りにされます。そうでなければ、どこかお道の信心から外れたところがあるということです。「目覚め」「気づき」「悟り」「改まり」、これらがなければ信心は成長しないのです。
 日田教会の話ですが、境内にゴミが落ちていても素通りされる方がいます。その方は、「もう30年間、信心しています」と言われます。「神は荒地荒屋敷をお嫌いなさる」という教えがありますが、神様がせっかくゴミに気づかせてくださったのに、それが拾えないのです。いくら信心はありがたいと言われても、教祖様は顔を伏せておられるような気がします。
 すぐに言い訳をして、「ごめんなさい」が言えない人もいます。しっかりご用ができていても、我(が)もしっかりしているのです。失敗しても、「すみません」が言えないのです。神様のノートには全部書かれているのに、その場で言い逃れれば、何とかなると思い込んでいるのです。こういう例を挙げると切りがありません。
 市村光五郎氏の伝えに、「神も人も同じこと。なんぼう神を拝んでも、人の心にかなわねば神の心にかなわず。神の心にかなわずば人の心にもかなわず」とあります。できるできないにかかわらず、大切にさせていただかなければなりません。

実意、丁寧、正直
 三代金光様は、「真の信心とは、実意、丁寧、正直でありましょう」と言われました。教祖伝『金光大神』には、「『実意』は、思いが行き届くこと、『丁寧』は、行いが行き届くことである」とあります。そして、常に正直であることです。
 85歳になる婦人と、24歳の孫娘さんの話です。婦人はとても孫娘をかわいがっていました。この方は、いつも七時頃にお風呂に入って休みますが、孫娘は勤めから帰って、11時頃にお風呂へ入ります。ある夜、お孫さんがいつものようにお風呂へ入り、湯船に浸かろうと左足を入れた瞬間、「ぎゃっ」と飛び出しました。婦人がお風呂の火を消し忘れて、湯が沸き立っていたのです。
 叫び声に両親が飛んできて、「お神酒とご神米と氷を持ってきて」となり、祖父も聞きつけて、「どうしたのか」「実は、おばあちゃんが火を消し忘れて」「何!」と、すでに休んでいた婦人の布団を蹴飛ばし、「起きろ!」となりました。
 婦人も驚いて、「自分の不注意で、大切な孫に火傷(やけど)の痕でも残ってしまったら、もう生きていられない」と言って、「みんなはもう休んで。後は私が冷やすから」と言うと、孫娘が、「大丈夫、おばあちゃんが悪いんじゃない。点火のスイッチが壊れてたんよ。もう痛くないから、おばあちゃんも休んでいいよ」と言ってくれたそうです。
 その後、婦人がお結界で、「あの時、もし孫から責められていたら、私はもう生きていけませんでした。ところが、私のことを思って、痛いとも言わず、『大丈夫よ』と言ってくれました」と、お礼のお届けをされました。
 その出来事があった翌日、孫娘はいつもどおり会社に行き、仕事を終え、病院に行った帰りに教会に参ってきました。「婦人はあのように言ったけど、果たしてこの子はどう言うだろうか」と思っていますと、開口一番、「先生、左足だけで済みました。お礼を申してください」というお届けでした。もし、最初に頭からかけ湯をしていたら大変なことになっていました。祖母への悪口は一言もありませんでした。
 そうなれば神様に通じます。1週間ほどで、痕も残らずきれいな肌に戻りました。この娘も小さい頃から教会にお引き寄せを頂き、思いやりの心や「実意、丁寧、正直」であることを、自然に身につけてきたのでしょう。「おばあちゃんを責めたら、悲しむだろうな。つらいだろうな」という思いが行き届くのです。そこに、おかげの世界が開け、「神人の道」が生まれるのです。


 私は時々、「皆さんは、『私は金光教の信者です』と、何を証(あかし)に言えますか」とお尋ねします。喜べそうにない出来事に遭っても、お礼が申せる。自分の思いどおりにならなくても、お礼が申せる。都合が悪いことが起こってきても、お礼が申せる。そこにお道の信奉者の値打ちがあるのではないでしょうか。
 自分に都合のよいことだけにお礼申すのであれば、お道の信奉者でなくてもできます。試験に合格できた、病気が治った、けががよくなったというのは、誰でも喜べます。金光大神様の信心を頂くお互いが、どこにその値打ちがあるかと言われれば、自分の思いどおりにならない結果が出た時です。
 では、なぜお礼が申せるのでしょうか。それは神様のお心を知っているからです。神様のお計らい、かばいにかばってくださっての結果であると分かるからこそ、お礼が申せるのです。「本来なら、こんな結果では済まなかった。神様が二重に三重におかばいくださっての難儀だ」と分かるからです。それが「おかげのなかの難儀」ということでしょう。
 「すべておかげのなかの出来事である」とよく聞きますし、よく申します。そのことに本当に目覚めていることの意味は大きいと思います。共々に、信心に生きる値打ちを現し、真の信心に近づかせていただきたいと思います。
(2014/9)




   



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