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金光教報『天地』 1月号 神人あいよかけよの生活運動


相手の喜びが わが喜びに

 本部広前月例祭(10月22日)祭典後の教話で、山下輝信師(福岡・香春)が話された内容を紹介いたします。


上杉鷹山を支えた妻
 先日、本部教庁内で回覧された出版物のなかに、上杉鷹山の記事がありました。江戸時代、鷹山は山形の米沢藩の九代藩主で、傾きかけた藩財政を何十年もかけて立て直した名君です。鷹山の有名な言葉に、「成せば成る成さねば成らぬ何事も。成らぬは人の成さぬ為りけり」とあります。その記事は、「上杉鷹山を支えた妻の存在」というタイトルでした。
 鷹山は婿養子として藩主になったが、奥方には脳障害と発育障害があり、幼子のまま成長が止まり、普通の生活ができなかったそうです。その妻に鷹山は愛情を注ぎ、ままごと遊びも一緒にする。藩を立て直さなければならない忙しい身でありながら、来る日も来る日も妻の遊びに付き合う。それを妻が喜び、それがまた鷹山の喜びにもなった。家臣の誰かに面倒を見させて、自分は藩主として藩政改革に取り組んでもよいはずなのに、幼子のような妻を大切にした。それが鷹山という人間を育てたという内容でした。
 これを信心の目で見ると、鷹山にすれば幼い妻の喜びが、そのままわが喜びになるという関係であり、その姿を親神様が喜ばれるという世界です。人と人、人と神様とは、そのような関係ではないかと思います。

「お宅はよくなりますね」
 私は野菜と果物が大好物です。とくにトマトが大好きで、食卓に出ない日はないほどです。四月のある日、「庭にトマトがあればいいな」と思いつき、宿舎前の硬い土を掘り起こして、トマトの苗を二本植えました。
 「お土さん、お世話になります。お天道さま、ありがとうございます。お湿りさん、ありがとうございます。どうぞよろしく」と毎日水をやり、「トマトさん、ありがとうございます。どうぞ元気で、おかげをこうむってください」と、自分なりに愛情を込めて育てました。
 宿舎の周りは田畑で、農家の方が多く、私がトマトを植えたのを見ておられたようです。最初のうちは「育つかな」と半信半疑だったと思いますが、ポツポツと花が咲き、やがて実がなると、行き交う人が「あら、なっている」と驚かれました。そのうちに、次々にトマトがなるものですから、隣の農家の方が、「お宅はよくなりますね。うちはこうはなりません」と言われました。
 やがて六月になり、教団独立記念祭に参拝してきた妻が、宿舎の庭の草むしりをしていました。すると、その方が妻にも、「お宅はよく出来ますね。うちはこんなに出来ません」と言われたそうです。それを聞いた妻が、「確かによう出来るね」と言うので、私は「天地のお恵み、お働きを頂いて、しっかりお礼を申してお世話させていただいているから、出来るのさ」と申しました。すると、普段は褒めることのない妻が、「あなたがしっかりお礼を申して、しっかり喜んで、しっかりありがとうと言って頂いているから、よく出来るのよ」と言ってくれました。

トマトにも心がある
 「本当にそうだな」と、私は思いました。こちらが喜んでトマトに接し、採る時も「トマトさん、ありがとう」とお礼を申し、食す時も「トマトさん、ありがとう。親神様、頂きます」と言う。その心がトマトに通じるのだと思います。私ども人間は、天地から命を頂き、親神様からお心を頂いています。トマトもトマトとして、天地から命を頂いているのですから、トマトに心があってもおかしくありません。
 「ありがたい、うれしい」という心でお世話をし、採らせていただけば、その思いは必ずトマトにも伝ります。そして、そのようにして頂くからこそ、トマトも喜び、「あなたのために、血や肉となって働かせてもらいます」となるのでしょう。
 逆に、食べて「まずい」と捨てたりしたら、トマトは泣くと思います。まして、「あなたの体の中で働きたい」とはならないでしょう。そのように思わせていただくことが、信心になるのだと思うのです。
 四月の末に苗を植え、六月から収穫が出来はじめ、五か月間ずっと続いています。もう根元は枯れかかっていますが、二本の苗には七、八十個なっています。今は近所の方も、「まだ実がなっている」と言って通ります。人間も万物も同じなのです。「ありがとうございます」という喜びの心を伝えるからこそ、物の心もそこに現れてくるのです。

共に喜び合う
 私は宗教教誨師として、刑務所と拘置所に出仕しています。先日、在籍教会の霊祭に帰った時、北九州市にある拘置所にお話に行かせていただきました。四人の方との集団面接で、一人の年輩の方を除いて、ほかは目つきの鋭い若い方たちでした。
 受刑者には話を聞く時の心得があるようで、みな背筋を伸ばし、講師の目を見て話を聞きます。私も相手の目を見て話すのですが、大勢と向かい合う時と違って、目の前の数人の方との時は力が要ります。一人ずつ目を見ながら、時には火花が散ることもあります。
 その話の最後に私は、「あなた方はこれまで、信仰の話はあまり聞いたことがないかと思います。それなのに、よく一時間も聞いてくださいました。お礼を申します」と言いました。すると、それまで鋭い目つきで聞いていた方たちが、にこっと笑顔を見せました。私は思わず、「素晴らしい、最高の表情ですね。その笑顔を忘れないようにしてください。その笑顔で人生を送ってください。あなた方は、これまで人を泣かせてきたことも多々あるでしょうが、自分も喜び、相手も喜び、その相手の喜びをもってわが喜びとするような人生を過ごしてください」と言わせてもらいました。
 お道の信心を頂いている私どもは、人と喜びを共にし、相手の喜びがわが喜びとなるような生き方、信心にならせていただきたいと思います。それが、親神様、金光様のお喜びになります。ますますおかげを頂いて、世と人のお役に立ってまいりたいと存じます。

(2015/1)

   






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