神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』2月号 神人あいよかけよの生活運動


いのちに向き合うなかで

 本部の信行期間朝の教話(一月八日)で、金光道晴師(岡山・本部/金光学園中学・高等学校校長)が話された内容を抜粋して紹介いたします。


亡くなった卒業生たち
 『瓦が礫れきの下の小説』というタイトルの本があります。これは阪神淡路大震災によって20歳で命を失った、本校卒業生である重松克洋君が書いたものです。震災後に瓦礫の下から、本人が書いた原稿用紙200枚が見つかり、1年後に出版されたものです。
 重松君は、もともと私立大学志望で、「地震が多いから東京の大学は受験しない」と言って、関西の大学を受験しました。「教員をしながら小説を書いて、うまくいったら一本立ちをする」という夢を持っており、国語と社会の両方の教員資格が取れる関西学院大学文学部に進学し、西宮市内の木造2階建てアパートの1階に入居しました。地震が起きた時、そのアパートに住んでいた7人のうち助かったのは3人で、重松君は建物に押し潰されて亡くなってしまいました。
 その小説には、重松君のお父さんも、次のような文章を寄せています。
 「男というのは、大人になったら自分がつらいとか、寂しいとかでは泣かないものだと思っていました。でも、今回は違ったなあ。仕事をしている間はいいんだけれども、終わって車に乗ると、途端に涙が出る。克洋とはこれから一緒に酒も飲めるし、男同士の話もできる。そうやって楽しみにしていたことが全部無くなってしまったんだから。
 それからまた、数か月が過ぎた。震災から間もなく1年。しかし、涙を流す数こそ減ったものの、悲しみは今なお深い。息子が残した小説は、それが瓦礫の下から掘り出されて以来、強い心の支えになりました。あのアパートの下敷きになって亡くなっただけなら、克洋の成長ぶりもつかみきれなかったと思うんです。
 でも、小説が残りましたので皆さんから見たら、稚拙な文章かもしれません。でも、親にしてみれば、いつもニコニコしていた克洋が、その裏でここまで成長してくれたんだなあ、という感慨があるんです。小説がなければ写真の中だけの克洋です。でも、小説があることで克洋の思い出もふくらみます」
 阪神淡路大震災が起きた時、高校3年生に、柿原雄樹君という生徒がいました。当時、私は、その学年をはじめて高校1年から3年まで学年主任で持ち上がったので、とても印象深い学年でした。震災が起きた日は卒業間近で、これから受験という時期でした。柿原君は、この頃から微熱が出始め、結果的には試験を受けられず、卒業後1年半余りして、19歳で白血病で亡くなってしまいました。
 最初は原因が分からず、倉敷中央病院での検査後、すぐに入院しました。友人が多い生徒だったので、はじめのうちは、同級生たちが代わる代わる見舞いに行き、私が見舞いに行った時も、病室でわいわい話をしていました。「病院なんだから、もっと静かに」と注意したほどでした。しかし、次第に体が弱り、抗がん剤治療が始まると髪が抜け、集中治療室に移ってからはガラス越しの面会になってしまいましたが、それでも、弱々しいながら手を振り、笑顔で挨拶をしてくれていました。
 白血病は、骨髄移植がうまくいけば助かる確率も高いのですが、適合する骨髄がなかなか見つかりませんでした。その後、ようやく妹さんの骨髄が適合することが分かり、移植手術が行われ、見違えるほど元気になっていきました。
 6月には、小学生だった弟のソフトボールのコーチとして一時退院をするまでに回復し、その後、甲子園球場まで大好きな阪神タイガースを応援に行きました。しかし、それはいつまでも続かず、平成8年9月4日、19歳で命が尽きました。
 病院から福山の自宅に遺体を乗せて車で帰る時、大好きだった学園に寄り、学校の周囲を回ったそうです。同級生たちは大学2年生になり、全国に散っていましたが、葬儀には百人を超える同級生が参列しました。その後、ご両親は「息子が生きた証を残したい」と言われ、「人を大切に 自分を大切に 物を大切に」という学園の合い言葉が入った銘板を全教室に寄贈してくださいました。
 重松克洋君のご両親も、柿原雄樹君のご両親もやがてわが子の死を受け入れ、悲しみを乗り越えていかれましたが、そこには、「霊(みたま)になった息子が悲しむ生き方はできない。喜んでもらえるような生き方がしたい」ということがあったようです。

故人が喜ぶ生き方をしたい
 私の甥(おい)は、平成10年、20歳で亡くなりました。同級生だった私の娘とは幼い頃から仲良くしていて、私のことも「おいちゃん」と慕ってくれていましたが、平成10年6月3日、進行性スキルス胃がんで亡くなりました。
 その年の春、なかなか胃腸の調子がよくならないので、大きな病院で診てもらうと、「これはもう難しい」という診断でした。私の同級生にも専門医がいたので相談すると、「極めて難しい」と即断されました。
 私が見舞いに行った時、甥がエレベーターまで送ってくれ、「おいちゃん、元気でなあ」と言ってくれました。その3日後に亡くなってしまい、それが私にとって最後の言葉となりました。甥が亡くなってもう17年になりますが、10年たった時、父親である義兄が、『金光新聞』に次のような文章を寄稿しました。
 〈長男の英一が20歳で急逝してから10年がたった。流れた月日のなかで、私は忘れてしまったことも多いが、妻は当時のことを克明に覚えており、故人のことを話していると涙ぐむ。世にわが子を亡くされた方の話は聞くが、まさか私たちがそうなるとは思わなかった。
 長男が亡くなったのは平成10年6月3日であった。前年末から体調がすぐれず、「胃の調子が悪い」というので、何度か胃腸科で診てもらったが、胃かいようと診断されて、薬を処方されただけだった。
 しかし、その後も様子がおかしく、総合病院で精密検査を受けたところ、「診断結果についてお話ししたいことがあるので、両親そろって病院まで来てください」と言われた。不安な気持ちで医師が待つ病院に入ると、「病名は進行性スキルス胃がんで、病状が進んでいて手術は無理です」と説明を受けた。「余命は…」と淡々と続けられる医師の言葉の意味が理解できるにつれ、「まさかこんなことになっていたとは」と、体が地面に吸い込まれる心境で、「金光様」と心中唱えながら、なかば上の空で説明の続きを聞いた。
 医師は最後に、「本人が納得していたほうが治療を進めやすいので、告知をしてほしい」と言ったが、即答できなかった。ちょうど教会の春の大祭を数日後に控えた時だったが、ご本部へお参りし、金光様に万事のお繰り合わせをお願い申し上げた。
 そして、心と体を奮い立たせるようにして大祭を仕え終えたある日、長男は自分の病状が容易でないことを悟ったのか、「隠さずに全部話してほしい」と言った。ためらっていた私たちも、意を決して真実を伝えざるをえなかった。
 息子は拳を握りながら黙って聞いた後、深いため息をついて、「僕は、あとどれだけ生きれるんかなあ」とつぶやいた。若くしていのちの終わりに向き合わなければならぬ、あまりに重い宣告に必死で耐えている姿が哀れでならず、言わねばよかったと悔やまれた。
 しかし、そんななかで何とか残された日々をおかげにしてほしい、と願わずにはいられなかった。次第に体力が落ち、弱りゆくなかで、本人にも私たちにも救いだったのが友人たちであった。毎日、入れ替わるように見舞いや付き添いに訪れてくれ、どれほどか気持ちが慰められたようであった。
 亡くなる数日前、息子は妻に対して、しみじみこれまでのお礼を述べ、5歳年下の弟には、自分の代わりに教会のことを頼むと言い残した。これが唯一の遺言になった。それから数日後の未明、静かに息を引き取った。入院以来、20日目であった。
 葬儀が終わり、次第に静けさが戻ってくるにつれ、「死なせてしまった。助けてやれなかった」「もう世界のどこにもいなくなった」という痛恨の思いや喪失感に胸が痛み、庭に飛ぶ羽虫を見ると、この虫に姿を変えていると感じられ、いのちのはかなさが身に染みた。
 「信心する者は驚いてはならぬ。これから後、どのような大きな事ができてきても、少しも驚くことはならぬぞ」「何事も神様のおぼしめし」「すべてはおかげのなかでのこと」と、心中つぶやきながらも、思いはいつしか元へ戻る堂々めぐりが半年ほど続いたであろうか。
 「神様になった」とか「星になった」とは思えなかったが、「去る者日々に疎し」のことわざのように、いつしか「ひたすらなる悲しみ」は次第に昇華され、まぶたの内に浮かぶ面影も穏やかな表情へと変っていった。今、二男は兄の願いを受け、お道の教師とならせていただいている…〉
 若くして亡くなった方々のご両親は、悲しみのなかにも、故人が喜ぶ生き方をしたいと願っておられました。私は、金光学園の生徒たちに、「いのちを大切にし、親御さんが喜ぶ生き方をしてほしい」という願いを込めて、このような話をさせていただいています。

(2015/2)

   



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