神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 3月号 神人あいよかけよの生活運動


信心はグー!

兵庫県北部教会連合会主催の運動実践信奉者集会(平成26年6月15日)で、松岡光一師(京都・墨染)が話された内容を抜粋して紹介いたします。


複雑骨折してもお礼
  「御取次を願い頂き」、「神のおかげにめざめ」るという、信心による助かりの姿として、女性信奉者であるAさんの話を紹介します。
 七十代のAさんは、三年余り前に自転車で転倒し、左膝を複雑骨折されました。膝から下を二十一針も縫い、膝に金具を入れる手術を受けて約一か月半入院し、その後は、リハビリ専門の病院に三か月ほどおられました。
 京都の清水寺に行く坂を五条坂といいますが、Aさんは体操教室の帰りに、五条坂を自転車で下りてきて、車道から歩道に上がる時、タイヤが段差に乗り切れずに転倒しました。出血はありませんが、立とうと思っても足がブラブラして、「折れている」と思ったそうです。その時、買い物で通りかかった女性が、救急車を呼んでくれました。
 教会には、入院先から電話でお届けをされました。この時のことを一通り説明されたあと、Aさんはこう言われたのです。
 「でも、頭を打っていたら大変でしたが、足で良かったです。それに、倒れたのが歩道だったから、これがまた良かったんです。車道だったら、車が通っていたので危ないところでした。また、偶然に知り合いが通って、救急車を呼んでくれたから、本当に助かりました。救急車で運ばれる時も、ちょうどベッドが空いていた自宅近くの病院に搬送してもらうことができました。家族が来るにも都合がいいし、嫁が仕事に通う道でもあるし、本当にありがたかったです」
 膝に金属を入れる大手術をしても、歩けるようになるかどうかも分からない。そういう状態の時に、「ありがたい」と言ってお届けをされたのです。

入院中もお役に立てる
 そういう方ですから、Aさんは友達も多く、いろいろな方がお見舞いに来られます。四人部屋なので、お菓子があると同室の方に分けたりして、仲良くなっていくのです。
 ある時、認知症のおばあさんが入院されました。そのおばあさんは童謡が好きで、娘さんが童謡の本を置いて帰りました。Aさんも歌が好きで、おばあさんに「赤とんぼ」を歌ってあげるんです。すると、ほかの人たちも一緒になって歌うようになりました。看護師が驚いて、「病室は、痛いとか、しんどいと言って暗いのが普通なのに、ここはすごい。みんなで明るく歌っている。こんな病室はない」と言われました。
 ある時は、隣のベッドに、九十六歳になる耳の遠いおばあさんが入院されました。看護師の説明が、よく聞き取れないのです。ふと見ると、おばあさんが自分を見て、何か訴えている。「これは私に、後で看護師の話すことを教えてほしいと言っているんだな」と思いました。看護師が帰った後、Aさんは、おばあさんの薬の世話をするのです。すると、看護師もおばあさんも喜んで、「あなたがいてくれて、本当に助かる」と言われるようになりました。
 病室はカーテンで仕切られていますが、それを開けて、「テレビ、一緒に見せて」というやりとりも生まれてきました。いよいよAさんが退院される時、そのおばあさんはエレベーターのところまで見送り、そこで「ウワーン」と泣き、「あんたもう行ってしまうんか。かなわんなあ」と、別れを惜しまれたということでした。Aさんは、「入院中の身であっても、人様のお役に立てることがありがたい」と言われるのです。
 退院後、Aさんは教会につえをついて参拝していましたが、一年ほど経ったころ、月例祭後に、車で参拝していた方が駅まで送ってくれました。その時、教会につえを忘れたことに気がつきましたが、「教会に忘れたということは、神様が『もうつえを置いていけ』とおっしゃったんや」と言って、つえなしで帰られました。
 後日、「先生、あれからずっとつえなしです。でも、今まで以上に、外を歩く時には『金光様、金光様』と、一歩一歩お願いしながら歩ませてもらいます。それで差し障りなくさせてもらってます」と話されます。一歩一歩お願いしながら歩かせてもらうから、無事に着いた時には、自然とお礼の言葉が出てくる。わが力ですると思ったら、そうはいきません。
 Aさんを見ていると、信心は素晴らしいなあ、「グーだなあ」と思います。なぜそうした生き方ができるかというと、やっぱり日頃から「御取次を願い、頂」くことを繰り返しているから、困ったことが起きても、心を乱すことなく過ごされているように思います。

神様はいつも見てくださっている
 私は、三人の子どもを頂いています。そのうち、一番上は大学生、二番目は高校一年生の男の子です。私は長い間ご霊地に住み、二人の息子たちはボーイスカウトに入っていました。教会に戻ったのは上の子が小学校六年生の時ですが、隣の駅にある親教会もボーイスカウト活動をされているので、引き続き、お育てを頂くことになりました。
 昨年、一泊二日の研修会があり、二男が参加しました。私が「どんな話を聞いてきたん?」と尋ねると、彼は親指と小指を立てて、「こんな話や」と言いました。
 「小指は子どもで、親指は親。子どもは親の方を見ていないけれども、親はずっと子どもの方を見てるんや。同じように、神様も人間をかわいい子どもと思って、ずっと見てくださっている。そんな話を聞いてきた」と言うのです。

繰り返しの稽古の中で
 私も、指を見ながら考えてみました。それで、親指は神様で、ほかの指を人間だとすると、神様に一番近いこの人差し指が、私たち人間と神様の間でお取次をしてくださる教祖生神金光大神様だと思えてきました。
 金光大神様は、私たちが神様にお願いする時、私たちと同じ向きで、私たちの願いに寄り添って、一生懸命お願いしてくださいます。そのおかげで、指を曲げて拳を作った時の「グー」のように、神様は私たちをしっかり握りしめてくれます。逆に、私たちが神様をしっかり握ることもできる。そうすると、拳のように困難な壁を破り、乗り越えていけるのではないかと思いました。
 さらに、この拳で打ち破る壁というのは、わが力で何事もしているという思い込みの殻であり、我情我欲です。拳は、そうした我情我欲から「目を覚ませ」と気づかせてくださる、神様の拳だと思えたのです。
 金光大神様は、「信心も手習いも同じこと、一段一段進んでいくのである。にわかに先生にはなれぬぞ」と教えてくださっています。私たちの信心も、最初は赤ちゃんから始まって、一段一段進んでいきます。指で言えば、小指から進み、薬指、中指、そして親神様に一番近い人差し指の金光大神様です。信心が中指ぐらいまで進めば、拳を作った時、親指の神様が、グッとつかんでくださいます。私たちの信心も小指から人差し指に向かって、一段一段と進ませていただきたいと思います。
 我情我欲というものは、いくら壊しても出てきます。ですから、一つ一つの問題に「金光様、金光様」とお取次を願い、み教えを頂いていく。その繰り返しの稽古のなかで、大きなおかげを頂けるのだと思います。
 このお道の信心は、誰でもできます。年を取っても、たとえ病気になっても、体が不自由になってもできます。そういう道を頂いている私たちです。本当にありがたいことだと思います。
 どうぞここからも、「御取次を願い頂き」「神のおかげにめざめ」、そして、神様と共に歩んでいく道を、共々に進ませていただきたいと思います。

(2015/3)

   






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