神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 10月号 神人あいよかけよの生活運動


信心は親に孝行するも同じこと

東海教区主催の岐阜県教会連合会「信心の喜びを語る集会」で、岩崎 弥生 先生(静岡・静岡)が話された内容を抜粋して紹介いたします。

ささいな言い争い
 私は、結婚して今年で26年になります。これまで、教会の母には、ご用の上で大切なことをいろいろ教えていただきました。時には叱られ、また、たくさんフォローもしてもらいながらここまでご用をさせてもらいました。20年ほど経ってやっと、母の言葉の意味するところが分かり始めてきた感じです。
 母と私はしゅうとめと嫁ですが、普通と少し違うのは、私が生まれてからずっと教会の両親に祈られてきたことです。私の「弥生」という名前は夫の父、つまり前教会長につけていただきました。実家の両親は当時、あまり熱心に信心していなかったのですが、私たち姉妹の名前は教会でつけていただきました。ですから、生まれた時から何もかも知られている、そして私も知っているという関係です。教会の母がさまざまな苦労をしてきたこと、その母の神様へ向かう姿勢、厳しい面もある反面、情の深いところがあることも知っています。
 静岡教会では、教会長は外に出てのご用が多く、結婚してからの私は、教会長よりも、教会の両親と一緒にご用をする時間の方がはるかに長いのです。そんな関係のなか、去年の初めにささいなことから母と言い争いになりました。一緒に暮らしていれば、もめることもあります。でも、たいていすぐに普通の暮らしに戻るのですが、その時は、私の怒りがマックスになり、「もう絶対に許さない。この先、とても母の言うことは聞けない」と思いました。
 実家の両親は、子供の成長と共に熱心に信心するようになり、母は今では毎日、朝参りをしています。私は、母に教会での出来事は一切話したことがないのですが、その母が、教会の母と言い争いになった数日後、「私ね、昨日夢を見たのよ。それは、弥生がまだ幼くて『お母さん、私、道が分からなくなっちゃった』と、私のスカートの裾を引っ張って泣いている夢だったよ」と言ってきました。
 私はそれを聞いた瞬間、「何にも言わなくても分かってくれている。祈ってくれている」と感じて、思わず泣いてしまいました。嫁いでからは、私が母の前で泣いたことが今までなかったので、母はびっくりして、詳しく夢の絵まで描いてくれました。その絵は、山裾にある白い柵の所で、母と私が、山頂から昇る光を見ている絵でした。そんな私の様子に、教会長が「ご本部と親教会にお参りしてきなさい」と言ってくれ、参拝してお取次を頂きました。

神様が抱えてくださる
 私の心の引っ掛かりは、「親の言いなりになることが親孝行なのか。どうしても母の意に反してしまう、そんな私は信心になっていないのか」ということでした。学院の時には、四代金光様から「信心していくことが親孝行です」とお言葉を頂き、それを支えに今日まで来ましたし、み教えにも「信心は親に孝行するも同じこと」とあります。教会の両親への親孝行とはどんなことをすればいいのか。このことが分からないと、私は前にも進めず後ろにも戻れない、そんな状態でした。
 朝、金光様のお出ましを頂き、お取次を頂きました。自分の恥ずかしいところをさらけ出す話でしたが、金光様はじっと体を私の方へ向け、聞いてくださいました。私は全てを話して、涙が止まりませんでしたが、金光様の顔も悲しそうでした。そして、金光様は、「信心は親に孝行するも同じこと。親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く」とおっしゃってくださいました。
 私は、まさか金光様からお言葉を頂けると思っていなかったので、ぼーっとしてしまったのと、金光様のお言葉の持つ意味がよく分からず、しばらくお結界で頭を下げていました。すると金光様が「後はあちらでお礼したらよろしい」とおっしゃり、正中を指さしてくださいました。お広前の正面に座り直し、今頂いたお言葉を思い返しても、鈍い私にはやっぱり意味が分かりませんでしたが、「確かに金光様は『信心は親に孝行するも同じこと』とおっしゃった。私の教えの親である金光様がそうおっしゃるなら、金光様の喜ばれることをさせていただこう。辛抱させていただこう。金光様にあんなに悲しい顔をさせてしまって、今度お参りに来る時には、金光様が笑ってくださるようなおかげを、必ず頂いてお参りしたい」と心から思いました。
 そして奥城を参拝しようとお広前を出て、修徳殿の方を向いた時、「あっ、この景色は」とハッとしました。それは実家の母が描いた絵でした。母が山だと思っていたのは、修徳殿の屋根で、その屋根のてっぺんで、八波のご紋が朝日に輝いていました。道に迷った私はやっぱりご本部に導かれていたのだと思い、ありがたく、もったいなくお礼を申し上げました。
 それまでは、教会の母との事が片時も頭から離れなかったのに、別に自分で思い直そうと意識しなくても、私の気持ちは知らない間に楽になっていました。「ああ、神様が抱えてくださる『神抱(しんぼう)』ってこういうことを言うんだな」と思い、本当に楽でした。
 そして忙しい教会の暮らしのなかで、ふと「母も歳をとったんだなあ」と思うことがありました。母は、いつもシャキシャキして、人のことまでよく気が回り、私の方が介護されているようでしたが、信者さんとやりとりしている姿を見てそう思う瞬間がありました。その様子を見ていると、腹を立てていたことが、「歳をとった母がしたこと」と思えるようになり、いつまでも腹を立てていたのでは母がかわいそうに思えました。
 その時、「ああそうか、金光様はこのことをおっしゃっていたのかな。今まで祈ってもらっていた私が、今度は母のことを祈っていく。あいよかけよなんだ」と思えたのです。

教会の母の病気
 そして、その年の秋、教会の母にがんが見つかりました。母は医師から「肺がんで、がんの重さが一キロもあり、もう手術することはできない」と言われました。手術はできないけれど、抗がん剤がよく効くがんなので、その治療を受けることになりました。抗がん剤は良い細胞にもダメージを与えるので、副作用として、免疫力が低下したり、全体的に体力を奪われます。
 つい薬の効果より副作用が気になるところですが、母はまず「病気を見つけてくれたのがありがたい。治療ができることがありがたい」と言い、「ご本部、親教会にお礼のお参りに行きたい」と言いました。静岡教会の初代が亡くなる間際、「ご本部と親教会さえ頂いていれば間違いない」と言い残し、母もこれまでこの言葉通り、お取次とご祈念を頂いてきましたので、今度もそう言ったのです。その気持ちは分かりますが、その時の母はせきが激しく、少し歩いただけでも息が切れる状態でした。その時期、教会長は外ご用が続き、私は留守ご用をしなければならず、付いていくこともできない状況で、今の体調を考えると、一人で行くことは賛成しかねる状態でした。それでも「死んでも行く」という固い決心でしたし、ちょうどその日、大学生だった息子が学生会のご用でご本部にいることもあって、道中の安心を祈りつつ送り出しました。
 息子に到着時間を知らせ、金光駅のホームにいるよう伝えました。そして、共に本部広前にぬかずき、金光様にお取次を頂きました。
 「これまでいのちを運ばせていただき、ご用にお使いいただきましたこと、お礼申し上げます。そしてこのたび病気が見つかりましたことお礼申し上げます。また治療ができることお礼申し上げます」と母は、見事にお礼のみを申し上げ、金光様は母のその思いをお受けくださったそうです。そして、本部広前の真ん中にぬかずいた母の後ろから、息子もご祈念しました。九か月前に、私が金光様からお礼をするように言われた本部広前の正中で、今度は母がご祈念をさせていただくことになったのです。息子は、自分の精いっぱいの気持ちとして、母の病気があると思われるあたりの背中に手を当ててご祈念をしたそうです。鼻水をすする音がしたと母が言っていましたので、泣きながらご祈念したようです。 母は、息子の手のぬくもりと、優しさで、まさに神様に包まれているような気持ちになり、号泣したと言います。「私はこれまで、意地を張って生きてきたかもしれない。でも、あの子の手のぬくもりを感じ、素直な気持ちにならせてもらったよ」と後で言っていました。
 病気のことを思うと、とても恐ろしく、「どうして」とか、「なぜもっと早く」と思う気持ちが出てきますが、教会長からは信者さんに「母が病気にとらわれず、神様の方を向き、神様との縦軸を頂いて、病気を通してさらに信心をしていこうとしていますので、皆さんも、母の方を向いてお見舞いとか思わずに、母の信心の成就を祈ってください。そして皆さんも神様との縦軸を頂いて、信心を進めてください」とお話がありました。
 母の信心の成就を祈りながら、私が今あらためて取り組む信心とは何だろうと思いました。それは、金光様のお言葉、「信心は親に孝行するも同じこと。親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く」信心をしていくことしかないと思いました。どんなことを言われても、どんな注文でも受けさせてください、という気にならせていただきました。

ぶれることのない信心
 いよいよ抗がん剤治療が始まりました。副作用で気分が悪くなると聞いていたのですが、病院に行くと、寝ているとばかり思っていた母がベットの上に正座しているのです。「どうしたの?なんで寝てないの?」と聞くと、「もったいなくてもったいなくて、私は寝ていられない。治療ができるお礼をさせてもらっている」と言うのです。ここでまた母のすごさを見させていただきました。神様のお手当てとしてありがたく頂いている。副作用の事ばかり気にしている私とは全く次元が違いました。医師から、腎臓に影響が出るので、水分をしっかり摂るよう言われれば、ご神水を2リットル一生懸命頂きます。母に言わせると、ご神水だといくらでも頂けるそうです。尿の出が良く、食欲も普通にあり、第一クールを終えました。
 とにかく母の願いは「ご用がしたい」でした。さすがに抗がん剤を受けてすぐは、ぐったりしていましたが、以前からご神米調整のご用は、母のいのちそのものでした。母の姿を見ていると、鶴の恩返しの物語で、鶴が自分の羽を一枚一枚織り込んでいるシーンがありますが、それをほうふつさせるものがありました。一体一体ご祈念を込め、いのちを込めていく。とても私は手出しができません。治療の合間にもご神米調整をさせていただいていました。目をくぼませている姿を見ると、「そこまでしなくても」と思うのですが、母はご用をすると確実に元気になっていくのです。
 しかし、治療が進み、回を重ねるごとに身体へのダメージは大きくなっていきます。髪も抜けました。その時は、さすがにショックを受けているようで、「髪がごっそり抜けて、初めて私はがん患者なんだと自覚したよ」と後で言っていました。母はおしゃれな人で、誰に会おうが会うことがなかろうが、いつもきちんと着物を着ています。そして家族にも髪が抜けた姿を見せず、カツラをつけることを「お帽子をかぶっている」と言ってマイナスな気持ちにならない工夫も自然にしていたように思います。
 入院する時、自分の性格を書く欄があるのですが、母は「強い」「慌てない」と書いてありました。母があまりに「ありがたい」と「よかった」しか言わないので、初めは意地でそう言っているのかなと思いました。普通、誰でも体調が悪くて気分が良くないと、イライラしたり人に当たりがちですが、「痛い」も「つらい」も、そういう事が一度もないのです。ずーっと気持ちにぶれがない。それでいて自分の身の上に起きてきた小さな喜びを子供みたいに心から喜んでいる。金光四神様のみ教えに「八寸のものを一尺(十寸)にも喜ぶ者には、足りぬだけは神が足してやる」とありますが、「尿がたくさんでた」「今日は、りんご一個食べられた」など、私にはそんなことと思えるささいなことを心から喜んで、足りないところは神様がみんな足してくださって、おかげを頂いたのだと思います。

引き継がせていただく
 その頃から私は、母の姿を見るにつけ、「今までどうして見えなかったんだろう。良い手本がここにあるんだから、できる限り真似をしてみよう」と思い始めていました。「教会は何があるか分からないから、何でも早めにやれることはやれ」とか、「中心はどこなのか?教会長のご用成就が一番の中心」とか、今まで教えてもらいながら素直にできなかったことを、やってみようという気持ちにさせられました。
 「信心は親に孝行するも同じこと。親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く」というお言葉の意味が、この時はっきりしました。
 信心するというと「教会へお参りして、お願いして、お礼して、ご用して」と、ついやり方を語ってしまいます。でもこれでは、うるさがられるばかりで伝わりません。信心は人それぞれ違うので、こうすることが信心だと一概には言えません。「全てにお礼です」という人、「とにかく日参です」という人もいるでしょう。私にとっての信心とは、やはり親に孝行することなのでしょう。そして、私にとっての孝行とは、親の良き生き方を真似させていただく、すなわち母の大切だと思うところを引き継がせていただくことだと思うのです。そして、教会と実家の両親の助かりを祈っていく。私はお取次を頂いて、そのことを分からせていただきました。教師でも、お取次を頂かなければならないと私は思います。
 約6か月間、母は治療に取り組みました。今はおかげを頂き、以前と変わらない生活ができています。その間の母の病気と向き合う信心の姿を間近で見せていただいて、神様のみ心にかなうというのはこういうことか、おかげってこうやって頂いていくんだ、と本当に良いもの見せていただいたと思います。いいえ、やっとそれが見えるようになったのだと思います。

(2015/10)

   



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