神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 8月号 神人あいよかけよの生活運動


神の心を知る

大阪府連盟布教部の講師会で、平阪真太郎師(大阪・東旭)が話された内容を抜粋して紹介いたします。


40歳を迎えて
 私が40歳になったばかりの平成27年の上半期は、ほぼ毎日体が不調でした。1月はへんとう炎、2月はめまいと食欲不振にインフルエンザ、3月には強烈な頭痛が1か月間ほぼ毎日続き、人生初のMRI検査をしましたが、原因は不明でした。4月には再びへんとう腺が腫れる風邪になり、さらに気管支炎で夜中にせきが止まらず睡眠不足の日々が続き、5月は食欲不振と下痢に苦しみました。
 自分でも、よくもここまで次から次へと病が襲ってくるものだと感心するほどでした。しかし、「もしも一度にまとめてやってきていたら」と考えると、「一難去ってまた一難」というのはおかげなのだとも思えました。「たらいにいっぱいためた水を屋根の棟から少しずつ流してみよ。これが小厄のたとえである。それをどっと流すのが、大厄のたとえである。信心して、大厄は小厄にしてもらい、小厄はお取り払いいただければ、後は繁栄をいただける」というみ教えがありますが、この上半期は、本当はもっと大きな病になるところを、小厄に分けていただいたのかもしれません。
 教祖様は、九死に一生を得た42歳の大患の事跡で、本当は熱病になる年回りであったところを、のどけにまつり替えていただくお繰り合わせを受けられました。また、吉備津神社での2度のおどうじについて、神様は、あれは病気の知らせをしてやったのである、と打ち明けられました。
 今思えば、私にも何度かお知らせがありました。これまで先輩方から幾度となく聞かされてきた「40になったら急にガクッと来る」という言葉。「男性は8の倍数の年が要注意」というテレビのCM。さらに、この年の元日祭後の「み教え福引き」で引いた「体の丈夫を願え」という教え。神様は、それらをとおして、「そういう年回りだから、注意してくれよ。今まで以上にしっかり体調管理をするんだよ」と、私の体を気遣い、先回りをして知らせようと働き続けてくださったのではないかと思えたのです。
 そんな神様の温かさに触れるにつけ、ありがたい気持ちと同時に、「もっとアンテナを張って、身の回りの事象全般から神様の思いをキャッチできる感性を養っていきたい」と思わせられます。いくら神様からの呼び掛けがあっても、気付かなかったり無視したりすれば、痛い思いやつらい思いをしてしまうこともあります。信心をさせていただくと、神様からのメッセージをキャッチする感度が上がっていきます。そのことを神様は、「氏子、どうか信心して、おかげを受けてくれよ」と願われているのではないでしょうか。教祖様と重ね合わせる訳ではありませんが、「信心せねば厄負けの年」と心得て、下半期はしっかりと体調管理に努め、今まで以上に、体の丈夫を願っていこうと心に決めました。

メンテナンスの大切さ
 下半期に入った初夏のある日のこと、放送センターでのご用を終えた帰り道、自転車で走っていると突然チェーンが外れました。スピードが出ていた上、立ちこぎだった私は、バランスを崩したものの何とか転倒は免れました。大事に至らずに済んだのはありがたいことでしたが、チェーンは無惨にもブラブラと垂れ下がっています。
 まだ帰り道半ば、妻に電話をして事情を話し、周辺の自転車屋さんを探してもらうと、「この付近に修理をしてくれそうな所は一つも無い。ただ、少し先に高級自転車の販売店ならある」ということでした。このまま押して帰るには遠すぎるので、とりあえずその店まで行ってみると、店頭には桁違いの値札の付いたキラキラの自転車たちが展示されています。ためらいながらも、恐る恐る店内に入ると、そこにはおしゃれな身なりの若い店主がいました。
 「すみません。チェーンが外れたのですが、見てもらえませんか」と言うと、無言で近寄ってきた店主は、私の自転車を眺め、落胆のため息の後、「ちょっと待ってくださいよ」と店の奥に消えました。面倒くさそうな雰囲気、「服が汚れたら台無しだなあ」と訴えているような背中に、私はどきどきしていました。
 手袋をはめ、いくつかの工具を持って戻ってきた店主は、「これ、チェーンが伸びきってるね」と言いながら修理を始めてくれました。「そもそも、チェーンはなぜ外れるんですか。チェーン自体が伸びるからですよね」と尋ねると、当たり前のことを聞くなとばかりに鼻で笑われました。若干腹が立ちつつも平静を装い、重ねて「大体どれくらい乗れば伸びるものですか」と尋ねると、「そりゃあメンテナンスもせずに長いこと乗っていたら伸びますよ。見て分かるように、自転車のチェーンは100個くらいのリングがつなぎ合わさってできているんです。1個のリングがたとえ1ミリ伸びたとしても、それが百個あったら、大きな数字になるのは当然分かりますよね」と言われました。次々と繰り出される嫌味なうんちくを前に、「とんでもない店に入ってしまったなあ」という絶望感が押し寄せてきました。しかし、店主はチェーンを直してくれた後、サドルやハンドルをはじめ、隅々まで点検し、工具で微調整を加えてくれました。それだけでなく、各パーツのメンテナンスのポイントを細かに教えてくれたのです。私は、「この人は本当に自転車が好きなんだ。だから、メンテナンスされていない自転車を見ると、『もっと大切に使ってくれよ』と悲しくなるのかもしれない」と思い直し、この自転車を購入して随分経つのに一度も点検していなかったこと、何年もお世話になっているのにお礼の一つも言えていなかったことを、大いに反省しました。
 店主の細部にわたる点検によって、チェーンよりも重大な欠陥が明らかになりました。それは、ハンドルの支え部分のボルトの緩みです。もし走行中に外れたら、それこそ大事故につながっていたことでしょう。さらには、「人間の体も時々点検してあげないと大事につながることがあるでしょう。自転車も時々メンテナンスしてあげないとね」という店主の言葉には、とどめを刺された思いがしました。最初は「年下のくせに偉そうに」と思っていましたが、神様は店主をとおして私に大切なことを教えてくださったのです。下半期の心得を伝えるために、神様が私をこの店に導いてくださったのだと思いました。

願うからには
 下半期は、上半期の気づきから、今まで以上に「体の丈夫を願」いました。加えて、店主の言葉を胸に、体のメンテナンスを心掛けました。なるべく無理をせず、睡眠と休息を積極的に取り入れ、妻が買ってくれたサプリメントを服用するようにしました。正直、これまでサプリメントを飲むことには抵抗がありましたが、私を心配してくれる妻の思いを、神様からの体調管理の願いの現れだと思い、ありがたく頂くことにしました。
 「神任せ」という言葉がありますが、決して神様に願ってさえいれば、自分は何もしなくてよいという意味ではありません。体の丈夫を願うからには、自ら体をいたわり、メンテナンスを心掛けることが大切だと思います。こうした願うからにはという姿勢こそ、神様に体の丈夫を願う氏子の心得であり、礼儀なのではないかとも思わせられました。
 そのかいあってか、上半期がうそのように、下半期は快調な日々を送ることができました。11月の終わりに油断をして息子の風邪をもらい、それが随分と長引き苦しみましたが、この経験により、あらためて気を引き締めることができ、それすらもありがたいことに思えました。
 1年を振り返り、不調だった上半期、快調だった下半期、風邪を引いた最後の1か月を含め、それぞれに多くの気づきや学びがありました。今まで丈夫だった私の体は、両親をはじめ、たくさんの方々に祈られてこそのものであったことにも思いが及びました。また、心配してくれる信心仲間がいてくれることの幸せをかみしめました。さまざまな景色を見せてもらい、とても有意義で充実した、お繰り合わせを頂きどおしの1年であったと思います。それは、神様の私を思う温かさに、より深く触れられた1年でもありました。

親神様に包まれながら
 人生は、何が起きるか分かりません。びっくりすること、慌てるようなことがつきものです。信心しているからといって、嫌なことが起きないわけではありません。けがもすれば、病気にもなり、いずれ死んでいくのが人間です。ただ、そこには必ず神様のお繰り合わせがあり、喜びに満ちた発見や学びがあります。それでも、私たちは苦しい時、「なぜ私がこんな目に遭わないといけないのか。神も仏もない」と思うことがあります。しかし、神様の思いはどうでしょうか。
 親になった私がわが子に思うのは、「どうか幸せになってくれよ」、ただそれだけです。子どもが病気になれば、一生懸命に看病し、問題に当たれば、何とか乗り越えられるように一緒に考えます。子どもが苦しんでいれば親も苦しく、子どもが笑顔でいてくれることが親の何よりの幸せなのです。
 人間の親であられる神様も同じではないでしょうか。わが子である私たち人間に対して、「どうか助かってくれよ。幸せになってくれよ」というみ心しかないのだと思うのです。つまり、神様は人間にとってよくする働き掛けはなさっても、悪くする働き掛けはなさらないということです。どんなに悪いことをした人にも、裁いたり罰を与えるお考えはなく、ずっと心配しながら改まりを願われているのです。
 巡り合わせによってさまざまなことが起きてきます。しかし、それはすでに神様から最大限のお繰り合わせを受けての事象だということを肝に銘じたいと思うのです。そして、その事象のなかに、幸せにつながる気づきや学びを促す神様の願いが込められていることを忘れずにいたいと思います。
 私たちは生身の人間ですから、時に間違うこと、脱線したくなることもあります。それでもわが子の幸せを願う神様は、それすらも許し、包み込んで、願い続け、待ち続けてくださいます。そんな神様の親心を知るほどに、「少しでも親孝行させていただきたい」という思いが強くなります。
 信心したからといって、不安や心配が一切無くなるわけではなく、その時々に不安は生まれます。しかし、不安なことが起こっても、その都度「信心」というフィルターをとおすことで、段々と不安が和らぎ、ありがたいものに変わっていくことを学びました。この一年も、もし私が信心にご縁を頂いていなければ、違った展開になっていたことでしょう。
 どんな時も私たちと一緒に歩き、時に立ち止まってくださる神様。そして、一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に嘆き、それでも何とか立ち上がれるようにエールを送り、よいほうへ導こうとする神様がそばにいてくださる温かな実感は、私を確かな安心感で包んでくれます。

(2016/8)

   




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