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金光教報『天地』 8月号 神人あいよかけよの生活運動


「人を助ける」のは難しくない

 中村史子氏(熊本教会・信徒)が熊本地震慰霊復興祈願祭で体験発表した内容を紹介いたします。


人は忘れる生き物
 あの未曾有の熊本地震から1年が過ぎました。
 今の市街地のにぎわいや人々の装いから、当時の惨状を重ねることは難しいところです。
 一部には、熊本城の崩れた石垣や、私の住んでいる東区では、まばらに建物が解体され、更地になったりして、地震の爪痕を見ることがありますが、それらも日常の風景に溶け込んでいます。
 しかし、この益城町の木山の地に立った時、熊本地震からの再建はまだ終わっていないことを強く感じるとともに、当時の恐怖が蘇ってきました。
 「人は忘れる生き物」と言います。忘れることは、強い悲しみ、怒り、苦しみに心全てを支配されないための人のすべかもしれません。
 だからこそ、忘れないようにするために、また、忘れたことを思い起こすために、当時の出来事を、その時に感じた気持ちを語っていくことが大事だと思います。
 1年前の4月14日木曜日、午後9時26分に起きた前震は、熊本市東部では震度6弱でした。
 わが家は、主人と私と娘の3人家族で、主人は県庁に勤めています。娘は大学4年生で就職活動を控えていました。主人も私も職場での異動があったばかりで、主人は連日帰りが遅く、その日もまだ県庁にいました。娘は帰りが遅くなるということでしたので、私は久しぶりに実家にいました。
 実家は、私たちの家から500メートルほど離れており、82歳の父と80歳の母と障害のある兄の3人で住んでいます。前震の時は大きな揺れで驚きましたが、実家にいたおかげで父母や兄のそばにいてやることができ、よかったと思います。主人や娘との連絡もすぐとれたので、その日は「大きかったね」で済んだところでした。

震度6強の本震に襲われ
 翌15日は、父母の月1回の診察の日でした。私は父母に付き添うため休みをとっていたので、一緒にタクシーで病院に行きました。病院も大きな被害はなく、何事もなかったかのように診察を受けて、薬をもらい、「疲れたね」と言って家に戻ってきました。
 私たちの生活は、これまでの日常と変わらないものに戻っていました。その日の午後9時30分ごろ、地震対応で泊まりだった主人が帰宅しました。一息つきながら、「古いけど、この家もしっかり建ててあってよかった」とリビングで話し、家族3人そろって床に就きました。
 それから2時間余り、16日の午前1時25分、熊本市東部では震度6強の本震が襲います。神様を祀まつってある寝室で、私たちは川の字に寝ていました。突然、強い揺れを感じたので3人とも目を覚ましました。電気はつかず、真っ暗闇の中で、ドン、ガチャンと何かが落ちたり倒れたりして壊れる音が、家の中や外のあちらこちらから聞こえてきました。
 「これはまずい」とすぐに感じました。「靴、靴を履いて逃げなければ」と思ったのですが、焦る気持ちと裏腹に、揺れはなかなか治まらず、たまらず主人に「どうしたらいい?」と話し掛けると、「治まったら外に避難していいけど、今は駄目だよ」と止められ、えらく冷静な口調の主人を見ると、布団に入るものの、うつ伏せで携帯をしきりに触っていました。私はふっと「はる」と叫びました。「はる」とは、わが家で飼っている柴犬で、寝る時は別の部屋にいるのですが、その時は主人が「ここにおるよ」といつの間に来たのか主人の横でおとなしく伏せている様子に拍子抜けしました。娘は怖がりなので、ずっと布団にくるまっておびえていましたが、実は私も「金光様、金光様」と、ただただ唱え続けていました。
 揺れはなかなか治まらず、いつまでも続くのではないかと思えるほど長い時間に感じました。やっと揺れが治まり、3人靴を履いて携帯を持って外に出ました。家の中は、何かが床に落ちて散らばっており、さらに内壁がはがれて、ざらざらしていました。
 主人は、災害時は出勤することになっていましたので、自転車で県庁へと向かいました。私と娘と犬のはるの2人と1匹は、主人に言われたとおり自宅近くの公園へ避難しました。電気が止まった街は真っ暗でしたが、公園には数人の人が集まっていました。誰かが持ってきたキャンプ用のランプが2つあり、その灯りで大きめのシートがいくつか敷いているのが見えました。ラジオから「安全な場所に避難してください。落ち着いて行動してください」の声が流れていました。近所の方々がお互いの無事を確認し合っていました。

避難所生活が始まる
 公園に避難してからも、何度も何度も余震が来ました。実家の父母と兄のことが気になっていたところ、娘が「はるは見てるから行ってきて」と言ってくれました。実家に行くと、父と母が毛布にくるまっていたので、実家近くの公園に避難しました。明るくなるまで動くことができないことから、一度実家に戻り、防寒のため持てるだけの布団を持ってきました。大きなブルーシートの上で、父は体を横にさせてもらい、私と母と兄は座ったまま眠ろうとしたのですが、体が冷えては起きる、といったことを繰り返し、なかなか眠れませんでした。
 その間も地鳴りのようにドォドォドォーンという音がして地が震え、携帯やラジオから警報がけたたましく鳴り響き、そのたびに体がギュッと縮まるので、意識して伸ばしながら、こんな状態がいつまで続くのだろうかと不安にさいなまれました。日が昇り、しらじらと明るくなっていくとホッとしたことを覚えています。
 それから、西原中学校へ避難しました。娘とは携帯で連絡を取り合い、先に娘が犬を連れて中学校で待っていてくれました。父のために厚みのあるマットを借りてくれていました。ここから、父母、兄、私、娘、そして犬が一緒の避難所生活が始まりました。経験したことのない大きな地震、断続的に続く余震が怖くて仕方がありませんでした。
 その上、水もガスも電気も通らず、足の悪い父母を抱え、どうしたらいいのか分からない大きな不安の中、中学校での避難所生活は、私にとってすべてがとてもありがたかったのです。父は体が固くて、家の介護用ベッドの手すりを使ってやっと起きられる程度でしたので、避難所にベッドはなかったのですが、厚みのあるマットは、段差があるため父を起こすのにとても助かりました。
 避難所生活の1日目は、食べ物がなく、娘と娘の友人が周囲のコンビニに行きましたが、どこも水やご飯類はなく、ジュースとお菓子を買ってきました。避難所から水と食料が提供されるようになったのは2日目の夜からで、菓子パン、おにぎり、缶詰めと徐々に数や種類も増えてきましたが、その後も父母の栄養や食欲が落ちないようにと、開いている店が少ない中に、あちらこちらと回って食料をかき集めました。トイレは、学校には大きなプールに水が張ってあったので、学校のトイレと、仮設トイレ5基にプールの水をくんで少しずつ流して使いました。

いつも誰かに支えられ
 避難所の運営は、当初、学校の先生が中心に行っており、だんだんと熊本市や他県からの応援職員が来ました。トイレ掃除やバケツの水くみ、身の回りの掃除、支援物資の管理など、お年寄りも多かったので、避難所の人々と周囲の中学生が、できる範囲で役割を分担し、避難所の運営に関わりました。兄は透析があるので、自宅に水が出るようになった5日目に自宅へ戻りました。私は11日目から仕事に復帰しましたが、余震が続いていたため、父も母も、そして私も、元の家に戻るのが怖く、しばらく避難所暮らしをしました。
 避難所では、父や母のことをいつも誰かが見ていてくださり、声掛けをしてくださいました。そのおかげで父のやる気が引き出され、固かった父の体が、自分の力である程度起きられるようになり、以前よりきびきびと動けるようになりました。もしも地震後そのまま自宅にいたら、こんなに元気に過ごせただろうかと思います。
 避難所で心掛けたのは、震災前と変わらずに過ごすということでした。もちろん震災前と見える風景はまったく違っています。だるま落としのように1階部分が完全につぶれたビル、ひびの入った建物、ブルーシートを乗せた家屋、崩れた塀、段差ができた道路など、考えたこともない光景が目の前にありました。全てが変わったのです。だからこそ、いつもしていることを繰り返す、いつもの日常を取り戻すこと、それが私の気持ちを均衡に保つために必要なことでした。朝起きる、顔を洗う、身だしなみを整える、実家に戻り犬の散歩に行く、朝ご飯を食べる、身の回りを掃除する、洗濯するなど、生活のリズムを体に刻んでいくことで、この困難を乗り切ろうとしました。
 わが家は半壊でしたが、昭和45年に建った家で耐震構造が弱く、壁にひびが入り、雨漏りがひどいことなどから、建て直すことに決め、近くにアパートを借りることにしました。いくつも不動産屋を回りましたが、空き家でも安全確認ができないことから、ほとんどの物件で問題があり、なかなか見つかりませんでした。ようやく3人家族には狭くても借家が見つかり、5月7日に避難所の皆さんにお礼を言って、借家に移りました。父母も同日に自宅に戻りました。
 犬は避難所にはずっと置けないことから、かわいそうでしたが、兄が自宅に戻った5日目に実家につなぎ、朝夕の散歩に避難所から通いました。借家に移っても犬が飼えないので、そのまま実家に預かってもらうことにし、今も、朝と夕方に実家に散歩しに行っています。
 避難所生活の間、主人は毎晩帰りが遅く、土日も仕事に行きましたので頼ることができませんでしたが、この3週間を無事に過ごすことが出来たのは、一日一日、日々の一瞬一瞬を、常に誰かに支えられてきたからこそと思います。

湧き出る気持ちに従う
 会社からは特別に10日間の休みをもらい、父と母と一緒に居ることができました。娘は食料の確保に駆けずり回りながら、私の傍らにいて精神的に助けてくれました。親戚の皆さんが釜いっぱいに炊いたおにぎりを避難所まで届けてくれたこともありました。犬のはるも避難所にいた間は、いつものやんちゃぶりからは考えられないほどおとなしく、ほえもせずいてくれました。
 そして、何よりも心強かったのは、避難するまでは名前も知らなかった人々が、お互いに声を掛け合い、譲り合い、気遣ってくれたことでした。そのおかげで、父母の様子を見ながら、わずかな広さで仕切りもなく、偏った食事という状況を乗り切ることができたと思っています。避難所で周りの皆さんと一緒に過ごせることで、どれだけ安心できたことか、大きな災害に見舞われたからこそ、人々の絆を実感した次第です。
 「人を助ければ神も喜ぶ」。私はずっと、どうしたら人を助けることができるのだろうと考えていました。「人を助ける」ために、いつも以上の何かをしなければならない、そうでないと神様が喜んでくれる行いにならないと力んでいました。
 それが、この震災の体験で変わりました。
 長崎に暮らす主人の実家の家族が心配して電話をくれたこと、自身も被災者である友人が「大丈夫?」との便りをくれたこと、ささいなことでありますが、本当にうれしかったのです。先に述べたように避難所生活での周囲の皆さんの心遣いもそうです。皆さん、特別なことをしようと思ったわけではなく、普通に接してくれていたのですが、その一つ一つの出来事が心に響き、ありがたかったことでした。
 生来、人々はお互いを思いやり、助け合うということを本能的に備えていると思います。それが文明の進歩によって、助け合わなくても生きていける社会がどんどん進んできました。進歩に伴い、人々は相手と距離を置くようになり、心の壁ができてきた気がします。それが、このたびの大地震のように、生命の危機を感じる場面に出くわすと、壁が取り払われ、人が生来持つ思いやりや助け合いが、いかんなく発揮されました。私は、素直に皆さんの厚意をありがたく受け入れました。
 その時、気付いたのです。私はこれまで、「人を助ける」ために相手方の壁をどう越えようかと考えていましたが、実はそうではなく、私自身がいつの間にか、踏み出すことに障害となる壁を作っていたのでした。自然と湧き出る気持ちに素直に従って行動すれば、おのずと人の助けにもなるものと思いました。震災の復旧、復興は長い道のりですが、私にできる支援をしていきたいと思っています。

(2017/8)

   



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