神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 7月号 神人あいよかけよの生活運動


「天地につながって」 大代 信治(富山・中伏木)

生まれてきたつながり
 私は25年前に結婚しました。今年に入って子どもたちが、「お父さんとお母さんって今年、銀婚式やな。いっぺん温泉でも行ってきたらどう?」と言ってくれまして、その言葉に、驚いたのとうれしいのとで、あらためて、これまでのことを思い返しながら、神様にお礼を申させていただきました。
 妻は一般家庭で育ち、金光教のことはまったく知りませんでした。最初は、私が生まれ、両親が御用をしている教会で一緒に生活をしていましたが、結婚して1年半、長男が6カ月の時に、教師のいなかった中伏木教会で、3人で御用をさせていただくようになりました。
 私は当時から教務センターの御用にもお使いいただいており、ちょこちょこ教会を留守にし、泊まりがけもあり、留守中は妻に教会の御用を任せておりました。妻は金光教のことは何も知りませんでしたから、神様にお願いしながら、また信者さんにもその旨をお伝えしていました。そのような状況に、妻と話し合うことが増え、よく素朴な質問を投げ掛けてくれました。その質問に上っ面だけで答えても、なかなか伝わらず、自分自身が問われることもたくさんありました。
 そういう中でも、私も当時は青年教師でしたから、青年教師会の会合にそれぞれ家族を連れて参加をする、ということもあり、そこから奥さん同士のつながりや、子供同士のつながりも生まれてきました。

「典楽が神様のお供え?」
 今から11年ほど前のこと、私はもう青年教師会を卒業していましたが、教区の青年教師会主催で、典楽の練習会が開かれました。初心者を対象に、典楽の仲間が増えることを願っておられ、仲良しの方が妻に声を掛けてくださいました。妻は「私は二つの事をいっぺんにできない。お琴をひきながら歌を歌うなんて、しかもお祭りで演奏するなんてとんでもない」と、最初は固辞していましたが、背中を押されて参加すると、仲良しがいたことや、一泊で丁寧に教えていただいたこともあり、とても楽しかったようでした。
 練習会から帰ってきてしばらくすると、今度は典楽のベテランである近隣の教会の奥さま先生が、「せっかく始めたんだから、これから一緒に練習しませんか」と声を掛けてくださり、妻は娘を連れて、そちらの教会に通わせていただくようになりました。
 そうしますと、だんだんお琴が面白くなってきたんでしょう。毎月通うようになり、「お琴が欲しい」と言うまでになりました。ですから、練習用のお琴を購入させていただいて、妻は教会でもお稽古をするようになりました。
 その教会に通わせていただく中で、典楽の心構えや作法など、いろんなことを本当に丁寧に教えてくださったようで、今でも妻がよく言うのが、「最初に『典楽は神様へのお供えです』と言われてびっくりした」ということでした。当時、妻は「ご神前のお供え物がお供えじゃないの?」「ご献費がお供えじゃないの?」と言っていました。けれども、次第に「心を込めるということはこういうことなのか」「神様に向かうというのはこういうことなのか」とお琴の稽古をとおして教えられ、お琴も少しずつできるようになってきました。
 夏などは、窓を開けっ放しで稽古をし、子どもたちが「近所に丸聞こえで恥ずかしい」と言ったりもしていましたが、それでも妻は一生懸命に稽古を続け、月例祭でも毎回奉仕させていただくようになり、本当に素人ですけれども、典楽の先生から、「うまいとか下手とかじゃない。お供えなんだからさせていただけばいい。失敗してもいいから」と言われて、一生懸命取り組んでいたようなことでした。
 そうすると、妻の祭典の見方が変わってきました。主体的に祭典に関わってくれるようになりました。祭典の意味や作法の一つ一つ、動きのタイミングなど、今まで私が自分の判断、自分のタイミングでしていたことが、そこに妻が加わってくれることで話ができ、神様に心を向けた祭典ということが、二人の間で膨らんできて、娘もお琴をさせていただくようになり、家族が同じ願いを持って祭典をご奉仕させていただくことができるようになりました。それがとてもありがたく、お広前が本当に豊かになったと感じています。
 妻は今でも、祭典前にはすごく緊張するようですが、その一生懸命さが参拝される皆さんにも伝わって、みんなで一緒にご祭典をお仕えしている雰囲気が醸成されてきました。
 妻は当初、不安だったと思いますが、今日までの一つ一つのことがつながりあって、神様と結びついていく手立てを頂いているような感じがしています。お琴の稽古で通う教会の奥さま先生から、いろいろと教えていただく中で、お道の信心に触れ、神様に触れ、典楽をとおして神様と近づいていくような妻の様子に、私も神様の働きを感じさせていただいたようなことです。

天地には境目がない
 今年は大寒波で、私たちが御用させていただいている教会でも、90センチほど雪が積もりました。普段は、近所の方とあまり会話をする機会がありませんが、雪が小止みになると、皆さん家から出てこられて、一緒になって雪かきをします。みんなでするということは、自分の所だけをするわけにはいきませんから、あっちこっちと雪をかきながら、皆さんと会話が始まります。そのように、境目のないお互いに助け合う関係が自然と感じられるのです。
 私たちの雪の多いところは、いろんな形のスコップがあったり、フード付きの服や長靴を履いたりと、いろんな備えがありますが、全く雪の降らないところでの積雪は大騒ぎになっています。そんなことを思いながら、雪かきをする時には、全国の災害や被害がある中を、お互いに立ち行くようにと願わせていただいています。
 「ご本部のお広前、ご神前を掃除する時に、全教のお広前の洒掃をさせていただくというふうに心掛けています」という方の話を聞かせていただいたことがあります。私どもも、教会のお掃除や雪かきもそうですが、ご本部のお掃除、全教のお広前を洒掃させていただく思いで御用に当たらせていただきたいと思っています。
 天地というのは境目がなく、遠き近きも隔てなく、本当に一体となってお働きくださいます。それを人間がそれぞれに境目を作っています。そこを天地のお働きを頂きながら、空間を超えて、地域を超えて、お互いが同じ天地の中にある者という思いにならせていただければありがたいと思います。雪かきは普段の当たり前の事ですが、いろんなことに気付かせていただいています。
 教祖様のご理解に、「子どもがたくさんおって、みな性格が違って困ります」と話された方に対して、「もし、五本の指がみな同じ長さでそろっていては、物をつかむことができない。長いのや短いのがあるので物がつかめる。それぞれ性格が違うので、お役に立てるのである」と話されたご理解があります。このご理解を頂くたびに私は、「一本一本の指はそれぞれが大切だけれども、バラバラで物がつかめるわけではなく、一本の指は手のひらでつながり、手首で一つになっている。そのように、一人ひとりの人間がお広前でお取次をとおして、しっかりと神心に触れて、神様と出会い、そして天地に根ざした生活を進めさせていただけることが、このお道の大切なところなんだ」と思わせていただいています。
 信越教区は各教会が点々と散在している地域で、なかなか密接なつながりが持ちにくい土地柄ですが、そういう中で、しっかりと連帯をしていこうと思った時には、どこかにちゃんと根を張っていかなければなりません。表現や考え方が違っても、私たち一人ひとりが天地に根ざした生き方にならせていただけば、それは孤独でも孤立でもありません。それはこの天地が私たちを包んでくださるからでしょう。同じ願いを持って共に御用に当たっていけるのだと思います。

神様が主語になる生き方
 ある時、「暖かいなあ」「まぶしいなあ」と思いながら、朝日に向かって散歩をしていると、ふと、ありがたい気持ちになりました。「ああ、こうやって神様に向かって、神様をしっかり頂いていけばいいな」と思い、そろそろ帰ろうと思って、くるっと向きを変えた時には、背中にお日さまを感じながら、見ているものはお日さまと同じものを見ているという感覚になりました。
 その瞬間に、「ああ、参拝もそういうことだなあ」と感じました。一生懸命お広前に向かって、神様に向かって、歩みを進めさせていただく。お広前でご祈念をし、お取次を頂いて、神様に出会わせていただく。そして今度は、それぞれの持ち場立場に帰るけれども、背中にお広前の温かさを頂いて、金光様、教会の先生方の祈りを頂いて、その思いを持って、それぞれの御用に当たらせていただく。それぞれの生活で「神人の道」を開く歩みを進めさせていただくわけですが、そこを神様と一緒になってさせていただく。これが「神人の道」だと思います。
 このたびの「神人あいよかけよの生活運動」も、自分たちが何かをする、というふうに、ついつい肩に力が入りがちですが、「神人の道」というお言葉は、神様がなされる、神様がさせてくださる、というように、神様が主語になってくるものだと思いますし、「願い」の1行1行についても、神様がさせてくださると感じます。
 4行目に「神心となって 人を祈り 助け 導き」とあります。これは信心が進み、段階が上がって、初めてできるものではなく、また、できるとか、できないとかではなく、御用に使っていただきたいという願い、人を祈り助け導く人にならせていただきたいという思い、そのことに気付かせていただいたら、至らない自分であっても神様が御用に使ってくださるはずです。それがこの「運動」で願われている大切なところだと私は頂いています。
 天地としっかりつながった時には、家族や地域もそうですし、遠く離れた方々とも一緒になって信心をさせていただいているような感覚になります。あるいは時を超えて、「教祖様もこのようにご祈念くださったんだ。そのご祈念を今、自分も一緒にお広前でさせていただいているんだ」という気持ちになることもあります。さらには、子どもや孫たちの世代、100年後のお道の先生方ともつながっているような、それが天地とつながった、時を超えたお道の働きではないかと、大きく夢を持たせていただきながら御用に当たらせていただいている今日です。
(2018/7)




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