神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 8月号 神人あいよかけよの生活運動


「導かれて」 土居 智(群馬・前橋)

「かわいい人になろう」
 「運動」の取り組みをご信者さんに尋ねると、「なかなか導くことができない」という声をよく聞きます。「願い」の4行目にある「神心となって 人を祈り 助け 導き」です。「神心になる努力はしているけど、導くのが難しい」と。私はその言葉を聞くたびに、「導く」という意識が強過ぎて、導かれる側の気持ちに寄り添えていないのでは、と思わせられます。
 そのことに関わって、ご信者さんには、「かわいい人にならせていただきましょう」と伝えています。とりわけご年配の方には、愛される、手助けされる側の心構えも大切だと感じているからです。
 ご年配の方が実際に敬われた時、それを受ける側としてはどう接するべきか。相手の神心に触れた時に、自分の神心がどのように共鳴するのか。例えば、満員電車でお年寄りに席を譲ろうとして断られることや、「年寄り扱いをするな!」と怒られたという話も聞きます。人と人との関係が問われる時代に、食前訓にある「ありがたく頂く心を忘れなよ」とは、何も食事に限らないことだと思うのです。
 私には、今でも忘れられない出来事があります。私は5人兄妹の4番目で、小学生の頃、当時の信徒総代であったAさんが、「智くん、誕生日のケーキは何がいい? チョコレート? それとも?」と聞かれ、子どもながらに気を遣って遠慮しました。すると、Aさんはお結界に進まれ、「今まで教会のお子さんたちにケーキをお供えさせていただいてきましたが、初めて断られました。これはどういうことでしょうか?」とお届けされたのです。
 Aさんが帰られてから、父である教会長に「こういう時は、相手の思いをありがたく受け取るようにするんだよ」と言われましたが、それでも私は納得がいきませんでした。「お兄ちゃんたちは何で遠慮しなかったんだろう。僕はいいことをしたのに、何で注意されるんだろう」と思っていたのです。
 しかし、あれから年齢を重ね、当時のことを思い返すと、断ることが誰にとってよいことだったのかと言えば、自分のためだったということに気付かされます。ただその時、Aさんがすぐにお結界でお届けをされたことが強く印象に残っています。自分が断った途端、一瞬悲しそうな顔をされ、お結界に進まれたのです。私はささいなことだと思っていましたが、Aさんはそれをご信心で受け止め、お取次を願われたのです。私はこのことをとおして、相手の気持ちを酌むこと、さらに、どんなことでもお取次を願っていく姿勢を見せていただいたように思います。

居場所としての安心感
 ある信者さんの式年祭の御用で、願い主であるBさんから、「私は金光教が嫌いです。親がとても厳しかったので…。よく叱られたんです」と言われました。父である教会長と共に御用させていただいたのですが、ふとした折、私に話してくださいました。おそらく話しやすかったのでしょう。
 Bさんの親御さんとは、幼少の頃にお会いしたことがあります。本当に熱心な信者さんという印象で、さまざまな逸話もうかがっていました。ただ、実際には、信心のありがたさよりも厳しさの方が伝わってしまい、その結果、Bさんが金光教を嫌ってしまっている現実がありました。どうやら信心を強く進めるがあまり、相手へ求める気持ちが責める気持ちへと変わってしまっていたようです。
 「信心はかくあるべき」というのは、時に相手の負担となってしまう場合があります。そもそもの目的は、信心のありがたさ、神様のありがたさを伝えたいはずなのに、相手にも自分と同じレベルのものを求めてしまう。「一緒に参拝してほしい」「もっと信心してくれれば」というのは、実際には次の段階のことで、そういうところからも、私は「運動」の「願い」にある「導き」に、この「運動」の大切なところがあるように思うのです。
 現在、私は知り合いの高校野球の監督さんに声を掛けられ、3年前からコーチをしています。通い始めた頃の部員数は8人で、試合当日のみ助っ人部員が来て、何とか単独チームで出場できるという状況でした。翌年には、最上級生の6人が卒業し、隣接する高校との合同チームとなりました。
 群馬県では過去に、4校合同のチームが公式戦に出場したケースもあります。合同練習が限られる中、違う学校の仲間を信じて練習に取り組まなくてはなりません。監督さんからは、「まず、野球は楽しいってことを教えてやってくれ」と言われました。野球が嫌いになって部員が辞めてしまうことは、他校にも迷惑をかけることになるからです。
 私は極力、部員たちを尊重し、「どう思っているのか」「どうしたいのか」と、彼らの気持ちを尋ねるようにしてきました。彼らの考え方や練習の仕方を頭から否定しないように、話を聞いたうえで一緒に考えていく。「高校野球とはこうあるべき」「この練習はこうあるべき」「やるからには上を目指す」といったことは、目線が変わると押し付けになってしまいます。まず、彼ら自身が考え、「やってみたい」「やってみていいんだ」という、居場所としての安心感を感じること。そして、どこまでも本人が納得したうえで、必要性があっての軌道修正でないと意味がありません。信心においても、道しるべは必要ですが、道程は本人が歩きやすいように工夫し、主体性を持つように促すことがいると思うのです。

弱い部分が心を開く
 また、信者さんとの関係から、ある精神科病院のデイケアで、利用者さんを対象にスポーツを教えることになりました。得意分野でもあり、我ながら張り切って取り組もうと思い、やり方を見せれば分かってもらえるだろうと高をくくっていましたが、そう簡単なものではありませんでした。
 スポーツを教えるといっても、心を開いてもらうまでには時間がかかります。心の病を抱え、とりわけ人間関係で悩んできた方たちです。面識もない人間が急にやって来て、ルールや練習の仕方を伝えても、きちんと話を聞いてはくれません。まずは私がどんな人物なのか理解してもらう。初対面の人と会った時、自分でもそうだなと思いました。
 ここでもまず、「スポーツを好きになってほしい」ところから始めました。利用者さんと接する機会が増えるにつれて、だんだんと話をしたり、相手を笑わせて元気づけたりということはできるようになりましたが、私の中には、心にもう一つ距離感がある、と感じていました。
 そんな折、病院のスタッフが予防接種を受けることになり、私も受けました。その時、不覚にも私は失神してしまったのです。後で調べてみると、血管迷走神経反射という症状で、針が刺さるということに緊張し、汗が出て、気を失ってしまうのです。昔から注射が苦手で、ある程度は克服できたと思っていたのですが、思わぬところで出てしまい、注射を受けた椅子から、そのまま転げ落ちてしまいました。
 看護師さんは大慌て、男性の利用者さんが駆け付けてくれて、ベッドに運ばれました。気分が落ち着いてから、とても気恥ずかしい中、スタッフや利用者さんにお礼を言いに行きました。「意外な弱点があるのね」「土居さんでも苦手なことがあるんですね」と言われ、さらに冷や汗が噴き出してきました。
 ただ、幸いなことに、この一件から皆さんとの心の距離が近くなったようで、利用者さんの方から、いろいろな話をしてくれるようになりました。「実は困っていることがある」と伝えてくれる人、「笑われるかもしれないけど」と前置きして、本当はやってみたいことを言ってくれる人など、私としては隠していた弱点が想定外に明るみに出た形ですが、同じ人間として弱い部分があることを感じてくれたのでしょう。この事柄から、自分はいつの間にか強がっていて、知らず知らずのうちに相手を遠ざけていたのではないかと思いました。
 そして、野球を続けてきてよかったと思える場面も残されていました。最初にお話しした、バースデーケーキをプレゼントしようとしてくれたAさんですが、晩年は体調を崩され、入院生活を送るようになりました。もう眼も見えなくなっていたのですが、父に誘われてお見舞いに行きました。
 声を掛けても返事ができず、見ていられない様子でしたが、帰り際に父に促されてAさんの手を握りました。最初は首を傾げていたAさんでしたが、握っていた手をおもむろに放すと、素振りの真似をされました。私の手のマメに気付いてくれたのです。覚えてくれていたことをうれしく思い、「私が野球を続けてきたのは、この瞬間のためかもしれない」と涙が込み上げてきました。ずっと応援し、祈ってくれていたのだと感じました。
 今春、関係教会の天地金乃神大祭へ参拝し、「五つの願い」という話を聞かせていただく機会がありました。それは、「『人を軽く見ない、人に恩をきせない、人を利用しない、人をあてにしない、人を責めない』という言葉は他宗教でもよくある。そこに最後に、『そういう私にならせてください』という言葉が添えられているところに金光教のご信心がある。あれが一番大切なことだ」という話でした。
 この「運動」の目的は、最後の行にある「神人の道」を現すことだと思いますが、「願い」にある「導き」という言葉に、あらためて私自身、さまざまな事柄をとおして導かれていることに気付かされます。きっと、「導き」には、「自分自身が導かれている」と気付くことも含まれているのでしょう。
 これからも関わりある方々とのつながりから、神様と出会う稽古を続けていきたいと思います。そのうえで、周囲にも神様を感じてもらえる空間が生み出されるように願い、私自身も努力したいと思います。
(2018/8)

   



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