神人あいよかけよの生活運動

HOME › 教会信奉者の方へ › 神人あいよかけよの生活運動 › 「教報天地」運動のページ

金光教報『天地』 12月号 神人あいよかけよの生活運動


信心ってワクワクだ  石塚光昌(新潟・佐渡)

いつもとは違う行事に
 周りから見ると、どうも私は少々間が抜けていて、おっちょこちょいなところがあるらしい。でも、そんな自分を周りの人たちは好意的に受け止めてくれているようで、半ばあきれつつも、笑って許してもらえることが多いのです。もちろん、自分としては真面目に取り組んでいるので、結果として間違ったり、失敗してしまうことは不本意であり、時には笑われて腹が立つこともありますが、それで場の空気が和んだりするのであれば、これも人のお役に立つことかなと、自分に言い聞かせています。
 こんな私が教務センターで御用にお使いいただいて、はや5年。最初の頃は訳も分からず、「これで果たして御用になっているのか」と思うことばかりでした。しかし、この頃になってようやく、「いや、むしろこんな私だからこそ、今の御用に当たらせてもらっているのだ」と、つくづく思うようになってきました。苦手なことや自分だけでは気付けないようなことも、繰り返し稽古させていただいていると受け止めて、日々の御用に当たらせてもらっています。そうした中で、最近、特に心に残った出来事がありました。
 信越教区では、青少年の交流と親睦を願いとして、「青少年のつどい」という1泊2日の行事を毎年行っています。その開催に当たり、例年あれこれと企画を考えるのですが、今年は、「ワクワク感」を感じられるものにしようという話になりました。
 これは、私が冗談半分で「同じ行事でも、ひらがなをカタカナに変えるだけで、何だかワクワクする感じになるよね」と言ったのがきっかけですが、ともあれ、今年は「つどいに参加したら、こんなにワクワクする体験ができた」と思ってもらえるもの、そして、仲間と体験できたことが、少しでも日常生活の力になればありがたい。そんなことを願いながら、日中のプログラムは、前後につながりを持たせたり、アレンジを加えて、よりテーマに沿った内容になるようにと検討を重ねていきました。
 そうした中で、日中の活動内容はある程度まとまりました。すると、夜のプログラムも今までと同じでいいのかと思えてきました。というのも、これまでは、室内で子ども同士、時には大人も交じってゲームをしたり、懇談をしたりという場を設けて、夜は自由にのんびりと過ごします。それはそれで、参加者は楽しんでくれるし、普段会えない者同士がゆっくり話せる貴重な時間でもあるのですが、今年のテーマには、ちょっとそぐわない気がします。
 そんなことを思いながら、施設の活動プログラムを眺めていると、「キャンドルのつどい」という文字が目に留まりました。内容を確認すると、施設に用意されてある燭台にキャンドルをともし、それを囲んで語り合ったり、ちょっとしたゲームをしたりするというものでした。
 「暗い室内にキャンドル」という場面を想像しただけで、ワクワクする面白さがありそうだと安易に考えた私は、あまり深く考えずに、施設への仮のプログラム提出の際に、それを独断で盛り込んでしまいました。少し考えれば当たり前のことですが、この軽はずみな決断が、後々ちょっとした問題になっていくのです。

諦める気にはなれない
 その後、他の御用に携わっているうちに、つどいのプログラムを変更したことについて相談するのを、つい後回しにしてしまいました。そうこうしていると、開催日が近付いてきて、「そろそろプログラムを本格的に詰めていこう」という話になりました。そこであらためて「キャンドルのつどい」のことをみんなに話すと、他のスタッフは口々に「それは難しいんじゃない?」とか、「誰がその場を仕切れるの?」と否定的な意見ばかりです。私の中では、誰が見てもワクワク感満載のプログラムという認識で、てっきりみんな賛成してくれるものと思っていたので、当てが外れてがっかりするやら、落ちこむやら。もっとも、私が勝手に進めたことなので、言われてみれば実行は難しそうだし、それならいつもどおりのプログラムでいいのかもと思い始めました。
 結局、その場はいったん保留になりました。いつもどおりの懇親会であれば、事前準備もさほどなく、直前でも変更可能だろうという判断でした。いつもの私なら、例年どおりの流れで進める方が、勝手も分かって負担も少ないので、特別に新しいことはやらなくていいか、と妥協していたと思います。ただ、この時は自分の中に、せっかく参加してくれる子どもたちに、いつも以上のワクワクを感じてもらいたいという気持ちが強かったので、キャンドルのつどいを諦める気にはなれませんでした。
 そこで、インターネットで他の団体の実施例を参考にしながら、どのような構成なら経験の浅い自分たちでも実施できるか、自分なりに考えてみました。何とか、これならどうにかできそうかな、という構成プランを作成したものの、それを他のスタッフに見せると、やはり難色を示されます。正直自分の中でも、指導者経験のない人間には、ちょっと無理があるかもと思わなくもなかったので、残念だけど諦めるしかないかなと思い始めていました。しかし、そんな弱気だった私を支えてくれたのが、参加者の顔ぶれでした。
 このつどいには、毎年のように参加してくれていた若者たちがいました。その多くがここ数年で社会人になったり、教区から離れたりしていたため、今年は参加者が少なくなると予想していました。ところが、小学生年代を中心にできてきた横のつながりがきっかけで、かえって今までになく参加者が多くなることが分かってきたのです。
 例えば、AちゃんとBちゃんは、もともと同い年だったのですが、住んでいる地域も全く違うため、幼いころに遊んだ記憶がある程度でした。それが今年、たまたまある会合に、それぞれ両親と一緒に来て再会し、一日遊んでいるうちに仲良くなった、ということがありました。
 また、このAちゃんは、Cちゃん兄弟とも仲良しでしたが、Cちゃん兄弟は普段ご本部で御用されている両親と一緒にいるので、なかなか教区の活動に参加することはできません。ところが、今年はいろいろなご都合を頂いて、Cちゃん親子もつどいに参加できることになったのです。
 細かいことを挙げればきりがありませんが、ともかく、こうした一つ一つのおかげを頂く中で、まさに青少年の代替わりとでもいうべき、若い参加者がたくさん来てくれることになったのです。ありがたいと思う一方で、それならなおさら、みんながワクワクするつどいにさせてもらいたいと願うようになりました。

まずは自分に働きかけを
 ちょうどその頃、私の地元の地域の七夕行事も間近に迫っていました。この七夕には、各町内が毎年山車を製作し、子どもと一緒にパレードをするのですが、今年は私がその製作責任者に当たっており、準備に追われていました。
 その準備作業の中で、休憩などで流すBGMを選曲している時、何気なく候補に入れていた楽曲を聞いているうちに、「これだ」とひらめくものを感じました。それが、「パプリカ」という曲でした。この曲は、今では子どもたちに人気があるとメディアにも多く取り上げられるようになりましたが、その頃の私には、さほど馴染みがない曲でした。ただ、聞いていると何とも言えず胸が躍り出すような、まさにワクワクする歌だったのです(あくまで個人的にですが)。しかも、その歌の振り付けも、練習すれば誰でも踊れそうなものでした。
 そこからは、悩んでいた「キャンドルのつどい」の内容を、この歌を歌い、少し簡略化した振り付けを覚えて、最後に全員で踊ることにしました。私は振り付けを覚え、歌や踊りを説明するための資料の作成を始めました。つどいに先駆けて開催された地元の七夕行事でも、この曲が流れ出すと、子どもだけでなく親も口ずさんだり踊っていたので、これなら参加者全員で楽しめるものになるはずだと、自信を深めました。
 また、他のスタッフも、参加される方にワクワクしてもらえる内容にと、アドバイスや資料作成の手伝いをしてくれたり、ともすると弱気になる私を支えてくれました。さらに、直前になって参加が確定した方の中に、青少年活動について経験豊富な方がいたことから、細かい部分に助言を頂くこともできたのです。
 こうして迎えたつどいは、参加した子どもの大半が小学生以下だったこともあり、保護者である大人も大勢参加する、にぎやかな集会となりました。そして夜、期待と不安が入り混じる「キャンドルのつどい」が始まりました。私は「どうぞ、みんなが喜んでワクワクできるようなプログラムにさせてください」とお願いし、あとは無我夢中でプログラムを進行しました。すると、緊張や焦りでつまずきそうな場面でも、子どもたちの何気ない言動に救われたり、普段はおとなしい子がさりげなくフォローしてくれたり、ぎこちないながらも何とか進めることができ、そして、いよいよ歌が始まると、自然と全員が笑顔になり、最後には参加者みんなで歌って踊って、夜のプログラムを終えることができたのです。
 「キャンドルのつどい」が終わった時、まず感じたのは「神様ありがとうございます」という思いでした。普段の私であれば、「ああ、終わった。何とかうまくいってよかった」程度しか感じていなかったと思います。けれども、ここに至るまでのことを思うと、神様がさまざまな形をとおして働いてくださった結果だと思え、もったいない、ありがたい気持ちになりました。
 また、例年にない参加者が集まったことや、そこから生まれてきた事柄に、大きな神計らいを感じずにはいられませんでした。そして、参加者にワクワクしてもらいたいと思って取り組んできたことが、実は、私自身が一番ワクワクする世界を体験することになったのです。
 私は、どちらかといえば「できない」人間だと思います。でも、できない自分だからこそ、信心の大切さが分からせてもらえ、そういう私が信心をさせていただくことで、私なりに現していける神人あいよかけよの世界があるんだと思います。「運動」というと、周りに向かって何か働きかけなければならないように感じるかもしれませんが、本当に大切なのは、自分自身に働きかけることではないでしょうか。神様を離さず、願いを持って取り組むことで、この夏に経験したようなワクワクするおかげを頂けることを楽しみに、これからも私なりの信心を生活に現していきたいと思っています。
(2019/12)

   



このページの先頭へ