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金光教報『天地』 6月号 神人あいよかけよの生活運動


親子が「神人の道」を歩む  山根正威(佐賀・呼子)

家族で運動に取り組む
 北九州教区では、昨年から「運動」推進本部を立ち上げ、「神人あいよかけよの生活運動」の啓発推進に取り組んでいます。これまで教区では、この運動の取り組みに関して、あまり積極的とは言い難い状況にありましたので、これからどのように取り組めば、地に足の着いた活動として、教区内に浸透させることができるだろうかと検討しました。
 その結果、この運動が信奉者家庭に広がっていくことが何より重要であると確認し、(1)神様によろこんで頂く家庭生活、(2)神様を感じる家庭生活、(3)信心が伝わる家庭生活、という3つの実践項目を掲げました。さらには、それらの項目を基に、日常生活で起こりうる出来事を実例にして、大人だけでなく子どもたちにも関心を持ってもらい、一緒に取り組むきっかけとなるものを作ってみてはどうか、ということになり、四コマ漫画や実践を促すイラストを、運動を表現するツールとして、毎月「教区だより」と管内通牒で各教会へ発送しています。こういった漫画やイラストなどを活用していただくことで、家庭に信心の会話が生まれることを期待しています。


家族みんなの受験
 さて、2年前の1月下旬のことです。中学3年生のT君が母親と共に、私が奉仕する教会に参拝してきました。高校受験を目前に控え、塾に通っていたのですが、親の願いとはうらはらに、T君は塾へ行くふりをして別の場所で時間を潰していたのです。しかし、とうとう家を出たっきり帰ってこないので、家族で探し回る事態となりました。
 彼が見つかったのが海岸付近で、「そんなに塾へ行きたくないのなら仕方がない。けれども高校受験まで1カ月ほどしかない。こうなったら神様にお願いするしかない」と親子で参ってきたのです。それから毎日学校が終わると、その足で教会に来て受験勉強をしていました。
 日曜日は、朝から夕方まであまり休憩を取ることもなく、真面目に勉強に取り組んでいたので、私は母親に、「これは本人だけの受験ではない。家族の受験と考えるべきではないか。親も受験する気持ちで朝参りに取り組みなさい」と伝えると、母親は、T君の弟や妹を連れて、朝5時の参拝を始めるようになり、おかげで希望の県立工業高校の建築科に合格することができました。
 無事に入学ができ、その後は元気に通っているだろうと思っていると、9月の半ばにT君の母親が参ってきて、「息子は学生服を着て家を出るが、『学校には来ていない』と、担任の先生から何回も連絡がありました」と言うのです。私は「本人が帰ってきたら教会に来るように言ってください」と伝えると、その日の夕方、親子で参ってきました。
 学校に行かない理由を尋ねたり、どこでどう過ごしていたのか聞いてみると、バスを乗り継いで佐賀市内をぶらついたり、父親の実家に行ったりして時間を潰して家に帰っていたようです。彼の父親は、家族と同居しておらず、仕事の都合で実家から会社へ通ったり、会社の寮で過ごすことがほとんどで、帰ってくることはありません。それに夫婦間の問題もあり、父親不在の家庭なのです。その後もT君の逃避行動がやむことはありませんでした。

彼の心が育ちますように
 3学期に入ったある日、T君を含む3人の生徒は、専門教科の先生から提出物を早く出すように言われていました。提出期日のその日、3人のうちの1人がインフルエンザで学校を休んでいたために、T君はてっきり3人そろって出さなければならないと思い込んで、担当教師に確認もせず、提出物を出しませんでした。その後もそのままにしていたので、再び厳しく先生より叱責を受けた時、T君は休み時間になっても話す友人もいないクラスの雰囲気に、もうこの高校にはいたくないとひそかに決心をしていたようです。
 1月下旬の朝ご祈念前、私がご神前にお供えするご神飯の準備をしていると、Tくんの祖母が血相を変えて教会に来ました。「Tが書き置きをして家にいません」と、悲痛な表情で訴えられた時、一瞬「しまった」という思いが私の脳裏をよぎりました。
 「どうしたらいいでしょうか」と尋ねるので、「すぐに警察へ連絡しなさい」と言い、お広前に参拝している信者さんにも「車で捜してください」とお願いして、「どうか手遅れになりませんように、海の方へ行っていませんように」と、ただただご神前で神様にお縋りするしかありません。その30分後、パトカーがT君を保護したと連絡が入った時は、さすがにほっと胸をなで下ろしました。
 その後、T君が母親と参ってきた時、あまりにもナイーブな彼の心に対して、私は「もっとしゃんとしなさい」と言いたい気持ちを抑えながら、私はあえて厳しい口調で、「きみは一人で思い悩み、あんな行動を取ったかもしれないが、よく考えてみなさい。家族や多くのご信者さんがきみを捜してくれたように、きみのことをどれだけ心配したか、もっと気付くべきではないか」と伝え、「自分の思いは、はっきりと言わなければ、誰も気付いてくれないし、人には伝わらない」と諭しました。しかし、彼が高校を辞める気持ちを変えることはありませんでした。私は、こちらから具体的にこうしなさいと言うことはやめようと思い、その後は彼の思いを聞きながら、「どうぞ心のお育てを頂けますように。どうか彼にとって一番いい選択の道が見つかるように」と神様へ祈る以外に道はないと思い、願い続けました。


神様は人を差し向ける
 親子は通信制の高校へ編入する道を考えて、その学校の説明会に参加しましたが、卒業までに4年かかり、常にレポートの提出が課せられることを知った時、今よりもよほど精神的にしっかりしないと、卒業するのはなかなか困難という印象を持ったようでした。
 そんな中、T君の担任の先生から、「今後について話し合いたい」と連絡がありました。親子で学校に向かい、担任の先生と面談した時、母親は驚きました。なんとT君の担任の先生は、母親がお世話になった高校時代の先生でもあったのです。
 そんなことから担任の先生は、とりわけT君の性格や彼の気持ちを親身になって理解しようとしてくださり、彼の不器用な授業の取り組みに対して、徐々に学校側も理解をしてくれるようになり、普通ならあり得ない寛大な処置を取ってくれました。提出物の期限が延ばされ、実習時間を設けてくれたり、居残りでレポート提出ができるまで担当教師が付き添ってくださるという、彼にとっては非常にありがたい学校側の対応でした。
 そんなある日、私はT君に、週末は教会に朝参りをし、ご祈念後の共励の時間に自分の感じたことや考えを、信者さんたちに伝える稽古をすることを勧めました。はじめは何をどう言えばよいか分からず、戸惑いもあったようですが、「何でもいいからとにかく思ったこと、感じたことを話してみなさい」と促すと、たどたどしい感じで稽古をしていました。そして、続けて取り組んでいくうちに、次第に大人の中にいても物おじすることもなく、自分の考えを率直に話せるおかげを頂いたのです。
 教会では、年末に子どもたちが中心となって開催する「ありがとうパーティー」が行われます。その中に、1年間お世話になった人へ、感謝の手紙を発表するプログラムがあるのですが、T君は私に次のような手紙を書いてくれました。
 「伝えたいことが多くあります。その中で大きく感謝していることを伝えます。一つ目は教会での勉強です。自分はテストが近付くと、毎日教会で勉強することが習慣になっています。これも振り返ると、高校受験の時からです。あの時、ほかの塾に行っていたら、もしかしたら自分は変われていなかったと思います。二つ目は、家を出て行った時です。あの時は、本当にたくさんの方に心配をかけてしまいました。その後、教会に来て、親先生とのお話で、生まれてはじめて自分は叱られたと思いました。でも、親先生に叱ってもらえなかったら、自分が言いたいことは、今も言えなかったと思います。親先生から、伝えたいことはそのままにしないで、はっきり伝えることを学びました。これから高校と教会の行事の二つを、両立してがんばるのでこれからも見守ってください」

助からない人はいない
 T君の母親は、決して彼を叱ることなく、辛抱強く彼の行動を受け止めて、「生きていてくれればいいのだから」と祈り続けていました。2学期だけで20数回繰り返された彼の逃避行動ですが、学校から連絡があるたびにお取次を頂き、T君からの連絡を待って迎えに行き、その足でT君を連れて教会へ参ってきました。ただただ彼の心が、たくましくなっていくことを願う中に、神様もこの親子に一番ふさわしい方をお差し向けくださり、辛抱強く彼を導いてくださったのだと思います。とりわけ彼の心の中に、教会への信頼の気持ちを育ててくださいました。
 試験週間になると、彼は家に帰らず、そのまま教会に来て、明日の試験科目の勉強をします。彼にとって教会は、とても志望校合格は難しいと思われた中で、合格のおかげを頂くきっかけとなった尊い場所であり、自分に自信を取り戻すことのできる、心落ち着けるありがたい場所なのでしょう。
 教祖様が、天地金乃神様より「世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ」とのお頼みを受けられてから160年。教祖様が天地の親神様から蒙られたお徳を、歴代の金光様が受け継いでこられたおかげで、令和元年の現代になっても変わることなく、私どもがおかげを蒙らせていただけることはありがたいことです。
 時代が変わっても難儀のなくなることはありませんが、たとえどのような時代になろうとも、天地の道理を現すこのお道の教え、天地のお徳が満ちた生神金光大神取次の働きを頂くことによって、どんなに難儀な境遇であっても助からない人はいないと信念をもって人を祈り助け導く、「神人の道」を歩ませていただきたいと願いを新たにしています。
(2019/6)

   



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