HOME › 教会信奉者の方へ › 神人あいよかけよの生活運動 › 「教報天地」運動のページ

金光教報『天地』 6月号 神人あいよかけよの生活運動


神縁による「魂の家族」の再構築を  渡辺 順一(大阪・羽曳野)

ひとりぼっちの時代に
 無縁社会と呼ばれる今日の日本は、少子高齢から孤立無縁の多死社会へと突き進んでいます。そこでは、独り暮らし高齢者の貧困と孤独死の問題や、弔いや墓地の在り方など、霊魂の行方をめぐる宗教問題が大きな社会問題となってくることでしょう。
 日本が明治維新以後受け入れた西欧的な近代思想は、大自然や世界の動きすべてを「物」と見る、世俗主義を基調とする考え方でした。また、家や家族についても、キリスト教的な一夫一婦制の核家族による「家庭(ホーム)」が、日本人の家の基本イメージになっていきました。しかし、地域や職場のコミュニティーが脆弱化し、夫婦・親子関係そのものが揺らいで、多くの人々が「ひとりぼっち」感を抱くようになった絆喪失の日本社会にあっては、血縁や核家族の枠を超えた、いのちを支え合う別の家族のカタチが求められていくように思います。
 世界中の人々は皆、共に「神の氏子」として、人類の大きないのちの流れの中で、お互いにつながりながら、たった一つのかけがえのない「私のいのち」を生きています。家族は元々、そのたった一つの「私のいのち」を愛情によって支え、心の成長を育んでくれる、魂の居場所であったはずです。しかし現実には、家が安らぎの場所にならず、家族がお互いに憎しみ合ったり、その血縁の場所が暴力や搾取の温床になっていたりする場合も多いようです。
 ジャーナリストの北村年子氏は、『ホームレス暴行死事件─少年たちはなぜ殺してしまったのか─』(吉田俊一著、新風社、2004年)の解説の中で、中学3年生から不登校になり、3年間の「ひきこもり」を体験してきた少年の、野宿者たちと触れ合うボランティア活動に参加した感想を紹介しています。
 「おじさんたちには、屋根のある家がない。段ボールや毛布一枚だけ。僕には屋根のある大きな家があるけど、安心して眠れる家はない。心が還れる居場所がない。だから毎日、自分の部屋で布団に入る時も、明日、僕は生きてるかなあって思いながら夜を明かしている。おじさんたちも、この寒い空の下で、明日、自分は生きてられるんだろうかっていう不安の中で、長い夜を過ごすんだと思う。だから僕もおじさんたちと同じ、ホームレスなんだと思う」
 この少年が語った「心が還れる居場所がない」という言葉は、長年、人と関わることを恐れて自室に閉じこもったり、あるいは家を出て街をさまよう生活を続けてきた、「ひきこもり」や「ヤンキー」「ニート」とレッテリングされてきた青少年たちだけの、特殊な心の状態を表現したものではないのかもしれません。「心が還れる居場所」とは、さびしさや弱さを抱えながら生きている自分を、そのままで受け止めてくれるような、魂やいのちの次元での人とのつながりの状態であり、戦わなくてもよい休息の場であるでしょう。家庭や学校、会社や地域社会は、現代を生きる多くの人々にとって、実際にはそのような「居場所」ではなくなってしまっています。現代の無縁社会を生きる人々は、「魂の家族」を見つけられないまま、さびしさや弱さを抱えながら、孤独に戦い続けることを強いられているのではないでしょうか。
 縁ある人間一人ひとりを大切な「神の氏子」と見る、親神の広大な慈愛によって捉え直された、家族関係や人間関係の再構築が現代社会に求められているように思います。これまで金光教が営々と育んできた、目立たない地道な信心の営みが、現代社会を救っていくような気がします。神様や御霊様からのまなざしに照らされた、神縁による家族関係・人間関係の広がりが、「心が還れる居場所」としての教会広前を拠点に展開されていけば、「ひとりぼっち」の時代が救われていくように思うのです。
 末繁盛の信心とは、結婚をして子宝に恵まれるということだけではなく、縁あるすべての人々が、傷付け合うことなく、わが魂を痛めることなく、お互いに「神の氏子」として支え合い、祈り合いながら、安寧に暮らしていくということです。教祖様は、世界人類が一家となって和睦し、繁栄する平穏な世を「神代」と呼びました。まずは、わが身からおかげを受け、子や孫たちが幸せに暮らせるように、そして子や孫に恵まれていない人もまた、縁ある人々が幸せになるように祈りながら、うれしく楽しくおもしろく、今月今日を生きることが、末繁盛の道を歩むことであり、「ひとりぼっち」の時代を「神代」に変えていく信心実践であると思います。

不慮の事故に「金光様」と
 信心の目的には、痛いのが治るとか、健康になりたいということもありますが、末々安心のおかげを頂くということもあります。信心の歩幅と、我々が頂いている肉体のいのちの歩幅と比べた時に、信心の歩幅の方が長いような気がします。信心の徳は、生きているいのちの歩幅を超えて、亡くなった後も力を発揮することがあるようです。
 A子さん(70歳)のお母さんは、愛媛県で熱心に信心しておられた方で、A子さんを含め8人の子どもがいました。A子さんがある日、写真を1枚持って参拝してきました。お母さんがお祀りしていた神棚でした。教会と変わらないほどの立派なご神殿を自宅に備えておられます。8人の子どもたちが孫を連れて実家に帰ってくると、みんながそのご神前で寝るそうです。その写真を見せてもらい、「おかげを頂くということは、こういうことか」と思いました。そのお母さんは、平成12年に93歳で亡くなられました。私は、A子さんから話を聞いただけで、写真でしかお顔を知りません。このお母さんは、「私が死んだら、8人の子どもたちと孫たちは、一人残らず幸せにしてやる。信心さえしていたら必ず幸せにしてやる」という言葉を残して亡くなったというのです。その時、孫の中の一人が、「おばあちゃん、孫までなんか?」と尋ねたそうです。すると、「孫までは責任持つ。そこからは知らん」と言ったそうです。
 A子さんの家庭は、ご主人に問題が多く、いつも経済的に困窮していました。姉と弟の二人の子どもがいますが、姉の方は母親の苦労を見て育ったので、「私の夢は社長になってお金を稼ぐこと。お母ちゃんのような夫に振り回される生き方はしたくないから、結婚はしない」と言っていました。
 A子さんのお母さんが亡くなった2年後に、次のようなことがありました。
 A子さんは、ビニールの原反を流し込んで、ベルトコンベアーで製品を押し出す工場に勤め、製品を箱に詰めていく作業を一晩中していました。ある時、休憩中に機械を見ると、汚れが付いているのに気付きました。機械が動き出すと、製品全体に汚れが付くから、今のうちに拭き取っておこうと思い、拭きにかかりました。すると、急にガラガラとローラーが回り出したのです。
 それは、20歳ぐらいの男性オペレーターが安全確認をせずに、スイッチを押したためでした。右手が機械の中に引き込まれていく時、とっさに「金光様助けて」と大声を出しました。すると不思議なことに、ローラーが止まったのです。
 後で聞いてみると、男性オペレーターが、動き出したが原反に破れがあったので、すぐにストップボタンを押したそうです。けれども、事故が起こっていることには気が付いておらず、手首までローラーに挟まれたところで機械は止まったのです。それで、A子さんは必死になって左手でローラーを逆転させました。設計上、逆には回転しないようになっているそうなのですが、不思議なことに、少しガタッと動いて、右手を引っ張り出すことができ、そのまま尻もちを着いたそうです。
 救急病院へ運ばれて、そのまま入院することになりました。右手は骨が折れ、筋も切れていました。指が動かないので、リハビリのために4カ月余り、羽曳野市の病院に入院していました。退院して、教会にお礼参拝に来られた時、「これまで子どもたちを育てるのは自分しかいないと思っていたので、一生懸命でした。けがをして動けなくなった時に、自分一人でやっていたと思っていたけれど、実は家族に支えられて働くこともできていたし、信心することもできていたということに気が付きました。自分が参拝できなくなったら、娘が会社の行き帰りに、バイクを教会に置いて見舞いに来てくれ、代わりに教会でご祈念をしてお取次を頂くようになってくれたことがうれしかった」と言われました。中学3年生になると、いよいよ進路を決めなくてはならない時期になりました。学校に通えていないこともあり、私の学力は低く、公立高校は頑張っても合格率50パーセントということで、私立高校も受験するように勧められました。

生き続ける祖母の言葉
 その娘さんの方も4カ月の間、毎日教会へ来てご祈念をし、病院でお母さんと話す時間が持て、心の中が大きく変わってきました。それまでお母さんのことを、「あんな頼りない男(自分の父親)に引っ張り回されて、自分の人生を台無しにしている女の人」という見方を持っていたのですが、そうではなく、「一生懸命信心していたおばあちゃんの祈りの中で、お母さんは暮らしてきたんだ。信心していたから、あのお父さんでも受け止めて、何とか道を付けていくだけの力を与えられているんだ。私よりもお母さんの方が大きい人だと思う」と言い出しました。そして、「お母さんは何があっても、どんな問題があっても動じない。『必ず何とかなる。食べられへんかったことはなかった。必ず道は付く』という信念を持って生活している」ということに出会えたのです。そこから娘さんの人生が変わっていきました。
 事故が起きた翌年の正月に、娘さんが初めてボーイフレンドを教会に連れてきました。それまでにも男の人と付き合うのですが、ある程度仲良くなって、男の人が「結婚」を言い出すと冷めてしまって別れていたのです。二人は、その年の夏に結婚しました。結婚後に私がもらった手紙には、「初めて彼の実家の駅に降りた時に、駅名を見てビックリしました。死んだおばあちゃんの名前が駅名だったのです。それを見て、おばあちゃんはあの世で私のことを祈ってくれていると思いました。久しぶりに、おばあちゃんのお墓参りに彼と行きました。帰ってから写真を開いて、昔のおばあちゃんの写真を見ました。すると、小さい時に聞かされていたおばあちゃんの言葉が蘇ってきました。『信心して頑張りや。必ず幸せになれるから』と、何度も何度も言ってくれていたことが蘇ってきました」と書いてありました。
 私は「ありがたいなあ」と思いました。信心の歩幅は、93歳で大往生したおばあちゃんのいのちの歩幅よりも、もっともっと長いのです。このお孫さんが生きている間中、おばあちゃんの言葉は生き続けていきます。また、彼女が自分の子どもに、「あなたのお父さんと結婚する時にこういうことがあったのよ」と伝えることができたなら、「子たち8人、孫たちまでも全員幸せにしてやる」と言ったおばあちゃんの信心が、時を超えてずっと生き続けていくことでしょう。信心をさせていただけば、そういうおかげを頂くことができるんだと、私は思いました。
 今、A子さんと娘さんは一生懸命信心しています。それまで娘さんは、「結婚しないで仕事をして家を建てたい」と言っていましたが、結婚して自分の望むような家を持つことができました。そして、今ではご主人が協力してくれて、手広く仕事をしています。それまでお金持ちになりたいとか、仕事がしたいとか、家が持ちたいという自分だけの思いで願っていたことは、ことごとく挫折してきましたが、信心の道に入り、その道の中で願った時に、いろいろなお繰り合わせを頂いて、それまでの願いが一つ一つ実現するようになっていったのです。彼女は今、そういうことを経験しています。
(2020/6)

     



このページの先頭へ