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金光教報『天地』 8月号 神人あいよかけよの生活運動


父からの手紙  宮田和弘(東京・本所)

父の信心の始まり
 今年の7月4日で、実家の父が80歳で亡くなって10年が経ちました。当日にはコロナ禍の中、細心の注意を払いながら、母と私たち兄弟姉妹のほか、孫ひ孫を含め21人の親族が集まり、兄が御用している花之宮教会において、兄と甥の2人によって10年祭が執り行われました。車椅子生活の不自由な身体ながらも、笑顔で毎日を過ごしている母を囲んで楽しいひとときを過ごし、今こうして信心が受け継がれ、子孫繁盛のおかげをこうむっていることを思うと、信心の継承を願い続けてくれた両親への感謝の思いが溢れてきます。
 父は、島根県の山あいの村に農家の4男として生まれ、戦後数年が経った17歳の時に家具職人になることを志し、母方の叔母を頼って愛媛県今治市に単身引っ越しました。子どもの頃に母方の祖父母に手を引かれて山口県の金光教の教会に何度かお参りしたことがあったようですが、周りに頼れる人もほとんどいない中、21歳の時に叔母に連れられて今治教会にお引き寄せいただいて以来、金光教に惹かれるものを感じて参拝するようになりました。
 父が信心する中でこうむった最初のおかげは、22歳の時に叔母の家の建て替え工事の手伝い中にハシゴから足を滑らせ、危うく2階の屋根から落下するところを助かったことでした。このことがあって父は、一層信心に励むようになり、教会の御用も積極的にさせていただくようになりました。そして、25歳の時に信心のある家庭で育った母とご縁があり、4人の子どもに恵まれました。
 一見全てが順調のようですが、経済的な苦労から体調を崩したり、何度か転職を経験し、また、家族の病気や事故など、いろいろな困難が降りかかってくる中で、その一つひとつを教会でお取次を願い、ひたすら神様に願う中でおかげをこうむっていきました。知り合いの建具職人に頼んで自宅の居間に立派な神棚を造ってもらい、私たち兄弟がテレビを見ているそばで、毎夜仕事から帰ってきた後、一心にご祈念をするのが父の日課となりました。
 一方で、そんな父の姿を見ながら育った私は、10代のある時期から父のことを疎ましく思うようになり、ほとんど父とは顔を合わせても会話をしなくなりました。大学進学は親元を離れて福岡の大学に進み、そのまま両親に相談することなく、東京の会社に就職を決めました。そうした状態でしたので、自然と私の足は教会から遠ざかっていき、心も神様から離れていきました。

どうか神様を離さず
 そんなある日、父から一通の手紙が届きました。便せん10枚ほどもある長い手紙でした。父から手紙をもらったことなどなかった私は、「何だろう」と不安に思いながら開いてみると、そこには最近の実家の様子と、私のことを気遣う言葉とともに、「どうか神様から心を離さず、信心を続けてほしい」という父の願いが書かれてあり、一緒に私の名前の書かれた御神米の束が入っていました。折々に両親が私のことを在籍教会やご本部にお届けしてくれ、お下げいただいた御神米でした。
 それまでも母からの電話で何度か、「教会にはお参りしているの?」と尋ねられることはありましたが、父から手紙が届いたことで、両親の心の内に目を向けるようになりました。そして、その後も手紙と御神米が送られてくる中で、だんだんと両親が私にかけてくれている祈りの深さについて考えるようになりました。就職して独り立ちし、親から自由になったと思っていた私ですが、両親はどこまでも私が先々まで立ち行くようにと願ってくれていたのです。神様から心が離れてしまった私のことが心配でたまらず、将来私が幸せになるためには信心が欠かせないと考え、ずっと祈り続けてくれていたようです。そんなこともあって、たまに実家に帰った時には、父とも言葉を交わすようになり、少しずつ心を開いて会話ができるようになっていきました。
 こうして私の心境が変化するタイミングに合わせたように、私の身の上にもいくつかの出来事が起こり、私の中に人のお役に立ちたいという思いが湧き起こるようになりました。そのような神様のお働きの中で、私はお道の教師を志すことになり、現在は教会長として御用させていただいています。

お互いに助かる道
 平成6年、私がお道の教師を目指して金光教学院で修行中のことです。父が軽い脳梗塞を発症して入院しました。それから半年ほど経った頃には、父母が車で墓参りに行く途中に事故を起こし、母がけがをして入院しました。その時の検査で、父が大腸がんであることが判明し、摘出手術をすることになりました。相次いで両親の身の上に起こった出来事によって、これまでは祈られる一方だった私も、微力ながら両親のことを祈らせてもらおうという気持ちが生まれ、ご祈念に熱が入るようになりました。
 その翌年には、両親の老後を考え、長年住み慣れた今治の家を手放し、兄が御用している高松市内の教会の隣家に引っ越してはどうかという話が持ち上がりました。家族や今治教会の先生の賛同を得て話を進めることになり、早々に実家の土地の売却先も決まり、引っ越し先の家の購入の話も順調に進んでいきました。
 ところが、購入する家の支払いをする期日の直前になって、土地の売却先の相手から、「この話はなかったことにしてほしい」と言われたのです。実は、両親が今治の土地を購入した当時の契約では、土地の境界線がはっきり定まっておらず、そのため、境界線が確定していない土地は買えないということでした。慌てた両親は、教会にお取次を願い、不動産屋にも相談しながら、まずは土地の境界線をはっきりさせることにしました。その時、教会の先生からは、「起きてしまったことは仕方ありませんが、ここから皆が助かるようにおかげを頂きましょう。相手を責めてはいけませんよ」とのお言葉を頂き、一つひとつ神様にお願いしながら話を進めていくことにしました。
 ところが、三方を接する隣人の中で、一軒だけがどうしても書類にはんこを押してくれないのです。まず父が話をしに行きましたが、お互い感情的になってしまい、まともに取り合ってもらえません。仕方なく父に代わって母が訪ねましたが、最初は会ってもくれませんでした。
 それでも根気強く訪問を重ね、そのたびに教会の先生のお言葉を思い出して、玄関先で手を合わせ、「どうぞお互いにとってよい話し合いになりますように」と願いながら訪ねていくうちに、だんだんと隣人も心を開いてくれるようになり、はんこを押すのを渋っていた理由も分かりました。書類上で両親の土地になっているところに、隣家の建物の一部分が張り出しているため、境界線を確定させるとその箇所を取り除かなければいけないからでした。
 理由は分かりましたが、簡単に解決できることではありません。一時は引っ越しを諦めようかとも考えましたが、それではこの話を進める中で関わった多くの人に迷惑をかけることになります。そこで、あらためて「お互いに助かる道とは何だろう」と両親と兄の3人で話し合いをする中で、「この土地を自分の所有物だと思い込んでいたが、結婚以来40年近く、数々のおかげを受ける中でお世話になった神様から頂いたお土地なんだ」ということに気付かせていただいたのです。そして、「しっかりお土地にお礼を申し、このお土地がみんなに喜ばれる使い道を考えよう」ということになりました。
 その後、はみ出ている部分の土地は隣家に譲って、新たな境界線を引かせてもらおうということになりました。その結果、隣人も快くはんこを押してくれ、土地の売買も済み、当初の予定より1カ月遅れましたが、無事高松へ引っ越すことができました。それ以来、両親は兄家族のお世話を受けながら、孫ひ孫に囲まれて日々楽しく過ごさせていただきました。後になって考えると、この引っ越しの一件は、両親の長年の信心に対する神様からの最後の試験だったのかなと思います。
 今、信心を支えに生活してきた父母の姿が、私にとって大きな財産になっています。まだまだ未熟な信心ですが、父の「神様だけは離さないように」という言葉と、そこに込められた両親の長年の祈りが、私の心の中に深く刻み込まれています。父母は「先々までおかげをこうむるには信心しかない」との思いで、日々教会でお取次を頂きました。さまざまな苦労を重ねながらも、どこまでも神様に縋り、お礼と喜びの心を忘れず、そして、自分の経験をとおして実感した神様のありがたさを、子や孫に伝えることを最大の願いとして過ごしてきたように思います。そんな父母の願いに応えられるよう、私もここから信心をさらに深め、子孫に、また一人でも多くの人に伝えていきたいと思います。

(2020/8)

     



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