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金光教報『天地』 10月号 神人あいよかけよの生活運動


おかげ連綿  西川浩明(宮城・仙台南部)

父の体に起きた異変
 平成31年1月5日、二代教会長であった父が75歳で帰幽しました。父は平成26年に小脳出血で倒れて入院し、自宅介護を経て、平成28年から亡くなるまでの3年間を病院で過ごしました。その間の出来事を振り返ると、まさにおかげの連続でした。そのような中で、私自身の信心が、自分なりにではありますが、「運動」の「願い」にある「神のおかげにめざめ」に沿わせていただくことができたのではないかと感じています。
 父は若い頃から糖尿病を患い、平成20年からは週3回の人工透析を受けていました。平成26年3月14日、昼食を食べ終えた父が急に顔をしかめたかと思うと、頭を押さえてよろよろとトイレに駆け込んで嘔吐し、そのままうずくまって動けなくなってしまったのです。
 実は、それ以前にも何度か、父が突然嘔吐したことがありました。その時は、私も母も驚き、「気分が悪かったのか?」「何か食べ物に当たったのか?」と心配しましたが、本人はケロッとして、「何だかよく分からないが急に戻してしまった。もう大丈夫」と答えたので、その後はさほど気に留めていませんでした。後になって知ったことですが、長い間人工透析を受けていると脳出血しやすくなるそうで、思えば、父はその頃からすでに小さな脳出血を繰り返していたのでしょう。
 ところが、この時は嘔吐が止まらないばかりか、うずくまったまま応答もはっきりしない父でした。私は動揺しながらも、トイレで苦しむ父を何とか抱え起こし、お広前まで運んで救急車を呼びました。混乱と不安、そして、「このまま死んでしまうのではないか」という半ば覚悟したような気持ちになったことを覚えています。
 私が動揺した理由はもう一つありました。折しも、その日は「金光教東日本大震災3年祭」の前日であり、東北教務センター職員の私は、その準備のため、まさに今、石巻に出発しようとしていたところでした。3年祭は、震災犠牲者の慰霊と被災地の復興を願って、全教の祈りと協力のもと、教区を挙げて長い時間をかけ、計画してきた大切な行事です。その上、私は事務局員だけでなく、震災体験発表者かつピンチヒッターの司会者でもあったため、絶対に行かなくてはならない立場にあったのです。
 程なくして救急車が到着し、母が付き添って、父は主治医のいるYクリニックに搬送されました。2人を見送った私はご神前に向かって座り、震える手を合わせて、「私はこれから3年祭に行かなくてはなりません。神様、すべてをお任せいたしますので、どうぞ父のこと、それから教会の留守をよろしくお願いします」と祈り、すぐに石巻へ出発しました。

介護の日々が始まる
 幸い父は一命を取り留め、3年祭も無事執行されるおかげを頂きました。Yクリニックに運ばれた父の意識はかろうじて戻り、透析を受け、そのまま一晩様子を見ることになりました。しかし、やはり様子がおかしく、翌朝のCT検査で初めて小脳出血であることが判明し、すぐさま治療可能なT病院に入院することになったのです。医師によると、「あともう少し気付くのが遅れていたら命が危なかった」ということでした。また、出血の箇所が、生命維持に関わる部位をわずかに外れていたことも救いでした。
 喜びもつかの間、脳出血を起こした後がまた大変でした。それは、病人の容体や病院の都合次第ですが、場合によっては24時間家族の付き添いが必要になってくるからです。すべてが整っているT病院での治療、リハビリが始まって約2カ月が経ち、父の容体が安定してきたことから、再びYクリニックへの転院が決まりました。しかし、私たちにとってはそこからが正念場でした。
 Yクリニックは、通院透析がメインの病院だったため、父の容体では、まだ家族が24時間付き添う必要がありました。教会長不在の間の教会御用は私が引き受け、付き添いはほぼ母の役目となりました。
 母は、父の食事や着替え、トイレなど、身の回りの世話から、診察、透析治療などの付き添いもし、夕方、車でやって来た私と入れ替わりで教会に帰り、洗濯、風呂、食事を済ませ、夜になるとまた病院に戻って私と交代し、病室の床にマットを敷いて寝泊まりする、という生活を毎日続けました。
 目まぐるしく慌ただしい日々でしたが、ありがたいことに、私が教務センターに出務する時には、信者さん方が交代で教会の留守番をしてくださったり、関東地方に住む私の姉たちも時々手伝いに来てくれました。また、当時膝を悪くしていた母が疲労で体調を崩すようなこともなく、私もまた、先の3年祭を皮切りに、日々の教会御用、霊祭、大祭、父がずっと続けていたご本部月参拝の代参、センター御用などの上に滞りなくおかげを頂きました。
 そして、そんな生活が1カ月近く続いた頃、自宅介護の準備や手続きが何とか整い、6月3日、ようやく父は退院することができたのです。退院後の月例祭で、車椅子に乗った父がお礼のあいさつをした時のありがたさは、今も忘れられません。

生まれ変わりのおかげ
 さらに印象深い出来事は続きました。それは、数年来先延ばしにしてきた教会屋根外壁塗装工事が、このタイミングで成就したことでした。父が倒れて以来、まさに綱渡りのような日々を送っていた最中、私自身すっかり忘れかけていた塗装工事の話が持ち上がり、信者さん方の後押しもあり、不思議とトントン拍子に進んでいったのです。梅雨時にもかかわらず、工事期間中は天候に恵まれ、もともとグレーで暗かった上、経年の汚れに塗れていた教会外壁は、7月、真っさらなアイボリーで明るく優しい外観に生まれ変わりました。
 そして、もう一つ、ちょうどこの工事が進む中で、私が決心し、神様に願っていたことがありました。それは、毎年夏にご本部で行われる少年少女全国大会のことでした。
 父が倒れる少し前、私はその年の大会御用奉仕スタッフとして声を掛けられていました。それまでに何度も御用を受けていたので、その時もいつもの感覚で承諾したのですが、3月に父が倒れてからは、事態が一変し、前述のとおりのバタバタ具合で、父の退院後も慣れない介護の日々が続き、とても教会を空けられる状態ではなくなっていました。私は、「いったん引き受けておいて申し訳ないけれど、事情が事情だ。声を掛けてくださった先生に話して、お断りしよう」と考えていました。けれども、なかなか言い出せないまま日は過ぎていきました。
 工事が間もなく完了という頃、お広前でぼんやりと考え事をしていた私は、自分が生まれた時の話を思い出しました。私は先天性腸回転異常という、胎児の時に内臓がうまく作られず、腸の一部が壊死してしまう病気を抱えて生まれました。生後間もなく血便が出て、これは大変だということで大きな病院に運ばれ、手術を受けました。生まれてすぐのことですから、私自身はもちろん覚えていませんが、今もおなかに手術跡が残っており、その時のことを父と母がよく話して聞かせてくれていたのです。
 医師から病気の説明を受けての帰り道、父は「この子は、もしかすると助からないかもしれない。万一助かったとしても後遺症が残ったら…。医療費はどうしよう」と、次々と不安が押し寄せてくるのを感じながら運転していたそうです。そして、ある交差点に差し掛かり、赤信号で停止しようとブレーキをぐっと踏み込んだその瞬間、「大丈夫!」という力強い声が父の心に響いたというのです。その「大丈夫!」の一言で、父は絶対の安心を得、結果として、手術と術後の回復、医療費、すべての上におかげを頂き、私は助かったのでした。

肚が決まれば願い以上
 私はこの話を思い出しながら、「大丈夫…か。そういえばこの数カ月間、一体いくつのおかげを頂いただろう。いや、待てよ。この数カ月間のおかげを頂けたのは、周りの人たちがそこにいてくださったからだ。そして、自分もまた、生まれた時に神様に助けていただき、長い時間をかけて育ててもらって、今御用にお使いいただけるだけの人間にならせてもらっていたからだ。この数カ月間のおかげを頂くための下地が、気付かぬうちにできていた。その下地もまた神様のおかげであることに違いない。おかげは受け通しに受けてきているではないか。何というありがたいことだろう。大丈夫。そう、ここから先もきっと大丈夫。神様にお願いして、今回の御用奉仕を受けさせていただこう」という強い思いが私の心に湧き起こり、私は御用を受けることに決めたのです。
 「肚(はら)を決める」という言葉がありますが、この時の私は、まさに肚が決まったような心持ちでした。父が倒れ、日々どうなるか分からない中で、ただ一生懸命に神様にすがり、目の前のことに取り組んでいくうちに、思いもかけないおかげを見せられました。そこから、実は連綿と続くおかげを受け通しに受けてきたことのありがたさにあらためて目覚め、やがて不安や心配は「神様にお願いしてさせていただけば、必ずおかげが頂ける」という確信に変わっていったのです。
 ありがたいことに、その願いは神様に通じ、その後、父の体調や留守中の教会の上にお繰り合わせを頂き、気付けば11日間、それまで参加してきた中でも最も長い期間、御用をさせていただくことができたのです。そして、神様のおかげは、やはり不思議で、深遠で、心が決まれば、願い以上のおかげを用意してくださるのです。私が頂いた願い以上のおかげは、この時の全国大会の御用がきっかけで、結婚のご縁を頂いたことでした。
 平成31年1月、当時、海外赴任中だった兄一家が、会社の指示で2年半ぶりに一時帰国した時、まるでそのタイミングを見計らっていたかのように、父はその生涯を閉じました。「死に際にも、なおお願いせよ」のみ教えどおり、父もまた、それまでのおかげを神様にお礼申し上げ、病床から皆のことを一心に願っていたに違いありません。
 父の葬儀の時に、久しぶりに全員そろった家族と、父が生前お世話になり駆け付けてくださった方々と共に、父を見送りながら、私は「父の死は、おかげ以外の何物でもありません」と、ただただ神様にお礼を申し上げるばかりでした。
(2020/10)

     



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