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金光教報『天地』 2月号 神人あいよかけよの生活運動


「おかげを頂いているからこそ」  光本 真一(岡山・落合)

教えは受ける側しだい
  私が在籍している落合教会は、昨年、開教90年を迎え、11月に記念祭を仕えさせていただきました。おかげを頂き、とてもありがたいお祭りでした。一方で教会の現状を見ると、参拝者数の減少や、信心継承の困難さなどが目に付きます。必然的に財の問題も生まれてきます。こうした現状の中で、最近特にありがたく頂いているみ教えがあります。
 それは「人間はみな、生まれる時に約束をしてきているのである。だから、家族が一人よりは二人、二人よりは三人、三人よりは五人と大勢いるほど、家庭の中に種々の難儀がある。幸いに信心をしていると、まあ、それを除いていただくのであるが、下地(生まれつき)の約束であるから、また、こういうことが起きたというようなことが出てくるかも知れない。その時に、これほど信心するのに、なぜこういうことが出てくるのだろうかと思えば、もう信心はとまっている。これはまだ私の信心が足らないのだと思い、これはどこまでも私の勤めるべき役であると思って、信心をしていかなければならない。そこからおかげがいただける。これほど信心するのにと思えば、もう、それきり信心の筋はとまっているのである」という津川治雄師の伝えです。
 この現状も、生まれる時の神様との約束であり、私の勤めるべきお役であると思えば、心が落ち着き、神様と共に通らせていただこうという気になります。難儀にも意味がある、というより、難儀の中にこそ神様がおられる、という気がしてきます。
 現在、私は東中国教務センター職員の御用を頂いていますが、業務の一環として、岡山県同宗連(同和問題に取り組む岡山県宗教教団連絡会議)の役員をしています。以前、ある牧師さんから「召命感(しょうめいかん)」という言葉を教えていただきました。神様から呼ばれること、使命を与えられること、といった意味だそうですが、その牧師さんは一般家庭に育ち、自らの意志で洗礼を受け、その後、牧師を目指して教団の養成機関に入られたそうです。養成機関に入るに当たって、面接で厳しく問われたのが「召命感」だったと言います。それが曖昧であると入学を許可されないと聞き、驚くとともに自分自身の来し方を振り返らされました。
 私の学院入学時を振り返ると、そこまでの自覚は持っていませんでした。しかし、丹念に人生を振り返ってみると、私を導くというか、操るというか、何かしらの強い力が働いていたことは、疑いようのない事実です。そうした働き、いわば「生まれる時の約束」に促されての学院入学であり、この現状であると、今では感じています。
 あの時の牧師さんのように、神様は、その時その時、私にとって必要なことを、さまざまな人や本、テレビなどをとおして教えてくれます。しかし、教えが教えとして生きるかどうかは、受けるこちら側の在り方にかかっています。それを受け損ねないようにしなければ、と切に思います。

体験に基づく教会の信心目標
 落合教会では、以前から教会としての信心目標を作り、取り組んできました。それは、複数年にわたるものであったり、1年で終わるものであったり、さまざまでした。例を挙げると「信心はご縁によって生まれる ご縁は言葉によって結ばれる 祈りをもって ご縁を結ぶ言葉を言わせていただこう」「今日一日 神様と共に歩ませてください 人の悪いことを言わない 天候のよしあしを言わない ありがたい心にならせてください」といったものです。
 こうした目標は、信心の向かう方向を明らかにするという意味と、自分自身の在り方を振り返るという意味において、大切なものだと思います。「天候のよしあしを言わない」などは、皆さん苦労されたようですが、日常生活に信心を織り込んでいく上では、一定の効果があったように思います。ただ、年限を設けた場合、その年限とともに目標も終わってしまうのが残念なところではあります。もちろん、次の年も同じ目標にして問題はないのですが、知らず知らずのうちに、「次の新しい目標を考えなくては」という意識にとらわれていたところがありました。また、「ああ、終わった」という解放感があったことも、正直否めません。
 そんな折、ご本部で新たな「運動」が始まることになりました。教会として、どう取り組むべきかを考える中で、「運動」の展開として、「運動」の「願い」を土台に教会の信心目標を作らせていただこう、ということになりました。また、新たに作る教会の目標は、年限を設けないことにしました。
 教会で検討を重ねた結果出来たのが、次の「信心生活目標」「実践目標」です。

●信心生活目標
 世話になるすべてに礼を言う心を土台として
 天地の大恩を悟り
 神心をもって人のお役に立たせて頂く

●実践目標
 いつでもどこでも
 生神金光大神様と申し上げて御取次を願い
 すべての事柄の上に
 天地金乃神様のご神徳ご都合お繰り合わせを頂く

 この目標を、「神人あいよかけよの生活運動」発足と同じく、平成24年から取り組み始めました。
 「信心生活目標」では、このお道の信心生活において身に付けたい大切なことを掲げましたが、「世話になるすべてに礼を言う心」については、私のある体験も反映されています。

三度にわたる金光様のお取次
 私が、教務センター職員のお話を頂いたのは、学院卒業後、教学研究所の研究生を経て教会に帰り、教会の御用を中心にさせていただいていた時期でした。また、結婚をし、第一子がもうすぐ生まれるという時期でもあったので、内心お断りするつもりでいました。家族も同じ考えだろうと思い相談したところ、思いがけず、「受けさせてもらったら」という意見でした。それで、やっと腹が決まり、教務センターの御用を受けさせていただきました。
 東中国教務センターは非常勤なので、月の出務は10日前後です。しかし、それまでと生活スタイルがかなり変わるのは確実でしたので、若干の不安を抱えていました。御用を始めるに当たって、教主金光様にお届けをさせていただきました。その折に、「これから御用をさせていただく上で、心掛けるべきことがあれば教えていただきたいのですが」とお伺いすると、金光様が「世話になるすべてに礼を言う心を土台にしていかれたら結構です」と教えてくださいました。この教えを頂き、ありがたい思いで御用に入ることができました。
 数年後、次長の御用を頂くことになった時、同じくお届けをし、あらためて御用の上で心掛けるべきことをお伺いしたところ、「世話になるすべてに礼を言う心を元にしていけばいいです」とのお言葉を頂きました。この時は、御用始めに頂いた教えをおろそかにしていた自分に気付き、恥ずかしい思いになりました。
 さらに翌年、本部での研修会に参加した折には、「これから教会に帰ってお取次の御用をさせていただくに当たって、大切にすることは何でしょうか」とお伺いしたところ、「世話になるすべてに礼を言う心を大切にされたらよろしい」とのお言葉を頂きました。こちらとしては、その時々、別の事柄、思いを持ってお届けしているつもりでいましたし、心のどこかで別のお言葉を頂けるつもりでいました。しかし、そんな心を見通しておられるかのように、ただただ「世話になるすべてに礼を言う心」という言葉をお下げくださいました。
 二度あることは三度ある、三度目の正直と言いますが、さすがにこの時は冷や水を浴びせられたように一瞬絶句してしまい、同時に自分自身が情けなくなりました。もっともらしくお伺いしてお言葉を頂いておりながら、それに本気で取り組むことをしていなかった自分をまざまざと見せられたからです。
 それから、まずは四代金光様のご本を繰り返し読むことから始め、「世話になるすべてに礼を言う心」に込められた中身を頂くことに努めました。そうした中で分からされたのは、「世話になるすべてに礼を言う心」とは、教務センターであろうと教会であろうと、あるいはどんな仕事、どんな役割であろうと、御用の場所や中身に関わりなく、人間が生きていく上でもっとも根本的で大切な心であり、人生の土台である、ということでした。そのことを、しっかりと心に刻むために、三度も同じ言葉をお下げくださったのだと思うと、実にもったいなく、ありがたい思いになりました。そんな体験が、「信心生活目標」には反映されています。
 しかし、実際に「世話になるすべてに礼を言う心」を生活の中で現すのは、頭で考えるほど簡単ではありませんでした。他人や物に対してはお礼が言えても、家族に対してはなかなか言えない、ということがあります。家族に対しては我が出やすく、怒りや甘えなどの気持ちも湧いてきます。「お礼が土台」と信者さんにお話ししている一方で、我を土台にしている自分がいます。「『お礼を土台』が聞いてあきれる」と家族から言われたこともあります。そんな自分に落ち込み、自暴自棄になることもありました。そんなことを繰り返すうちに、「お礼を土台とする」ということも、おかげを頂いてこそできることだ、という当たり前のことに、否応なく気付かされました。
 この経験が、「実践目標」にも現れています。天地の親神様の差し向けである生神金光大神様に御取次を願い、すべての事柄に親神様のおかげを頂いていく。お礼も人助けも、それができるおかげを頂いてこそ、ということを忘れないように、という戒めです。そのおかげが生み出されるのは、「生神金光大神様」と申し上げていくことからである、という意味で「実践」とさせていただきました。
 ここからも、この目標を大切にし、現状の中を神様と共に、先を楽しみ、勤めるべきお役に立たせていただくことを願いながら、ありがたく通らせていただきたいと、思いを新たにしています。
(2020/2)

   



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