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教祖の生涯

目次

1 出 生



 金光教(こんこうきょう)の教祖金光大神(こんこうだいじん)さまは、江戸時代の終わりごろ、文化11(1814)年8月16日(新暦9月29日)、備中国占見村(びっちゅうのくに うらみむら/現岡山県浅口市金光町)の農家、香取十平(かんどりじゅうへい)、しもの2男として生まれました。源七(げんしち)と名づけられ、実直で信仰心の厚い父と、慈愛に満ちた母のもとで、大切に育てられました。
 金光さまは、幼少のころから身体が弱かったので、父は暇を見つけてはわが子を背負い、村の氏神(うじがみ)である大宮神社(おおみやじんじゃ)をはじめ、近くの神社やお寺に参拝をしていました。そのため、父の着物は背中のあたりからすり切れてやぶれるのが常であった、と伝えられています。

注)明治6年の改暦まで旧暦表記。  
注) 以後、「教祖金光大神さま」を「金光さま」と表記。金光さまの年齢は数え年で表記。

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2 養子入り



 文政8(1825)年、12歳になった金光さまは、川をへだてた隣村の大谷村(おおたにむら)に住む川手粂治郎(かわてくめじろう)、いわの養子となりました。名前を源七(げんしち)から文治郎(ぶんじろう)と改め、周りからは文治(ぶんじ)と呼ばれるようになりました。

 養子入りの際、養父母から「好きなことは何か」とたずねられると、「神仏に参ることが好きなので、休日にはこころよう参らせてください」と答えました。また、「嫌いなものは」と聞かれて、麦飯が体質に合わなかった金光さまは、「麦飯がきらいです」と答えました。麦飯が常食であった当時の農民の暮らしから考えると、とんでもない答えでしたが、文治に期待と愛情を注ぐ養父母は、麦2斗(と)を米1斗※に換えてまで米のご飯を食べさせました。

※1斗(と)=10升(しょう)


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3 手習い



 農民に「読み書き」は不要とされていた時代でしたが、13歳になった金光さまは、養父のはからいによって、村の庄屋の小野光右衛門(おのみつえもん)から手習いを受けることになりました。2年という短い期間ではありましたが、読み書きそろばんをはじめ、倫理や道徳についても学びました。
 光右衛門は、天文・和算・測量・暦法・方位・鑑定などにすぐれ、また、村人からの信任もたいへん厚い人物でした。そのすぐれた人格にふれて成長した金光さまが物事の道理に明るい人となり、後年、自叙録など多くの記録を書き記すことができたのも、光右衛門との出会いに負うところが大きかったのです。

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4 養父の死と相続・結婚



 天保7(1836)年、金光さまが23歳の時に義弟の鶴太郎(つるたろう)が6歳で亡くなり、それから半月あまりの後、わが子の後を追うように養父粂治郎(くめじろう)が66歳で亡くなりました。
 金光さまは思いがけない義弟と養父の死にふれて、言いようのない悲しみや家の先行きに対する不安に襲われました。

 そうした中、家督(かとく)をついだ金光さまは、養父の遺言により姓を川手(かわて)から赤沢(あかざわ)に改め、一家のあるじとしての責任を果たすため、今まで以上に家業に努めていきました。そして、その年の12月、古くからの親戚筋にあたる、古川八百蔵(ふるかわやおぞう)の長女とせさまと結婚することになりました。金光さま23歳、とせさま18歳の時のことでした。


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5 四国88か所めぐり



 弘化3(1846)年、金光さまは33歳の厄年※を迎えました。当時の習慣では、親類縁者を招いて祝宴(しゅくえん)を開き、厄払いをするのが一般的でしたが、金光さまは、そのかわりに、四国霊場(しこくれいじょう)88か所を巡拝することにしました。
 巡礼者の多くは、けわしい山道を越えたり、深い谷を渡らなければならない札所(ふだしょ)にさしかかると、街道途中からの遥拝(ようはい)で済ましていましたが、金光さまは一つ一つの札所に足を運び、心をこめて丁寧に巡拝しました。

※厄年:一般に、33歳は女性の厄年とされるが、この地方では男性の厄年でもあった。


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6 住宅の改築



 次第に生活が豊かになり、家族も多くなったことから、これまでの小さな家を建て替えることにしました。
 嘉永2(1849)年の暮れ、隣村の住居購入の話を持ちかけられた金光さまは、日柄方角を見てもらい、その家を購入することにしました。
 しかし、翌年、小野光右衛門(おのみつえもん)から「年まわりが悪い」と指摘されました。すでに家を買い取っていたことから、再度、光右衛門に日柄方角を見直してもらうと、きびしい条件つきでようやく建築が許されました。

 金光さまは着工するにあたって、金神(こんじん)に無礼のないよう細心の注意を払って工事にのぞみましたが、その途中で2男の槙右衛門(まきえもん)が9歳で亡くなり、その後も、農家にとって大切な飼い牛が2頭死にました。
 思い起こせば、この15年あまりの間に、養父、義弟をはじめ、築いた墓は7つ。家が繁栄していく一方で、おそろしい「金神七殺(こんじんしちせつ)」を思わせる不幸に見舞われたのです。


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7 厄晴れ祈願



 安政2(1855)年、金光さまは男性の大厄とされる42歳を迎えました。この年の正月早々、金光さまは家に歳徳神(としとくじん)※をまつって1年の幸せを祈り、近くの神社に参拝して42歳の厄晴れを祈念しました。
 そして正月4日、片道30数キロの道のりを歩いて、備後(びんご・現広島県福山市)にある鞆津祇園宮(とものつぎおんぐう・明治4年、沼名前神社に改称)に参拝しました。

 また、14日には、備中(びっちゅう・現岡山県岡山市)の吉備津神社(きびつじんじゃ)に参拝して、「鳴釜(なるかま)※」の神事を仕えてもらい、さらにその足で備前(びぜん・現岡山県岡山市)の西大寺観音院(さいだいじかんのんいん)にも参拝して、裸祭りで知られる「会陽(えよう)」に参加し、往復100キロもの道のりを歩いて、15日に帰宅しました。

 金神(こんじん)のたたりに対して、あらゆる手だてを尽くしながらも、不幸をまぬがれることができなかった金光さまの切実な思いを込めた参拝でした。

※歳徳神(としとくじん):新しい年をもたらし、福徳を司る神。
※鳴釜(なるかま):釜のうなる音の強弱・長短で吉凶を占う神事。


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8 42歳の大患



 安政2(1855)年4月25日、金光さまは「のどけ」と呼ばれるのどの病気にかかり、生死の境をさまよいました。

 親類たちが集まり、病気回復の祈祷(きとう)を行うと、義弟の古川治郎(ふるかわじろう)に神がかりがあり、37歳のときに行った家の建築について「金神に無礼があった」という指摘がなされました。そして、ひたすらおわびをする金光さまに神様から、「その方の信心に免じて神が助けてやる」と告げられたのです。
 この出来事で金光さまは、はじめて神様に出会うとともに神様のおかげを受け、日柄方角にゆさぶられてきた人生を大きく変えることになりました。


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9 神のたのみはじめ



 安政4(1857)年10月、かねてより金神信仰をしていた実弟の香取繁右衛門(かんどりしげえもん)に神がかりがあり、金光さまに対して「金神の宮を建築してほしい」と頼まれました。実弟の口を通してとはいえ、金神様からはじめてお願いをされたことで、金光さまは、建築費用の一切を受け持ち、弟が安心して神様の御用ができるようにと心を配りました。

 翌年の正月、繁右衛門の広前※に参拝した金光さまは、弟の口を通して、「神の言うとおりにしてくれ、その上に神と用いてくれ、神もよろこぶ。これからは何事も神を一心に頼め」と告げられたのです。

※広前(ひろまえ):神様の御前という意味。神様のまつられている場所。


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10 はだしの行



 安政5(1858)年に入ると、金光さまは自宅の神前で、朝晩、一心に祈念をするようになりました。すると、その年3月には手の動きにより、ついで、7月には自分の口を通して、神様からの「お知らせ」を受けるようになりました。

 同年9月、金光さまは神様の「一乃弟子(いちのでし)」に取り立てられ、その手はじめとして、はだしでの農作業を命じられました。
 それを見た妻は「信心ばかりして、わらじの一つも作らないと人に笑われます」と反対しました。金光さまは農具にわらじをくくりつけ、たずねる人には「わらじが足にあわないので」と答え、妻の気持ちをくむことも修行としつつ、神様の教えどおりにしたがう生活をつらぬいたのです。


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11 隠 居



 神様の「お知らせ」にしたがっていくうちに、金光さまは不思議なおかげを次々と受けるようになりました。そして、それを見聞きした人たちが難儀や悩みを抱えて、金光さまのもとを訪れるようになりました。
 安政6年(1859)、神様は金光さまに、「15歳になった息子の浅吉(あさきち)に家督をゆずり、隠居をするように」と告げました。これを受けた金光さまは、徐々に仕事を浅吉にゆずっていきました。

 この年の秋、神様は「浅吉に牛を使わせよ」と金光さまに命じ、それを妻が心配して、金光さまに使い始めをうながしました。しかし、牛は暴れて手におえず、「これは神様のお知らせに違いない」と思い直して浅吉に使わせると、牛は急におとなしくなりました。
 神様の教えにしたがうことの大切さを、今さらながら痛感した出来事でした。


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12 立教神伝



 安政6年(1859)年10月21日(新暦11月15日)、その年の麦まきがすべて終わったころ、神様は金光さまに五色の幣(へい)※をつくらせ、神前に供えるよう命じました。神様の言うとおりに幣を作ると、「家業である農業をやめて、世間で難儀をしている数多くの人たちを、取次ぎ助けてやってくれ」という願いが告げられました。
 金光さまはつつしんでこれを受け、自宅を神様の広前として、人を助け導く御用に専念するようになりました。
 教団では、このお知らせを「立教神伝(りっきょうしんでん)」とし、この日を金光教の立教としています。

※幣(へい):木の棒の先端に切り込みを入れた串に、特殊な断ち方をして折った紙や木綿、麻などの紙垂(しで)を差したもの。


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13 広前・住宅の拡張



 自宅の神前で取次※に従事するようになった金光さまのもとには、難儀を抱えた参拝者が次々と訪れるようになりました。当初は家族をはじめ、多くの者が心配し、反対する者さえありましたが、参拝者は増え、自宅は徐々に手狭になっていきました。
 文久元(1861)年1月、神様は、母屋の東にあった小屋を建て替えるよう金光さまに命じました。このお知らせは、間口や奥行き、柱の寸法、大工の名前などまで細かく指示されたものでした。周りが騒ぐ俗信(ぞくしん)にとらわれず、神様のお知らせのままに建築を進めていくと、これまでのような家内の不幸に出会うこともなく、無事にできあがったのです。

※取次(とりつぎ):人の願いを神様に、神様の思いを人に伝えて、神様と人とが共に助かっていく世界を顕現(けんげん)するための働き。


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14 修験者の妨害



 近くの修験者(しゅげんじゃ)たちは、金光さまの教えが各地に広がっていくことを、こころよく思っていませんでした。彼らは、広前にしばしばやってきては、金光さまが布教資格を持たないことを盾にして、神前の神具(しんぐ)や供え物を持ち去るなど、さまざまな嫌がらせをしました。
 金光さまは、「このお道は年々にご繁盛なさる。先で合点(がてん)せよ」と信者をさとしていきました。
 文久2(1862)年11月23日、神様は、新たに「金光大明神(こんこうだいみょうじん)」という神号(しんごう)を金光さまに授けられました。布教上の問題が大きく浮上していたこの時期に、「金光」を冠した新たな神号が下げられたのは、神様の光を世に現わした者として、さらなる願いがかけられたと言えるでしょう。


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15 取次の宮建築



 当時の金光さまの広前は、自宅の部屋がそのまま用いられており、およそ神様をまつる社殿(しゃでん)らしい建物とはかけ離れた、非常に質素なものでした。
 元治元(1864)年元日、「神の宮を建ててくれ」というお知らせが金光さまに下がりました。
 さらに、「神が宮に入っていたのでは、この世が闇になる」と言われる神性と、「取次の宮」であり「参拝者の願い礼場所」という、広前の意義が力強く示されました。これを受けた金光さまは、神様の願いのままに宮建築の手続きを進めていくことになりました。


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16 神主職の取得





 当時、農民が神事に仕えることや、新たに宮や社(やしろ)を建築することは禁止されていました。したがって、早急に神事に仕えることができる資格を得て、お上(政府)から宮建築の了承を得ることが必要でした。
 そこで、金光さまは京都の白川家※に代理人を使わし、神職入門の承認を得て、自宅で神事を仕える許状(きょじょう)を受けることができました。
 これよって、斎藤重右衛門(さいとうじゅうえもん)や高橋富枝(たかはしとみえ)など、各地で取次にしたがっていた金光さまの弟子たちも、公に布教できる資格を求めて次々と白川家に入門することになりました。

 元治元(1864)年10月、金光さまは「金光大権現(こんこうだいごんげん)」という新たな神号を許され、妻とせさまにも初めて「一子明神(いっしみょうじん)」という神号が初めて許されました。

※白川家(しらかわけ):朝廷の祭祀(さいし)を司る長官職の家柄で、神職への補任や各種神事に関わる許状の下付(かふ)、神職や祭神への叙位(じょい)や称号の下付を取り次ぐ神道宗家の一つ。




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17 生神金光大神



 宮建築の認可が下りたにもかかわらず、建築にあたる棟梁(とうりょう)の行いが神意(しんい)に沿わなかったために、中断を余儀なくされました。
 明治元(1868)年9月24日、金光さまは神様から「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)」の神号を授けられました。生きながらにして“人を助けて神になる”という信心を日々実現している金光さまに対しての、最後の神号でした。

 さらに、「『天下太平(てんかたいへい)、諸国成就祈念(しょこくじょうじゅきねん)、総氏子身上安全(そううじこみのうえあんぜん)』と書いた幟(のぼり)を立て、日々祈念をせよ」と命じられました。
 金光さまに改めて求められたのは、世の中と世の人々の立ち行きを祈念することでありました。


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18 お道の伝播






 明治3(1870)年10月、金光さまは神様から、「信心辛抱(しんじんしんぼう)の徳をもって、天地のしんと同根(どうこん)なり。神が礼を申す」とたたえられました。
 この年、失明がもとで金光さまのもとへ参拝して信心に触れ、後に開眼のおかげをうけた岡山の白神新一郎(しらかみしんいちろう)は、明治4(1871)年、本教で最初の布教文書となる「御道案内(おみちあんない)」を著しました。

 その書物の冒頭で、金光さまを「お道開きの親神様」と記し、「ご生質(しょうしつ)温和(おんわ)にして、威(い)あって猛(たけ)からず、農民よりいで給(たま)い、生きながら神とならせ給うことは、前代未聞(ぜんだいみもん)である」と、その威徳(いとく)をたたえました。この白神によって、近畿一円から東へと道が開かれていったのです。





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19 神前撤去



注)明治6年の改暦のため、ここからは新暦表記。

 明治政府による宗教政策が改変される中で、金光さまは実質的に布教資格を失うことになりました。そして明治6(1873)年には、大谷村戸長(こちょう)※により神勤行為が禁じられ、さらに神前のしつらえ一切を撤去するよう命じられたのです。
 金光さまは広前を退いて誰にも会わず、控えの間にあってひたすら神様に祈る生活に入りました。そんな金光さまに神様は、「力落とさず、休息いたせ」と仰せれました。
 金光さまは、約1か月間の休息の後、大谷村戸長の命により、黙認という形で布教が再開できるようになりました。そして、4月11日(旧暦3月15日)、神様から金光教の信心の要諦(ようてい)を示す「天地書附(てんちかきつけ)」がお知らせとして下げられ、続いて取次の座が示されました。

 さらに、その半月後、次のようなお知らせが下がりました。
 「天地金乃神(てんちかねのかみ)と申すことは、天地の間におっておかげを知らず、神仏の宮寺社、氏子の屋敷家宅建て、みな金神(こんじん)の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受け。氏子の信心でおかげ受け。今般、天地乃神(てんちのかみ)より生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申し聞かせ、末々の繁盛いたすこと、氏子あっての神、神あっての氏子、上下立つようにいたし候(そうろう)」
 このお知らせは、神様が天地金乃神と名のること、神様が生神金光大神(金光さま)をこの世に差し向けた理由を明らかにし、世のすべての人々に天地金乃神様の願いを伝えようとされたものでした。

※戸長(こちょう):明治初期の町村の行政事務を行った役人。今の町村長にあたる。


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20 御覚書の執筆



 明治7(1874)年11月23日(旧暦10月15日)早朝、神様から「御覚書(おんおぼえがき)」の執筆を命じるお知らせが下がりました。金光さまは、すでに慶応3(1867)年ごろから、神のお知らせを中心に書きとめた「お知らせ事覚帳(おぼえちょう)」を記していました。それをもとにしつつ、「自らの生い立ちや信心はじめのころにさかのぼって、身のまわりでおきたことを記すように」という神様のご指示でした。
 「御覚書」は、金光さまが神様と感慨(かんがい)をともにしながら書き進めたものであり、記されている一つ一つが神様の思いにそって生きてきた金光さまの信心のあかしでした。


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21 官憲による干渉





 明治9(1876)年8月13日(旧暦6月24日)早朝、神から次のようなお知らせが下がりました。
 「金光大神、人が小便放(ひ)りかけてもこらえておれい。神が洗うてやる。人がなんと言うてもこらえておれい。天地の道がつぶれとる。道を開き、難渋(なんじゅう)な氏子助かることを教え」

 このお知らせの2か月後、鴨方(かもがた)の巡査2人が来て、金光さまに尋問を行いました。以後、金光さまはたびたび神勤のあり方に干渉を受けるようになりました。ちょうど、明治政府の警察組織が整いつつあったころです。
 これを心配した信者たちは、天照皇大神をまつり、国の方針にしたがった信心教育を施すとして、当面の神勤行為を認めてもらうための請願書を、金光さま名義で県庁に提出しました。この出願に対して一応の認可は下りたのですが、これは神様と金光さまにとって本意なものではありませんでした。




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22 利をはかる神ではない





 中断されていた宮建築が、明治10(1877)年になって再開されることになりました。村人からの働きかけによるもので、神様の願いを受けて進めてきた今までとは違った動きでした。
 翌年には「素戔嗚神社(すさのおじんじゃ)」と社号(しゃごう)が定められ、金光さまの4男萩雄(はぎお)が祠掌(ししょう)※に就任し、寄付を集める方法として木札や守り札が売られるようになりました。しかし、神様から「木札や守り札は出すな。貧しい人々が助からない」とのお知らせがあり、中止されました。

 明治12(1879)年11月8日(旧暦9月24日)早朝、神様は金光さまへのお知らせの中で、「天地金乃神は、人がおかげを受けて真心から供える物は受け取るが、利益を目的とする神ではない」と、あらためて明言され、守り札を求める人々に対しては、信心の目当てとして、「天地書附(てんちかきつけ)」が渡されるようになりました。
※祠掌(ししょう):神官の職名の一つ。




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23 人代と神代






 明治13(1880)年12月25日(旧暦11月24日)、金光さまは神様から、「昔は神代(かみよ)といったが、今は人代(にんよ)である」というお知らせを受けました。明治の世になって、鉄道や蒸気船、電話や電信など、さまざまな文明の利器が海外から持ち込まれるようになり、こうした目を見張るような時代の動きは、折々に金光さまの耳にも届いていました。

 しかし、神様の働きの賜物(たまもの)である天地の営みに対する敬いの心がうすれ、わが力に頼って生きることで難儀をしている「人代」の姿を神様は憂い、人々が神様と共に生きる「神代」に戻ることを金光さまに伝えたのです。





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24 教 紋




 金光さまの広前の紋章(もんしょう)は、はじめ「丸に金の字」が用いられていました。文久2(1862)年、笠岡(かさおか)で取次に仕える斎藤重右衛門(さいとうじゅうえもん)が、この紋を染めた幕(まく)を神前にお供えしたのが始まりとされています。
 明治14(1881)年1月30日(旧暦1月1日)「ご紋を変えよ。八正金神(はっしょうこんじん)、八つ割りとせよ」というお知らせが下がりました。この時から、金光教をあらわす紋章として、「八つ波(やつなみ)の紋」が使用されることになりました。

 「金光(こんこう)とは、金光(きんひか)るということである。金は金乃神(かねのかみ)の金、光は天(あま)つ光である。天つ光があれば明るい。世界中へ金乃神の光を光らせておかげを受けさせるということである」という「金光(こんこう)」の意味内容が、この紋章には込められているのです。





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25 世界救済の願い





 明治15(1882)年11月24日(旧暦10月14日)早朝、金光さまは神様から次のようなお知らせを受けました。
 「天地の間のおかげを知った者なし。おいおい三千世界、日天四(にってんし)の照らす下、万国まで残りなく金光大神(こんこうだいじん)でき、おかげ知らせいたしてやる」

 金光さまのまわりには、さまざまな難儀が絶えず渦巻いていました。人間の我情我欲(がじょうがよく)や天地に対する無礼など、それらはすべて人間側の問題であり、神様への敬いがないところで起こる問題でもありました。
 そのような人間におかげを受けてもらいたいと、老いゆく金光さまのまなざしは、大谷の地や日本という国を越え、天地の間に住むすべての人たちへと向けられていったのです。





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26 金光大神の死



 金光さまが自宅の神前に奉仕するようになってから、24年が過ぎました。その間、人々の苦しみを聞いては神様に祈り、神様の願いを参拝者に伝える中で、たくさんの人々が助かっていきました。
 明治16(1883)年9月21日(旧暦8月21日)早朝、金光さまは神様から次のようなお知らせを受けます。
 「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする、金光大神ひれいのため」
 このお知らせから19日後の明治16年10月10日(旧暦9月10日)、金光さまは妻とせと娘のくらに見守られて、眠るようにこの世を去りました。70歳でした。
 金光さまは、生涯かけて世の難儀を救い続け、死を迎えた後も肉体の制約を超えて、永世(えいせい)生きどおしの神とお立ちくださることになったのです。

略年表

※明治5年までは旧暦標記、年齢は、数え年で表記しました。 
元号(西暦) 月日
(新暦)
年齢 できごと 解説番号
文化11(1814) 8月16日
(9・29)
1 占見村の農家である香取家の2男として生まれ、源七と名づけられる。 1
文政8(1825) 11月26日(1826.1.4) 12 大谷村の川手家へ養子入りし、名を文治郎と改める。 2
文政9(1826) 13 この年から年間、庄屋の小野光右衛門から手習いを受ける。 3
天保2(1831)  
 
18 この年、たびたび道路、堤補修の村仕事に出る。
8月17日
(9・22)
義弟・鶴太郎出生。
天保3(1832) 19 この年、養父・粂治郎は川手多郎左衛門、文治郎は国太郎と改名。
天保7(1836)  
 
23 たびたび村仕事に出る(安政5年まで)。 4
7月13日
(8・24)
義弟・鶴太郎死去(6歳)。
8月6日
(9・16)
養父・粂治郎(多郎左衛門)死去(66歳)。家督を継ぎ、養父の遺言により川手から赤沢と改姓。
12月13日(1837.1.19) 古川八百蔵の長女・とせ(18歳)と結婚。
天保8(1837) 3月2日
(4・6)
24 風呂場、便所を建てる。
天保9(1838) 25 田畑あわせて1反余り購入。
※1反(たん)は、300坪(約992平方メートル)。
天保10(1839) 6月15日
(7・25)
26 長男・亀太郎出生。
天保13(1842) 8月16日
(9・20)
29 長男・亀太郎死去(4歳)。
10月10日
(11・12)
2男・槙右衛門出生。
弘化元(1844) 1月26日
(3・14)
31 門納屋完成。この年、国太郎を文治と改名。
弘化2(1845) 2月8日
32 3男・延治郎(後の浅吉、金吉)出生。
弘化3(1846) 2月22日
(3・19)
33 四国88か所巡拝に出発。3月26日に帰宅。 5
弘化4(1847) 9月17日
(10・25)
34 長女・ちせ出生。
嘉永元(1848) 6月13日
(7・13)
35 長女・ちせ死去(9か月)。
嘉永2(1849) 4月25日
(5・17)
36 4男・茂平(のちの石之丞、萩雄)出生。
嘉永3(1850) 1月4日
(2・15)
37 小野光右衛門から、住宅建て替えについて、改めて日柄方位の指示を受ける。 6
3月14日
(4・25)
仮小屋に2男・槙右衛門と移り住む。
5月13日
(6・22)
2男・槙右衛門死去(9歳)。
7月18日
(8・25)
飼い牛死ぬ。
8月3日
(9.8)
旧住宅解体に先立ち、金神に拝礼。
8月28日
(10・3)
新住宅の建築完成。神棚を設け金神に拝礼。
嘉永4(1851) 7月18日
(8・14)
38 2頭目の飼い牛死ぬ。
12月15日(1852.1.6) 2女・くら出生。
嘉永6(1853) 11月17日
(12・17)
40 田地6畝余りを購入。※6畝(せ)は、約180坪(約595平方メートル)。
安政元(1854) 12月25日(1855.2.11) 41 5男・宇之丞(後の虎吉、宅吉)出生。「42歳の2歳子は親を食う」との俗信を恐れ、翌年生まれにまつり替える。 7
安政2(1855) 1月1日
(2・17)
42 氏神社で、42歳の厄晴れ祈願。鞆の津祇園宮(1月4日)、吉備津神社と西大寺観音院(1月14~15日)にも参詣。
4月26日
(6・10)
のどけを患い、医師から「九死一生」と宣告される。 8
4月29日
(6・13)
義弟・古川治郎らが病気平癒祈願。金神への無礼を指摘され、お断りを申し、霊験を受ける。
安政4(1857) 10月13日
(11・29)
44 実弟・香取繁右衛門(のちの香取金光教教祖)をとおして、金神の宮の建築を頼まれ、承諾する。 9
安政5(1858) 1月1日
(2・14)
45 「金神下葉の氏子」に取り立てられる。
1月17日
(3・2)
3女・この出生。 10
3月15日
(4・28)
手にお知らせを感得する。
7月13日
(8・21)
口にお知らせを受ける。
9月23日
(10・29)
金乃神から「神の一乃弟子」にもらい受けるというお知らせがあり、はだしの行を命じられる。
11月29日(1859.1.2) 床柱に神棚を作り、神をまつる。
12月24日(1859.1.27) 「文治大明神」を許され、家の先祖についてのお知らせを受ける。
安政6(1859) 3月
 
46 戸主を3男とする願い出を庄屋から許される。 11
6月10日
(7・9)
「金子大明神」の神号を受ける。
10月21日
(11・15)
取次専念のお知らせ(立教神伝)を受ける。 12
12月22日(1860.1.14) 神から、床の間に仮の神棚2段をこしらえるよう命じられる。
万延元(1860) 1月1日
(1・23)
47 神から、「神門帳(願主歳書覚帳)」を調えるよう命じられる。
12月19日(1861.1.29) 田地1反余りを古川家(妻の実家)に売り渡す。※1反(たん)は、300坪(約992平方メートル)。
文久元(1861) 正月
 
48 神から、東長屋の建て替えを命じられる。7月22日(8・27)に棟上げを行う。 13
文久2(1862) 3月24日
(4・22)
49 蓮行院の修験者が庄屋を訪れ、布教禁止を申し入れる。翌日、神前の幟、神鏡、提灯などを持ち去り、以後、難題を持ちかけるようになる。 14
11月23日(1863.1.12) 「金光大明神」の神号を許される。
12月
 
母屋の土間を改造して、広前を拡張。
文久3(1863) 3月21日
 
50 「表口の戸を取り外し、戸がしまらないようにせよ」とお知らせ。
元治元(1864) 1月1日
(2・8)
51 取次の宮建築についての神伝が下がる。 15
4月9日
(5・14)
白川家入門。居宅祈念の許状を受ける。 16
6月10日
(7・13)
神から、湯・行水を差し止められる。
10月24日
(11・23)
「金光大権現」の神号を許され、妻も「一子明神」の神号を受ける。
慶応2(1866) 9月8日
(10・16)
54 養母・いわ死去(76歳)。
慶応3(1867) 2月22日
(3・27)
55 神主職補任状を受け、4月に金神社建築を領主に願い出る。
10月5日
(10・31)
「門の戸を開き、敷居をつぶせ」とお知らせ。
明治元(1868) 9月24日
(11・8)
56 「生神金光大神」と神号を改め、「天下太平、諸国成就祈念、総氏子身上安全」の幟を立てることや、「神号帳」「一乃弟子改帳」の作製を命じられる。 17
11月1日
(12・14)
妻や子どもたち全員に、神号を授けられる。
明治3(1870) 10月26日
(10・2)
58 「生神金光大神社、天地のしんと同根である」とお知らせ。 18
明治5(1872) 7月28日
(8・31)
60 「天地乃神の道を教える生神金光大神社を立てぬけ」「わが心におかげはある」とお知らせ。 19
11月26日
(12・26)
小田県達により神職を失い、無資格となる。
明治6(1873) 2月18日
 
61 戸長から神前撤去を命じられ、翌22日(2月19日)に広前を退く。2月23日(3月21日)、厨子をまつり、取次を再開。
4月11日
 
天地書附を書き始めるように命じられる。
4月20日
 
取次の座が定まる。
10月10日
 
出社信者たちを「金光大神の一乃弟子」とするよう命じられ、さらに、神の働きや生神金光大神差し向けについての神伝(「御神伝」)が下がる。
明治7(1875) 11月23日
 
62 『御覚書』の執筆を命じられる。 20
明治9(1876) 10月16日
 
64 布教行為に対する官憲の監視が始まる。 21
11月4日
 
天地金乃神、生神金光大神は、日本全国に道を開き、ゆくゆくは唐、天竺にまで道を開く神である」とお知らせ。 21
明治11(1878) 6月24日
 
65 4男・萩雄が氏神・賀茂神社の祠掌となる。 22
8月30日
 
(宮の社号が)素戔嗚神社として認可され、広前がその附属社となる。
12月10日
 
「木札や守り札は出すな。貧しい人々が助からない。天地書附だけ出せ」とお知らせ。
明治12(1879) 1,3,7月
 
66 激しい下痢にみまわれる。
7月28日
 
4男の萩雄、教導職試補に任じられる。
明治13(1880) 7月31日
 
67 「人間が、無礼をお断りするように、天地乃神が教えてやる。その取次をするのが、生神金光大神である」とお知らせ。 23
12月25日
 
「人代と神代」についてのお知らせ。
明治14(1881) 1月30日
 
68 「ご紋を変えよ。八正金神、八つ割りとせよ」とお知らせ。 24
10月1日
 
「金光大神の身に虫が入った」とお知らせ。
明治15(1882) 10月14日
(11・24)
68 「万国まで残りなく金光大神でき、おかげを知らせてやる」とお知らせ。この年、体調の悪い日が続く。 25
明治16(1883) 7月2日
 
70 最後の百日修行に入る。 26
9月21日
 
「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさせる。金光大神ひれいのため」というお知らせを受ける。
9月27日
 
広前を退き、神前奉仕を4男・萩雄に任せる。
10月10日
 
帰幽。
10月13日
 
葬儀。
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