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教祖の生涯

出生と少年期

 今から190年ほど前の1814年、教祖金光大神様は、現在の岡山県浅口市金光町占見(うらみ)の農家にお生まれになりました。9月29日夕刻のことで、幼名を香取源七(かんどりげんしち)といわれます。
 占見は、金光教本部から西北西に2キロほど行った所にある、静かな村落です。小さいころの教祖様は、父親に背負われて、よく近在の神社やお寺に参られたと伝えられています。
 12歳の時、占見村から一村隔てた大谷村(現在、本部がある所)の川手粂治郎(かわてくめじろう)様、いわ様夫妻のもとに養子に入られました。当時の農家では、長男以外は、奉公働きに出るか、他家に養子入りするか、あるいは一生をその家で使用人扱いされて送るかの道があるだけでした。
 養子入りを機に、名前も川手文治郎(かわてぶんじろう)と改められました。
 13歳から14歳にかけて、大谷村の庄屋だった小野光右衛門(おのみつえもん)さんの所に、手習いに通われました。光右衛門さんは地方にはまれな学識者で、その感化はその後の教祖様の大きな財産となったのでした。

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青年時代

 教祖様はあまりお丈夫ではなかったようで、後にご自身がその人生を振り返って記された自叙伝的な書『金光大神御覚書』(こんこうだいじんおんおぼえがき)には、しばしば腹痛で苦しまれ、薬を飲まれたり灸による治療をされたが、なかなかよくならなかった、という記述が見えます。それでも勤勉に働かれ、かわら屋の燃料の小枝を人より多く運ばれたり、道路や池の工事などの村の共同作業にも進んで参加され、村人の信頼を厚くされていかれたのでした。
 そうした中、養父母に子どもが誕生し、「鶴太郎」と名づけられました。教祖様が18歳の時のことです。
 しかし、その喜びもつかの間、鶴太郎様は腹痛が高じてけいれんを起こし、わずか6歳で亡くなったのです。
 その悲しみの深さからでしょうか、1ヵ月もたたないうちに義父が痢病に倒れ、わが子の後を追うように他界されました。
 義父の死によって、教祖様は23歳で家督を継がれることになり、姓を「赤沢」と変えられます。改姓は義父の遺言によるもので、村で由緒のある川手姓を、他村から来た者が名のり続けることへの配慮がうかがえます。この年、同じ村の古川とせ様を妻に迎えられました。

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農民時代

 教祖様のお働きぶりは、村人の注目を集めました。  教祖様が養子として来られた当時の大谷村は、戸数が100戸余り、人口約470人ばかりの小規模の村でした。家督を継いだ時、養父から譲られた田畑は約 790坪。それが20年後には2倍近くに増え、村で上から10番目ほどに位置するまでになりました。
 この間、ふろ場と便所の新築、門納屋の建築、母屋の改築と、自宅の普請に精力的に取り組まれました。また、勤勉で誠実な人柄から村内での信望も厚く、村の税金を藩の役所に納入する役目や庄屋のお伴など、村の公用にも重用されました。
 その一方で、家族に暗い影が差しはじめます。結婚後2年半を経てご長男が誕生しますが、わずか4歳で亡くなられます。その2ヶ月後にご次男が誕生し、この後、さらに3人の男子と3人の女子に恵まれますが、やがてご次男とご長女が病死し、加えて大切な飼い牛が2頭病死するという悲しみに見舞われたのです。
 教祖様の心中には、一連の自宅の建築が、どこかで神様へのご無礼になっていたのではないかという不安が広がっていました。

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神との出会い

 1855年、教祖様は当時厄年とされた42歳を迎えられました。年明け早々、教祖様は厄晴れ祈願に、近隣の氏神様や、吉備津(きびつ)神社など社寺に参って、厄除けの祈願をされたのでした。  ところが、4月下旬になって、体に不快を感じて病床に伏すこととなり、やがて湯水ものどを通らなくなってしまいました。病気は「のどけ」(扁桃腺周囲膿瘍)で、医師が「九死に一生が難かしかろう」と告げるほどの重体でした。
 親類が寄り集まり、神仏に病気平癒の祈願を凝らす中、義弟の古川治郎さんが神がかり、「建築・移転につき、神に無礼いたしておる」と告げました。これに対して、教祖様は重体の身を押して、「どの方角へご無礼つかまつりましたか、凡夫で相分かりません」と、知らず知らずの無礼をわびられたのです。
 日柄方角に細心の注意を払って建築に取り組んでこられただけに、当時の常識では「無礼はない」と抗弁すべき場面でしたが、教祖様は自らの非を心からわびられたのでした。神様の促しで、はいながら神棚の前に進み出た教祖様に神様は、「心徳をもって神が助けてやる」と告げられました。
 これを境に、「神と人とあいよかけよで立ち行く世界」が開かれていくことになったのでした。

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取次に専念

 42 歳の大患をとおして、何事も神様の仰せに従って生活が進められるようになりました。そうした中で、1859(安政6)年10月21日、神様から「難儀をしている人たちを取次ぎ助けてほしい」というお頼みがありました。教祖様はそれをお受けになり、自宅を広前として取次(とりつぎ)に専念されることになりました。神様からのこのお頼みを「立教神伝」(りっきょうしんでん)と呼び、金光教の始まりとしています。
 教祖様のもとには、難儀に苦しむ人々が次々と訪れるようになりますが、農民であった者が神職まがいの行為を始めたことで、妨害や迫害を受けるようになりました。教祖様はそうした試練を受けながら、神様への一心をいっそう確かなものとされたのでした。
 やがて、江戸から明治へと時代が変わり、世の中の仕組みも大きく変化していきました。1868(明治元)年には、生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)のご神号が神様から下がりました。また、「天下太平、諸国成就祈願、総氏子身上安全」の幟(のぼり)を家の前に立てて、このことを日々祈念されました。 その一方で、布教資格を持たなかった教祖様に国家の監視の目が及ぶようになり、1873(明治6)年、戸長(村長)の命でついにご神前を取りかたづけなければならなくなってしまいました。

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広がる道

 教祖様は、控えの間で一人静かに神様と向き合われました。神様は、「力落とさず、休息いたせ」と、教祖様をねぎらわれます。この時、教祖様は60歳になっておられました。
 神前撤去から20数日が過ぎたころ、「金光大神生まれかわり」と、神様からお知らせを頂かれ、続いて、信仰の要点を端的に表現した「天地書附」(てんちかきつけ)が、お知らせによって生まれました。さらには、天地金乃神様の神性と、人間の末々かけての繁盛と神と人とが共に立ち行く世界を出現させるために、教祖様は神様から差し向けられたことが、明らかにされたのでした。
 約1ヵ月後、布教活動の再開を内々に許されましたが、警察の干渉はその後も続きました。しかし、神様から差し向けられた者としての使命を確信された教祖様は、「金光が世界を助けに出た」「この方は、世界をこの道で包みまわすようなおかげが頂きたい」という大願を表明され、その願いを実現していこうとする弟子たちが育っていきました。
 教祖様は、1883年10月10日未明、70歳でご帰幽になられました。教祖様がご帰幽間近まで記しておられた『お知らせ事覚帳』(おしらせごとおぼえちょう)の最後は、次の言葉で締めくくられています。
 「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする、金光大神ひれいのため」

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略年表

教祖様にかかわる事項 日本と世界の出来事
1814 教祖様ご誕生 ウィーン会議開催(1814)
1825 川手粂治郎様の養子となられる アメリカがモンロー宣言発表(1823)
1836 養父の死去。家督を相続し、赤沢姓に改姓される
教祖様(23歳)、古川とせ様(18歳)とご結婚
フランス7月革命(1830)
大塩平八郎の乱(1837)
1839 長男・亀太郎様出生  
1842 ご長男夭逝。二男・槙右衛門様出生 アヘン戦争ぼっ発(1840)
1845 三男・延治郎様出生 天保の改革(1841)
1847 長女・ちせ様出生。翌年、ちせ様夭逝  
1849 四男・茂平様出生  
1850 ご二男急逝。飼い牛斃死  
1851 次女・くら様出生。飼い牛斃死 ペリー浦賀に来航(1853)
1854 五男・宇之丞様出生  
1855 教祖様42歳のご大患  
1858 三女・この様出生 安政の大獄(1858~59)
1859 神様からの取次専念のお頼みを受けられる(立教神伝)  
1864 取次広前の建設につき、神様のお頼みを受けられる(元治元年のご神伝) アメリカ南北戦争(1861~)
1868 金光大神のご神号を受けられる 明治維新(1868)
1873 戸長から神前の撤去を命じられる
神命により『天地書附』を信者にお授けになる
天地金乃神の神性、生神金光大神差し向けのお知らせ(明治6年のご神伝)
ドイツ帝国成立(1871)
廃藩置県(1871)

西南戦争(1877)
国会開設の勅諭(1881)
1883 教祖様ご帰幽(10月10日/70歳) 鹿鳴館開館(1883)
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