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今春、教会で天地金乃神大祭を仕えさせていただき、信者さんたちと後片付けをしていると、1人の青年がお結界に来て、突然、「もう姉と縁を切ります」と申しました。聞くと、せっかく教会にお参りして、久しぶりに姉弟で会ったのに、たわいもないことで喧嘩をしたのです。
黙って聞いていると、さらに話が飛んで、「親子の縁を切ります」とまで言い出しました。これはもう何を言ってもだめだと思い、「今日はお帰りなさい」と申しました。
信者さんたちもみんな帰られた後、またその青年が参ってきました。手には花を持っていました。「今日は母の日なので、奥様に花を買ってきました」と申しました。「ありがとう」と頂戴し、彼の気持ちも落ち着いた様子なので、「あのなあ、せっかくご大祭にお参りして、ありがたい心で帰ればおかげになるのに、せっかく頂いたおかげをまき散らして帰るようなものだ。腹が立った時に言った言葉は、人を傷つけるし、言われたほうは忘れない。これからは腹が立ったら、自分の気持ちが落ち着くまで、口を開かないようにしなさい」と申しました。彼も申し訳なさそうに、「はい」と答えました。
その年の暮れ、教会の感謝祭をお仕えした後、その青年が「先生、正月にカンパチをお供えさせていただきます」と申しました。普段はそのようなことを言いませんので、「どうした」と尋ねました。
すると、「神様に、『国家試験に合格したら、マグロをお供えします』とお願いしたんです」と言います。「そうか。マグロだったら、まあ1本100万円か」と言いますと、「いや、50万円ぐらいであるそうです。安いのになったら30万円です」と言います。そう言いながら、本当は「そこを何とかカンパチでお願いします」ということでした。
それを聞いて、教典の尋求教語録にある「この大願成就のおかげをくだされば、金の鳥居を差し上げます、絹のお幟をお供え申します、と言うたりする者があるが、さあ、おかげを受けると、金の鳥居が小さななまこ(トタン)の鳥居になったり、絹のお幟が紙になったりするのが、だんだんある。神様はそんな物をもらおうとは思わっしゃらぬが、もったいないことじゃ」というみ教えを思い出しました。
私どもは日々、神様にさまざまなことをお願いし、広大なおかげを頂いていますが、自分の願いは聞いてもらいたいけれど、神様の願いには思いが及ばない。それを「運動」に照らして言えば、常に神様を離さないようにお取次を願い、頂き、おすがりしていく。天地の親神様のご恩徳のなかに生かされ、親神様がお差し向けになった生神金光大神取次のお働きをもって、さまざまなおかげを頂いているお互いなのです。
そのお互いが、神様のおかげに目覚め、お礼と喜びの生活を深めていくなかで、困っている人の話を聞いたり、体を使ってご用したり、神様のご恩に報いようとする生き方はできます。そのように神様がお喜びくださる生き方になるところに、「神人の道」は生まれてくるのです。