神人あいよかけよの生活運動

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教報天地 3月号 神人あいよかけよの生活運動

 不足とお礼には大きな違いが

 信行期間に当たって、本部では「教祖様ご生誕200年─お礼と喜びの生活を─」というテーマで、「朝の教話」が行われました。そのなかから、山本正三師(広島・横川)が話された内容を紹介いたします。

戦争で被災した教会
 昨年4月27日、教会長であった父が、91歳4か月という長寿のおかげを頂き、お国替えしました。最近、父のことを振り返らせていただくなかで、あらためて歴代金光様のご信心を教えていただいています。
 私の在籍する横川教会は、昭和20年8月6日、原子爆弾によって教会建物が焼失しました。初代である祖父と叔母は、迫りくる炎のなかで奇跡的に助かったのですが、爆風と炎により建物は跡形もなくなりました。そこで、郷里の岡山県上稲木に疎開することになりました。
 祖父は、教会の再興を願いながらも、持病であった心臓病と原爆症により、翌21年12月8日にお国替えしました。父は、その年の1月に戦地から復員し、祖父母と一緒に生活していましたが、一日も早い教会復興を願いながらも、信徒の多くが離散したなかで、何もできないまま日々を過ごしていました。
 昭和22年、境内地の一部を売却して、とりあえず教会建物を購入することができました。市内は焼け野原になっていたので、遠方から古い家屋を移築し、そこに祖母が一人いてご用を再開しましたが、あすも分からないような状況で、父は疎開先に残ることになりました。
 やがて父は結婚し、見よう見まねで農業をすることになりました。隣りに住む分家に農作業のやり方を教えてもらい、同じように米や野菜を作るのですが、やはり素人では出荷できるような物は出来ません。それでも父は一生懸命、朝か晩まで働きました。晩年、「農作業は際限がなく、慣れない自分は閉口した」と語っていました。若い父としては、将来への不安もあり、長女である私の姉が生まれ、これでは到底やっていけないという思いがあったようです。

三代金光様の変わらぬお姿
 すでにお道の教師であった父は、同じ苦労をするのなら、教会に戻って祖母と一緒にご用させていただこうと決心しました。そして、昭和25年3月7日、1歳になる長女を連れて、夫婦で教会に戻らせていただきました。
 しかし、教会の状況は厳しいものでした。当初は、燃えるような思いで一生懸命にご用させていただきましたが、教勢は容易には上がりません。次女も生まれ、さらに生活は苦しくなっていきました。子どもが病気になっても、病院に行かせるどころか、薬も買えない状態です。親としてどうしてやりようもない、悶々(もんもん)とした日々が続きました。そのたびに何とかお繰り合わせは頂くのですが、「一生懸命にご用をしているのに、どうしておかげが頂けないのだろうか」という思いにとらわれました。
 そして、とうとう「自分のような者では、とても神様にお使いいただけない。そうであれば、早く教師を辞して、外で働けば家内や子どもたちも養えるし、教会にとってもよいのではないか」と意を決し、金光様におわび申し上げようと、お金をかき集めて本部参拝をさせていただいたのです。
 早朝のお広前には誰もお参りがなく、お結界に三代金光様がお座りになっておられました。父は長い時間、おわびとこれからのことを心中祈念しました。そして、あらためてお結界を見ると、三代金光様が変わらぬお姿でお座りになっておられました。そのお姿を拝して、父はハッとしました。
 「誰もお参りがないなかにも、三代金光様はただ黙々とお結界奉仕をなされている。それなのに自分は、教会にお参りがないからと不足に思い、もうだめだとあきらめている。自分は金光様に何を申し上げようとしているのか。私も金光様のように、神様に向かって黙々とご用させていただこう」。そのような思いになり、金光様にはお礼だけを申し上げて、お広前を後にしました。

「愚痴を言いに来とった」
 父は、金光様のお姿に触れ、もう一度立ち上がる勇気と元気を頂きました。金光様に神習い、力みも焦りもなくご用させていただくようになりました。
 しかし、そうした思いでご用させていただくなかにも、時には思いどおりにならないことが起こってきます。
 昭和44年頃のこと、教会周辺で戦後の区画整理が始まりました。そのなかで、教会の土地を三十坪ほど市に提供するようにと話がありました。公園を設けたり、道路拡充のためとのことで、やむなく父は申し出に応じました。
 その話し合いを進めていくうちに、役所から、「土地の価格が取得した時よりも高騰しており、その差額分を納税するように」という通知が来ました。父には、何とも理不尽に思えました。「通達に不足のある者は書面で提出するように」とあったので、父は自分の思いを書いて送りました。ところが、「審査の結果、要望には応じられない」という一枚の通知だけが返ってきました。地域にも同様の不満を持つ方がたくさんおられ、みんなで訴訟を起こしてはどうかという話も出ていました。
 父は、金光様に聞いていただこうと思い、ご本部に参拝させていただきました。四代金光様がお結界にお座りになっておられ、父は一生懸命に自分の思いを申し上げました。ところが、金光様は父の話を聞いておられないような、まるで居眠りでもされているかのようなご様子で、お結界の前で時間ばかりが経過していきました。
 父は、金光様のお言葉を頂いて元気を出したい、それまでは帰れないという思いで、その場で心中祈念をさせていただきました。その時、ふと、「自分は金光様に愚痴を言いに来とったんだなあ。これは間違っていた」という思いが浮かんできたのです。そこで、あらためて金光様に、「どうぞ、支払いのおかげが頂けますように」と申し上げました。
 すると、先ほどまで聞いておられないようなご態度であった金光様が、身を乗り出すようにして、「はいはい、それでけっこうでございます」とおっしゃったのです。父は驚きながらも、そのお言葉を頂いて、「元気で支払いができるおかげを頂けばいい」という思いになりました。その後、とくに困ることもなく支払いのおかげを頂きました。

元気であることがおかげ
 後年、父はその時のことを振り返っては、「元気な体であることにお礼を申し、喜んで取り組ませてもらえばよいのに、つい目先のことに迷い、金光様に愚痴ばかり申し上げてしまった。どこまでも、おかげを頂いて今あることのお礼を土台に取り組ませていただけばよいと、教えていただいた」と話していました。
 それからの父は、どのようなことが起きてきても、「不足を言うのではなく、その事柄のなかにある神様のおかげを見いだして、お礼を申していくことが大切だ」と語り、その生き方を貫いていったように思います。時に私が、思いがけない出費に愚痴っぽい話をすると、「元気な体で、支払うことができれば、それがおかげじゃないか。お礼を土台にしてのあり方なのか、不足を土台にしてのあり方なのか。そこに大きな違いがある」と話してくれました。
 今、私は、その父の後を受けてご用させていただいていますが、お礼を土台にした生き方が容易でないことを実感しています。父が終生そのことを求め、起きてきた問題にとらわれず、その根底にあるおかげの事実を見つけてお礼を申し、喜ぶことを忘れない信心の稽古をさせていただいたように、私も同じ思いで取り組んでまいりたいと思っています。

(2014/3)

   






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