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<平成31(2019)年の活動報告>

輔教集会報告(北海道教区)

 2月23日、札幌教会を会場に輔教集会を開催し、8人が参加した。
 はじめに、田中敬一教務センター所長から、立教160年のお年柄の意義と取り組みについての説明があり、本年、北海道教区が取り組む「KONKO あれこれ塾」の一環として「金光教の終活」と題した研修を行った。
 近年、自らの死後に備え、葬儀やお墓の準備、生前整理などといった「終活」が注目されている中、講師の西村正人師(北海道・札幌)から、現代の葬儀事情と終活についての講義の後、エンディング・ノート(教区オリジナル)の記入体験を行った。
 参加者からは「『死ぬ用意をするな。生きる用意をせよ』という教祖様のご理解があるように、信心をする者にとっての終活とは、死を迎えるための準備ではなく、自分の人生を振り返り、残りの人生をよりよく生きていくことだ」「エンディング・ノートを活用し、自分の人生の中のさまざまな出来事、家族やいろんな人との関わりを振り返ることができた」などの感想があった。

輔教集会報告(中近畿教区)

 2月2日、玉水記念館(大阪市)を会場に、「教会活動および教団布教の担い手である輔教としての自覚を高める」との願いのもと、輔教集会を開催し、53人が参加した。
 はじめに、「参加者一人ひとりが、輔教として神様からかけられた願いに気付く」との願いで、入江優子氏(大阪・道広)から、「御礼の信心を土台に~つきっきりの親神様を頂いて~」と題して講話があった。
 講師は、教会長から頂いた「この神様は用意周到の神様。つきっきりの神様である」とのお言葉をはじめ、お取次を素直に頂きながら実践し、神様に向き合う中で多くのおかげを頂いてきたこと。また、キャリアカウンセラーとして、「目の前で泣いている相手がドアを出る時には、明日への一歩を踏み出せるような話をせよ」「目の前の人を治そうとするな。分かろうとせよ」という精神をもとに、相談者に寄り添いながら取り組んでいることを語った。最後に、「班別懇談では、皆さんが輔教として神様にかけられた願いに気付き、どんなお役に立たせていただきたいか、宣言をしてほしい」と締めくくった。
 その後、「輔教として、神様からかけられた願いとは」をテーマに班別懇談を行い、輔教として具体的にどのようなことができるのか、教会内外での取り組みについて話し合った。
 最後の全体会では、班別懇談で話し合った各自の取り組みを、神様と参加者の前で一人ひとりが宣言し、輔教としての自覚を高め合った。
 参加者からは、「講師から『今までに頂いた一生忘れられないおかげ』について問われ、あらためて自分が頂いてきたおかげに気付くことができた」「輔教としてどんなことをすればよいのか分からなかったが、今回参加したことで活動の具体が見えた」などの感想があった。

輔教集会報告(西中国教区)

 2月24日、広島市安芸区民文化センターにおいて、「『神人の道』を現そう」とのテーマのもと、輔教集会を開催し、31人が参加した。
 はじめに、早羽信幸教務センター所長が、「立教160年の節年、お道の原点にかえって、神様の願いと教祖様のご信心を頂き直し、『神人の道』をいきいきと現す信心生活と、輔教としてのこれからの取り組みについて求め合いたい」とあいさつした。
 続いて、浅井由実氏(広島・松永)、井町道子氏(山口・田布施)が、今日までの歩みを振り返りつつ、お礼と喜びの信心生活について発表した。
 浅井氏は、教区行事や学生会の活動に参加したり、教会参拝を実践することで、人や教会とのつながりができ、神様にお礼を申していく生活が、ひいては自分のためになっていくこととなり、生活が豊かになってきた喜びを語った。
 また、井町氏は、祖母の代からご神縁を頂き、教会長先生の代替わりを機に、本当の信心と助かりを求めて教会の御用を進めていること、神様に合わせて動くとさまざまなお繰り合わせを頂き、家庭でも信心の話ができるようになった喜びの生活について語った。
 発表後、山本正三師(広島・横川)が「『神人の道』を歩む始動者に─輔教の役割を求め考える─」として、「神人あいよかけよの生活運動」で願われる内容や、「伝えるから、伝わる信心生活」「誰でもできること、でも誰もができていないこと」について、実例を交えながら話した。
 班別懇談では、日々の信心生活や神様に喜ばれる生き方について、また、信心が伝わるために工夫していることや取り組んでみたいことを話し合った。
 参加者からは、「日常の中で気が付かなかったことに気付かせてもらった」「伝える自分から伝わる信心にならせていただきたい」「漠然としてつかみ切れていなかった輔教の御用だが、今ある御用を率先して取り組ませていただきたい」などの感想があった。

輔教集会報告(東近畿教区)

 3月9日、ホテルビナリオ嵯峨嵐山(京都市)を会場に、「教区輔教集会2019」を開催し、53 人が参加した。
 本年は、「人を祈り、助け、導き」というテーマで、藤坂金生師(大阪・鶴町教会長)による「あこがれ輔教プロジェクト&祈り方のコツ」と題した講話と、班別懇談による半日型の集会を行った。
 講話では、講師がこういう人になりたいと思った、憧れの先輩たちとの出会いをとおして、自身の信心を深めてきた話が紹介されたほか、初めてのお取次の御用での出来事や、自分が未熟児で誕生したこと、その後、妊娠中の母が大病を患い、おなかの子が亡くなったことなど、難儀の中で神様の大きなお働きを実感した体験を語った。また、祈り方のコツとして、おかげを頂いた姿を思い描きながらご祈念する取り組みなどが紹介された。
 班別懇談では、2人1組になって、聞き手、話し手と役割を決め、時間が来ればその役割を交代して対話を進めるペア懇談を行った。15分間でペアを交代しながら、計3セットの懇談を行い、互いに本教の信心や教会の好きなところ、素晴らしいところを話し合い、懇談後には10分間、話を振り返る時間を設けた。
 最後は全体懇談として、参加者からの質問用紙をもとに、講師からさらに講話内容を深める回答がなされ、その後、閉会行事を行った。
 参加者からは、「感動的な話題が盛りだくさんだった」「信心が楽しくなるようなお話だった」などの感想があった。


輔教集会報告(四国教区)

 6月16日、四国教務センターで「輔教の自覚と働き」をテーマに開催し、24人が参加した。
 はじめに、輔教から教師となった筒井善子師(徳島・徳島西)から、「神様が歩ませて下さる道― 御霊様の祈りの中で―」と題して講話があった。
 電子ピアノの演奏や、美しい歌声を披露しながらの講話の中で、講師は「金光教学院に在学中、学院長講義の中で、『依頼されたことは神様の御用として受けさせていただこう』という言葉に感銘を受け、このたびの御用も受けさせていただいた。すると、講話内容を整理する中で、いろいろな気付きを頂いたり、思いもよらない資料が見つかったりと、驚きとともに、神様、御霊様に支えられ、祈りの中にいると感じた」と話した。
 また、「いつも母から、『あなたの幸せは御霊様方が祈ってくださっているから。だからこれからは、皆様のことをしっかり祈らせていただけるようにならないといけない』と言われていた。その言葉どおり、これからは皆様の助かりをしっかり祈らせていただき、ご神願成就のお役に立たせていただきたい」と語った。
 その後、班別懇談と全体懇談を行い、参加者同士で講義の内容を深め合った。
 参加者からは、「自身の体験を分かりやすくお話しくださり、難儀の受け止め方を正すことができた」「ありがとうという言葉の意味の深さを理解でき、これからの自分の生き方に大きな示唆を頂いた」「各教会の輔教の取り組みがよく分かった」などの声が聞かれた。

輔教集会報告(関東教区)

 6月22日、東京センターで「輔教としての働き―道を伝える立場として―」をテーマに開催し、35 人が参加した。
 まず、現役輔教の古賀さやか氏(神奈川・鎌倉)がテーマに基づいて発表した。
 「叔母の葬儀の際、親族で信心の話をしていた時に、いとこの後押しを受けて輔教を志した。教会の掃除をさせていただきながら、『御用ができるのも健康や時間を頂いてのこと』と思え、その喜びを感じた。また、一昨年、再就職の活動をしていた時に、先生をはじめ信徒の方々が就職成就を祈ってくださり、心強く感じた。一緒に御用をする中で、信心を語り合える『信友』ができたことをうれしく思う。仕事の上では、教祖様のような実意丁寧な対応を心掛けているものの、日常生活においては、お手引きや信心継承の難しさを感じている。両親が一生懸命信心の種を蒔いてくれたおかげで、私も定年を経て、やっと芽が出た。だからこそ、まずは身近な人に信心を伝えられるように努力していきたい」と話した。
 その後、6班に分かれて「道を伝える立場として」について班別懇談を行い、最後に大木光雄東京センター所長が、「立教160年のお年柄は、教祖様が神様から『世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ』というお頼みを受けられての160年である。現代社会には生きづらさや難儀、誰にも相談できない寂しさや苦しみを抱えている方々がいる。班別懇談で皆さんの真摯な姿勢やお道の信心の在り方を聞き、あらためて心強く感じた。現代は人と人との関係が薄れているからこそ、『相談に乗る』という姿勢が非常に大切であり、そのことをとおして、人と人、人と神とを結んでいける。皆さんの道伝えの努力を、神様、霊様が喜んで見ていてくださると信じて、今後とも輔教としての御用をお進めいただきたい」とあいさつした。
 参加者からは、「信心継承を難しく考え過ぎているのかも」「昔話ではなく現代に合った表現の再構築が必要だと思う」「補聴器利用の方のために、教話などを文章化する御用をしている」「教会の垣根を越えて輔教同士で話し合える場や、若い輔教が集まる機会があればよいのでは」といった感想や提言があった。


輔教へのメッセージ

「いのちの設定─役柄に奉仕する─」岩﨑 弥生(静岡・静岡)

 誰でも生まれながらにして、決まっていること、背負っているものがあるように思います。それをいのちの初期設定とするならば、私の初期設定は、静岡の紙屋の長女、そして祖父の代から信心している家庭に生まれるということでした。今にして思えば、神様から「信心しておかげを受けてくれよ」と願われ、生まれてきたのだと思えます。けれども、20代までの私は、そんな神様の願いを知らずに、私の人生なんだから私の思いどおり、私が決めたように自由に生きて当然と思っていました。
 しかし、その生き方では、いのちの初期設定に込められた「信心しておかげを受けてくれよ」との神様の願いから外れてしまい、当然難儀なことに出遭っていきます。受験の失敗だったり、いろいろな難儀をとおして、神様から「信心して…」のメッセージが度々ありました。25歳を過ぎた頃、仕事の上、また自分の将来を見据えての大きな問題に突き当たりました。前にも進めない、後ろにも戻れない。どうしてよいか分からない状態に陥りました。もうお手上げです。
 やっと私は「神様、助けて」と、素直に神様の前に額ずき、お結界から言われる先生の言葉を神様の言葉だと思って、おっしゃるとおりにしようと思いました。ようやく自分の物差しを放し、神様の物差しを持つようになれたのでした。つまり「神様、私の思いどおりにしてください」ではなく、「神様、私はどうしたらいいですか」と、神様にお伺いすることができたのです。お結界で教えていただいたことを、暮らしの中で神様に問いながら、「ああか、こうか」と取り組むうちに、道が開けていきました。そして、私が想像していた以上の思いがけないおかげを頂きました。
 私のいのちの設定は、そこから大きく変わっていきました。金光教の教師にならせていただき、教会に嫁ぐことになりました。私にとってそれは、想像もしなかったことでしたが、神様がお養いくださるということは、もったいなくうれしいことでもありました。
 それから年月を経て、私の「設定」が次々変化していきました。二人の子をもつ親にならせていただき、放送センターの御用、そして輔教講師の御用をさせていただくようになりました。自分の中身からすれば、そのような御用をとても勤められるとは思いません。教会長にお取次頂きますと、「四代金光様の『役柄に仕え奉仕する』というお言葉どおり、神様の願いを受け、役柄に仕えていけばいい。そうすることで、その御用をとおして自分が変わらせていただき、いつの間にか役柄にふさわしい人になっていくことが、御用をくださった神様の思いに応えることになるのでは」と言われました。お役を頂き、人にお話ししていくということは、これまでの自分の信心を振り返ることになりますし、あらためて「金光教」を勉強し直すことでもありました。
 昨年の8月、2回目の輔教志願者講習会の講師の御用を終えました。自分なりに準備をし、やり遂げたという思いがしていました。昨年4月、教会の母が亡くなったのですが、その3年前から介護、御用、家事と、ずっと駆け足というか、全力疾走で毎日を送っている状態でしたので、その講師の御用が終わった時、一段落したような気持ちになっていました。それでも御用は次々ありますので、毎日忙しくお使いいただいていました。
 すると半月ほどして、背中が痛くなり、どうにも治らず、手にしびれまで出てきたので病院で診察を受けると、頸椎の変形で神経にさわり、痛みが出ているとのことでした。そしてある朝、突然起き上がれなくなってしまいました。目は開いているのに身動きできない。頭を上げると激痛で起き上がれない。初めての経験でした。ただただ痛くて、どんな体勢をとっても痛く、涙がぽろぽろこぼれてきました。何もできず、すべての家事や私のしている御用を教会長にお願いすることになりました。やっとの思いでお広前に行き、自分の体が思いどおりにならない痛みと悔しさで泣きました。
 これほど一生懸命やっているのにどうしてこのようなことになるのか。つらくてつらくて泣いてご神前で額ずいていました。「私が至らないから、こんなことになるのか。いやいや、こうやってすぐに原因と結果を結びつけようとするのは私の悪い癖。これまで起きてきた困ったことは、神様からの信心の改まりの催促と思えることだった。だからこのことも、きっと神様からのメッセージに違いない」。頭であれこれ考えるのをやめて、「神様、どうぞ私に神様の思いを分からせてください」と願いました。
 そんな私に差し向けられたのは、痛い私をいろいろな形で支えてくださる教会長や家族、信者さんでした。その温かさに触れた時、「私は、これまで信者さんの痛みを本当に理解できていたのか。涙がぽろぽろ出てしまうほどの痛みを心から分かっていたのか。痛くて何もできないという信者さんに、『あれしかできない。これしかできない。と思うのではなく、あれもできた、これもできたでしょう』と分かったふうにみ教えを突き付けてきただけではなかったか」。そんな自分の姿を思い出しました。
 私はただ申し訳なく、神様にお詫びしました。そういう心になることで「昨日はできなかったけど、今日はこれもできる、あれもできる」と、「しか」ではなく「も」と心から思えるようになっていきました。そしてこの「痛み」を、神様の温かいメッセージなんだと受け止めることができました。 輔教の皆さんも、それぞれに輔教になるまでの導きがあり、喜びや悲しみ、痛かったことや、苦しかったことなど、さまざまにあったことでしょう。ただ共通しているのは、輔教の皆さんは金光様からご任命を頂いているということです。これまでのそれぞれのいのちの設定から、輔教というお役の設定を頂いたということは、そのお役に仕え奉仕することであり、そして、その御用をとおして自分が変わらせていただき、いつの間にか役柄にふさわしい人になっていくということだと思うのです。
 もしかしたら、「どうしてこんなことが」と思うことが起きてくるかもしれません。でもそれも、すべて神様からのメッセージ。「難はみかげ」です。元気な心で共に御用にお使いいただきたいですね。

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