教会信奉者の方へ

HOME › 教会信奉者の方へ › 輔教くらぶ





<令和2(2020)年の活動報告>


令和3年度輔教任命式

布教功労者報徳祭では、新任・再任合わせて398人が輔教に任命され、ご祭事の中で、代表の定金典明氏(本部在籍)が教主金光様から辞令を受け、所願を表明した。

所願表明

 ただ今、教主金光様より、私たち298名の者が、輔教任命の辞令 を頂きました。教団独立120年の節年に輔教としてお取り立ていただきましたことは、大変ありがたく、厚く御礼申し上げます。
 このお道の信心は神様と仲よくすることであるとの教祖様のみ教えにより、教主金光様がお示しくださった「神様との縦軸」を求めるために、和賀心をもって、「神人の道」をしっかりと歩み、これからも感動のある信心生活を進めてまいります。
 「神人あいよかけよの生活運動」の「願い」を実践し、輔教として、人を祈り、願い、助け導くことで、少しでも神様へのお礼ができますよう、誠心誠意精進してまいりたいと思います。
 教主金光様のお取次のもと、ご神願成就のお役に立たせていただくとともに、ここからの一層のお守り、お導きをお願い申し上げ、所願表明といたします。


輔教志願者講習会 -神様と仲よくなる信心を

本年度の輔教志願者講習会を8月22、23日、やつなみホールで開催した。
 輔教制度は平成4年に発足し、477教会、1千416人(8月末日現在)が輔教として御用に当たっている。今年は、23教会40人が受講し、各講義、先輩輔教の実践発表をとおして輔教に求められる事柄を学んだ。班別懇談では参加者同士、これまでの取り組みやここからの願いについて語り合った。
 また、今年は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、希望者には、特例として当日の講話を収録したDVDの視聴で受講に代えた。なお、修了者は所定の手続きを経て、来る12月の布教功労者報徳祭時に教主金光様からご任命を受ける。

教主金光様おことば(開会お届け時)
皆様、それぞれに願いを立てて、輔教志願者講習会によくお集まりになりました。
お互いにここまで信心を進めさせていただき、ご用にお使いいただいておりますことをありがたく思いますとともに、そのお礼の心を土台に、ここからいっそうに、「人が人を助けるのが人間である」との教祖様のおぼしめしを頂いて、わが道の信心を現し、伝えて、世界の平和と人類の助かりのお役に立たせていただきたいと存じます。
どうぞよろしくお願いいたします。

教務総長挨拶

輔教は、教祖様の時代の自由な布教精神を頂き直すことを願って発足された。その自由な布教精神を生み出す土台となった教祖様のご信心とはどんなものであっただろうか。この問いは、「私にとってのご信心とは」という問い掛けでもある。お参りをすること、御用をすること、神様をお祀すること、お取次を頂くことなど、何をもって信心すると言えるのだろうか。
 また、教祖様も「ご信心とは」ということで、「わが心が神に向かうこと」「信心は親に孝行するも同じこと」など、いろいろなみ教えを残しておられる。そうした中で、私は、「氏子が神様と仲よくするのが信心である」とのみ教えを大切にしている。
 教祖様は「此方がおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ」ともおっしゃっている。私は、この「おかげの受けはじめ」ということを、「神様と仲よくなる」ということだと捉えている。なぜなら教祖様というお方は、一番はじめに天地金乃神様と仲よくなったお方であり、誰よりも天地金乃神様と仲よくなったお方だからだ。
 そして、教祖様は「ああ、天地金乃神様こそが、私たちと仲よくなりたかったんだ」と気付かれる。そのみ思いを受け、「みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ」とのお言葉どおり、誰もが神様と仲よくなれるように、ご命によってお取次を始められた。つまり、お取次とは、私たち一人ひとりが神様と仲よくなれるようにするお働きであり、私たちと仲よくなろうとされている天地金乃神様と出会えるようにするお働きなのである。
 そのお取次で「こうしたら神様と仲よくなれる」とか、「こんなことをしたら神様に叱られる、嫌われる」と教祖様がお話くださり、いろいろな形で私たちに届けられたものが「み教え」である。さらに教祖様は、どうやって神様と仲よくなったのか、その神様とのやり取りや出来事も「金光大神御覚書」や「お知らせ事覚帳」というご手記やお帳面で書き残されている。教祖様が神様とグッと仲よくなっていくきっかけは、弟・繁右衛門さんをとおしての「神の頼みはじめ」であった。
 繁右衛門さんをとおして現れた神様からのお頼みを、教祖様が仰せどおりに受けられたことで、教祖様には神様からのみ祈りとみ働きをしっかりと受け止める構えができた。その構えに向けて、神様は次々とお働き掛けくださるようになった。いわゆる「お試し」である。そのお試しを「仰せどおり」に受ける教祖様の様子をご覧になりながら、神様が教祖様にお頼みになられたのが「立教神伝」である。
 この「立教神伝」というお頼みを、教祖様は「仰せどおりに家業やめて、お広前相勤め仕り」と受けられた。教祖様が神様と仲よくなっていかれたのは、教祖様が神様の仰せどおりにされてきたからだ、ということが分かる。
 そして「神様の仰せどおり」にするということは、自分の物差しを置いて、神様の物差しに合わせていくことでもある。物差しとは、何かを選び、決断して、行動する時の自分のよりどころであり、自分の知識や経験、価値観、世間の常識、好き嫌い、あるいは損得などの目盛りが刻まれている。
 教祖様も42歳の大患をとおして神様に出会うまで「信心」はしていたが、それは日柄方角を見るという信心で、言い換えれば自分の都合を通すための信心であり、自分の物差しを振りかざしての信心であった。その信心をすればするほど、次々と家族を亡くすという難儀に遭い、そしてとうとう自分が大患になり、そこでようやく教祖様は神様と出会うことになる。
 そして、自分の思っていた「信心」と、神様が「こういう信心をしておかげを受けてほしい」と願ってくださっている「信心」が違うということに気付かれる。教祖様が罹ったのどけという重病は、教祖様の物差しでは難儀そのものであった。しかし、神様の物差しは違っていた。熱病ではとても助からないので、のどけにまつり代えた、ということを教祖様は神様から知らされる。つまり、神様の物差しでは、のどけはおかげであり、神様が助けてくれた結果であった。このことで、教祖様は自分の物差しと神様の物差しの違いを思い知らされた。
 こうしたことから、教祖様は自分の物差しを置いて、神様の物差しに合わせる生き方を進めていかれた。それはそのまま「仰せどおり」のご信心へとつながっていったのである。そうすれば、教祖様のように神様と仲よくなれるのだ。
 こうした教祖様の「仰せどおり」の在り方を受け継いでおられるのが歴代金光様である。ご本部広前でのお取次の始まりは「立教神伝」であった。この神様からのお頼みを、教祖様と同じように「仰せどおり」に受けられ、「お広前相勤め仕」られておられるのが歴代金光様だ。
 皆さんは、金光様より輔教にお取り立ていただくことになる。そこには、金光様や神様からの「仰せどおりに仕る」信心を進めてくれよ、という願いが込められている。そうすることで、教祖様がそうであったように、必ず神様と仲よくなっていける。輔教には任期があり、4年ごとに再任手続きを進めなければならないが、これは4年ごとに自分の「仰せどおりに仕る」姿勢がどうなっているのかを確認する機会を頂いているということであり、さらにその4年間で神様とどれだけ仲よくなったのかを確かめる機会を頂いているということだ。そこがはっきりとしてくると、神様がなぜ私を輔教にお取り立てくださったのか、その訳がはっきりとしてくる。
 私は教務総長就任について、教務総長として御用が成就するということはどういうことなのか、何をもって成就と言うのかを考え、たどり着いたのは、神様が私を教務総長にお引き立てくださった、そのみ思いが、「ああ、そういうことだったのか」と私の中に深く入ってきた時が、私の御用が成就した時だと思えた。
 それと同じく、4年後に「ああ、神様が私を輔教にお取り立てくださったのはそういうことだったのか」と、神様のみ思いに触れた時が、皆さんの御用成就の時であり、皆さんが神様と仲よくなった時だと思う。
 ここから皆さんが輔教として、どのようなことを神様から頼まれるようになり、それをどのように仰せどおりに仕ることになり、そして、そのことで神様とどう仲よくなっていくのかを、まずは最初の4年を楽しみにして、輔教としてのご信心を進めていただきたいと思う。

講義・発表内容

◆講義1「金光教の信心について」
 講師 岩本威知朗(大阪・金岡)
   ここから輔教として御用を担うに当たり、天地金乃神様の神性、教祖様の生きられ方を学び、金光教の信心の大切な点を押さえ直し、信奉者としての信心の在り方を求めた。
◆講義2「教団の仕組みと働きについて」
 講師:髙村志郎(北海道・亀田)
   現在、形をなしている教団や教会の成り立ち、仕組み、働きを確認し、御取次を頂きながら信心を求め現していく担い手、教団の構成員としての自覚を深めた。
◆講義3「輔教の役割について」
 講師:岩﨑弥生(静岡・静岡)
   輔教に願われていること、人に道を伝える中身を確認し、一層培っていくために、今後輔教として取り組むべき内容について学んだ。
◆実践発表
 発表者:伊藤道教(愛媛・松山東)
   先輩輔教から輔教としての御用や、お道の信心の楽しさ、御用を担うありがたさを聞いた。

班別懇談

参加者それぞれが、これまでの信心の歩みや志願理由を語り、講義を手掛かりに、今後、輔教としての御用の在り方等について話し合い、決意を新たにした。


輔教研修会報告(西近畿教区)

 8月29日、信心の相互研鑽と布教活動の中心的担い手としての自覚を高めることを願いに、輔教集会を開催し、4人が参加した。
 集会では、これまで頂いてきたおかげの積み重ねで、神様との間柄が深まってきたことを再確認するとともに、そうまでしておかげを授けてくださる神様との縦軸をさらに育てていくことを願い、「私と神様との間柄を振り返る」をテーマに、準備された質問用紙にそれぞれが記入して、その内容をもとに一人ひとりが発表した。
 「どのように神様と出会い、信心に目覚めたのか?」という質問には、「生まれた時から神様の祀られている環境で育ってきたので、いつの間にか」「子どもの受験をきっかけに」「病気で人生の終わりを感じた時に、祖母から毎日御神米を頂いて、奇跡的なおかげをとおして神様を感じた」といった発表があった。
 また、「信心して自分が変わったと思った時のこと、信心の喜び、楽しさ、ありがたさを感じた時のことを教えてほしい」との質問には、「結婚して子どもが生まれた時に神様のありがたさを感じた。子どものことを願う気持ちになった時、両親や祖父母の信心や願いのおかげで、自分が生まれてきたことを思った」「幼少から人のことを祈るという精神で育ってきた。その中で、祈られて今日があることに気付かされ、感謝の気持ちでいっぱいだ」「心配があっても大難を小難にしていただき、ありがたい生活をさせていただいている」「生まれた時から何度も病気で危なかったところを助けていただいてきた。教会の先生から『神様からの御用だと思ってさせてもらいましょう』とお取次を頂いて、52歳で楽の御用を頂き、85歳になる今日まで、お礼の心で御用をさせていただいている」といった発表があった。
 集会終了後は、本部主催の輔教研修会が開かれ、講師の松岡光一師(京都・墨染)が「輔教の使命と役割」と題して、直信の国枝三五郎氏の信心体験や、すべてをよいように受けていく信者さんの物事の捉え方について触れながら、輔教制度に込められた願いや輔教としての心構えについて、具体例を交えながら語った。
 参加者からは、「新型コロナの影響で少人数での研修となったが、内容の濃い集会だった」という感想があった。

輔教集会報告(信越教区)

 9月5日、金光教富山教会を会場に、「今コロナに想うこと」とのテーマのもと、輔教集会を開催し、16人(うち4人はオンライン)が参加した。
 はじめに石塚光昌教務センター次長(新潟・佐渡)から、テーマに基づいて次のような発題があった。
 「コロナ禍とも言われる、これまでに経験したことのない今の状況は、一見すると大変難儀な出来事と感じられるかもしれない。けれども、私にとっては、普段何となく行っていたことや、考えていたことから解き放たれ、自分自身を見つめ直し、一層に信心を求めていくことができた時間でもあった。また、ふとしたことからでも、わが心の神様が喜び、その喜びが周囲の人の喜びにつながり、ひいては神様がお喜びになる働きが生まれてくることを、あらためて実感できたように思える。
 教区では基本方針に掲げる『人が助かり神さまのお喜びとなる』活動を進めさせていただいているが、この前段にある『何事も神さまとともに、みんな仲良く』という心持ちが何より大切だと思う。輔教の御用というと、何か身構えて大層なことをしなければならないと思うかもしれないが、『何事も神さまとともに』させていただいていることを素直に喜び、その喜びを表すだけでも、輔教の御用になっていくのではないか」
 この発題を受け、参加者が相互に、今思うこと、感じていることを話し合い、コロナに直面して、不自由と感じていること、不安や心配という正直な声もあった。オンライン参加の輔教からは、「あらためて日々、生かされていること、普段は体験することのできなかった一つ一つのことが、ありがたいと感じられる」という発言があった。
 また、「コロナの影響で、会合に参加できる機会がなくなったが、そんな中、小規模とはいえ、久しぶりにこのお道にご縁を頂く者同士、ざっくばらんに信心の語り合いができ、大変よかった」といった喜びの声も聞かれた。
 今回は、会場と参加者をオンラインで結んだり、現地参加の方々にはフェイスガードやマスクを着用してもらい、懇談の時間も大幅に縮小されるなど、制限の多いプログラムではあったが、参加者らは、「輔教の御用をそれぞれに進めているお互いが、こうして語り合い、喜びを分かち合うことで、これからもお互いに元気な心で、輔教として神様の御用にお使いいただこう」と気持ちを新たにして閉会した。

輔教研修会報告(東近畿教区)

8月2日、ホテルビナリオ嵯峨嵐山(京都市)を会場に、「人を祈り、助け、導き」とのテーマのもと、輔教集会を開催し、13人が参加した。
 新型コロナウイルス感染症の影響で、3月から8月に延期しての開催だったが、拡大が治まらず、対象を任期更新を迎える輔教に限定し、班別懇談も取りやめるなど、感染対策をしながらの開催となった。講師も、田中有希恵師(愛知・高蔵)から松岡光一師(東近畿教務センター次長・京都・墨染)に変更した。
 講師は「神様の願いを現す信心を」と題して、曾祖母の信心体験や、初代教会長である祖父から教えられた信心に触れながら、「神人あいよかけよの生活運動」の「願い」に関わって講話し、さらに「輔教の使命と役割」について、輔教制度に込められた願いや輔教としての心構えなどについて、具体例を交えながら語った。
 続いての全体懇談では、参加者から提出された質問用紙をもとに、質疑応答を行った。
 参加者からは、「これからは御用に喜んで取り組み、何かを得られる自分になりたいと感じた」「講師が話された『私だからこそできる御用』『神様へは何でも願え』ということを忘れることなく日々過ごしていきたいと思う」といった感想があった。

輔教集会報告(中近畿教区)

 2月8日、玉水記念館(大阪市)を会場に、「教会活動および教団布教の担い手である輔教としての自覚を高める」との願いのもと、輔教集会を開催し、113人が参加した。
 はじめに、講師の藤川愛子氏(兵庫・東谷)から、「神量らいは 奇しくて」と題して講話があった。
 講師は、娘が通う幼稚園の保護者会の副会長をした時、周りと自分を比べて、「私はできない」と自分を追い詰めるようになり、軽いうつ病を発症。不安や心配事をお結界にお届けすると、「ここは愛子さんの通らなあかんところで、決して神様は無駄事はなされない」と教えられ、お取次を頂きながらおかげを蒙ったことで、「神様は無駄事はなされない」という信心の土台が培われた体験を話した。
 また、その経験をもとに、夫の両親や実母の介護をとおして、未信奉者だった夫に神様の働きや信心することの意味を感じ取ってもらったこと、自分自身の体験をもって神様に向かうことの大切さを述べ、最後に「『神人あいよかけよの生活運動』の『願い』に取り組み、家族や周りの人たちのことを祈り、明るく楽しく元気な心で、『神人の道』『安心の道』を伝えるお役に立たせていただきたいと願っている」と締めくくった。
 その後、「輔教は何ができるのか―私にできること、私にしかできないこと―」をテーマに班別懇談を行い、参加者からは、「あらためて神様に心を向けて、祈りながら取り組むことの大切さを実感した」「講師が生きた信心を実践される姿に心を打たれた」などの感想があった。

輔教集会報告(西中国教区)

 2月23日、安芸区民文化センター(広島市)を会場に、「『神人の道』を現そう」というテーマで輔教集会を開催し、38人が参加した。
 はじめに、早羽信幸教務センター所長が、「輔教の皆さまは、教主金光様がご任命くだされた、お道にとって大切な一人ひとりです。金光様が『神人の道』をお示しくださって10年、『神人あいよかけよの生活運動』で願われている、一人ひとりの生活に『神人の道』を現すという信心を、ここからの10年、求め合いたいと願っています」とあいさつした。
 続いて、横山勇喜雄師(愛媛・宮窪)から、「神様に使われることを楽しみに信心しましょう」との講題で、昨年の本部布教功労者報徳祭で任命された輔教代表の所願表明に感銘を受けたとして紹介し、さらに、み教えに取り組むことで生き方が変わることや、当たり前こそありがたく、その喜びを伝えていくことが神様のお喜びになるなど、自身のお礼と喜びの生活について講話があった。最後に、「祈られている自覚をもって人を祈り、人が助かる懸け橋となるよう、楽しみに信心させていただきましょう」と力強く語った。
 その後、「輔教として、神様からかけられた願いとは」をテーマに班別懇談を行い、輔教として具体的にどのようなことができるのか、教会内外での取り組みについて話し合った。
 その後の班別懇談では、「信心の喜び、楽しみを語ろう」をテーマに、日々の信心生活で大切にしていることや、好きなみ教えとその取り組み、人が助かるために実践していることなどを語り合った。
 参加者からは、「家族や知らない人にも信心の楽しみ、ありがたさを伝えたい」「日々、仕事に追われ忘れてしまいがちな気持ちが、信心に引き戻された」「不足を語らず、希望を語り、喜びを語る御用に取り組ませていただきたい」などの感想があった。

輔教へのメッセージ

「人の助かりを祈る─輔教としての祈りを現代(いま)に─」髙村 志郎(北海道・亀田)


 平成28年から輔教講師にお取り立てを頂き、至らぬ私がここまで御用にお使いいただいておりますことは、本当にもったいないことと思っております。
 当初は、北海道・札幌会場の輔教研修会のみに出講する予定でしたが、昨年は思いもかけず、東京会場で御用をさせていただきました。たくさんの受講者の中には、四半世紀ほども前に、金光教学生会でお世話になった懐かしい先輩の姿があったり、教会手続きの関係や親戚筋でつながりのある方々もおられ、長い歴史を刻むお道のご比礼にあらためてお礼を申し上げるとともに、教縁に結ばれている喜びと心強さを感じました。
 まだ40代半ばの私よりも、年齢も信心経歴も先輩である受講者が多い中で、若輩者の私は「できない御用の稽古をさせていただく」という心持ちで御用に当たらせていただくのですが、輔教の皆さまの「この研修会で、一つでも多くのことを学んで帰るんだ」という真摯で熱意にあふれたご姿勢に、いつも敬服させられています。在籍されるお教会での「御取次を願い 頂き」というご信心そのままに、講義後の質疑応答もたいへん意義のある充実した内容となり、振り返れば私自身がたくさんのおかげを頂いてまいりました。この場をお借りして、皆さまに心より御礼申し上げます。
 さて、初代、二代教会長のみ跡を受けて、「教会における生神金光大神取次の責任者」という身にあまる役柄の御用を頂き、ようやく3年目を迎えている私ですが、神前奉仕に取り組む中であらためて感じさせられているのは、信仰における「祈り」の大切さです。
 ご本部広前では教祖様以来、歴代金光様が一日も欠かされることなく、御取次、ご祈念をくださっていますので、新米教会長の私にできるせめてものこととして、「常時お広前にある」という形の真似から取り組ませていただいています。参拝者のない時は一人静かにお結界に座らせていただき、歴代教会長が幾度もご祈念を込めてこられた過去のご祈念帳を繰りながら、一つ一つのお届けの内容に思いを寄せていると、ご祈念が自ずと広がりをもっていくことに気が付きます。
 一つのお届けをご祈念するには、その願い主だけでなく、家族・親族はじめ、あらゆる方々のことが関わってきますし、ご先祖の霊神様の働きにもお礼を申し上げなければなりません。また、諸々のお届けを神様に取次がせていただけるお道の働きのありがたさを考えると、教団の益々のご比礼と発展、全国各教会の御用成就など、真似事のような私のご祈念でも、どんどん祈りの範囲が広がっていきます。
 そのような日々の繰り返しの中で祈りが深まってくると、今度は、自分のご祈念というものが大きな祈りに支えられ、導かれてのものであることを痛切に感じさせられるのです。これまでも学院修行中や教会転籍の時など、信心の節目節目に「多くの祈りを頂いての私」という実感を得てきましたが、年を追うごとにその思いがいっそう深く心に染み入ってくるとともに、あまたの先人の「祈り」を今に受けさせていただくありがたさと、ここから後の世につないでいく使命を自覚させられています。
 3年ほど前のこと、夜の定時のご祈念を教会家族で仕えている時に、見知らぬ女性が玄関に入ってこられ、「私もお祈りできますか?」と尋ねられました。お広前にお通しして拝詞集をお貸しし、一緒にご祈念させていただいて参拝者席に下がると、女性はこのように話し出しました。
 「私は先日から、近所の生活困窮者自立支援施設で働き出しました。施設では犯罪経歴があったり、家庭内暴力などで安全に生活できる場所のない人を受け入れ、生活全般の相談に応じつつ、自立に向けた援助や調整のお手伝いをしています。しかし、そういう方々の抱える問題は複雑で、各種依存症などもあって、心理的衝動が制御できがたく、入居者同士や職員とのトラブルも少なくありません。そんな毎日に私の心も不安定になってきて、本当にここで働いていけるのか、お役に立てるのかと思い悩んでいました。たまたま、ここの前を通りかかると、看板に明かりが灯って中からお祈りのような声が聞こえたので、引き寄せられるように入ってきました」
 そのお話をお聞きして、「この神様は全ての人間の親神様であり、人の助かることを一番に喜ばれます。また『人が人を助けるのが人間である』とおっしゃる神様ですから、人を助けたいという願いには必ず道をつけてくだいます。私どもも、あなたが人助けのお役に立たれることを毎日祈らせていただきますから、どうぞいつでもお参りください」とお伝えすると、目の輝きを取り戻して、「お参りしてよかった」と申され、帰路につかれたのでした。
 「此方の道は祈念祈祷で助かるのではない。話で助かるのである」というみ教えがありますが、教祖様は「人を助けるのに祈念は必要ない」とおっしゃっているわけではありません。話をさせていただく側も、話を聞かせていただく側も、自分の信心の元に「助かりたい、助けたい」という一心の祈りがあってこそ、「神人の道」が開かれ、おかげに導かれていくのだと思います。
 輔教にご任命頂かれた皆さまの祈りには、神様、金光様、教会長先生はじめ、多くの直信先覚先師、さらには全教信奉者の「人を助ける御用に立ってほしい」という願いとお徳が込められています。自信と誇りを胸に、輔教としての祈りを日に日に求め、深められ、ここからいっそうのおかげを頂かれますよう願っています。

このページの先頭へ




このページの先頭へ