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常設展 「資料とともにたどる金光大神のご生涯」

仰せ通り

夜明けの遙照山から大谷を望む。
この景色を金光大神も、私たちも共にしています。

 このお道は、いついかなる時も、信心において「変わらない、大切なものは何か」を、神様の「仰せ通り」に、「人が助かりさえすれば」と御取次下された金光大神の御姿に求めつつ、ここまでの歩みを重ねてきました。
 この常設展では、明年にお迎えする教組様140年のお年柄に向けて、改めて、文化11年(1814)のご出生から明治16年(1883)のご帰幽までのご生涯を、「金光大神覚書」、「金光大神年譜帳」、「お知らせ事覚帳」等の文書資料や、収蔵庫に収められている博物館資料を用いて紹介します。
 具体的には、教祖伝『金光大神』、『金光教年表』、「金光大神年譜帳」等をもとに金光大神の年譜を作成し、その内容を第1~6期に分けて示しています。
この展覧会が、神様の「仰せ通り」に歩まれた金光大神の御姿とそのご内容を求める機会になればと願っています。


全景パノラマ

第1期 生い立ち

【対象時期】1歳:文化11年(1814)~23歳:天保7年(1836)

 出生から、家督相続・結婚まで。大谷村川手家への養子入り後、養父母の慈しみを受けながら、一家を担う青年として生い立つ過程を追っています。なお、絵画「大宮神社」は、金光大神出生日が同神社の祭礼日であったことにちなんでいます。

樋口一郎《大宮神社》油彩・カンバス 本館蔵

樋口一郎《大宮神社》油彩・カンバス 本館蔵

樋口一郎《小野氏の旧邸》油彩・カンバス 本館蔵

樋口一郎《小野氏の旧邸》油彩・カンバス 本館蔵

第2期 神との出会い

【対象時期】24歳:天保8年(1837)~42歳:安政2年(1855)

 家督相続から「42歳の大患」の経験まで。子どもたちをめぐる喜びと悲しみに直面しながら、一家の暮らしを担い、手を尽くして生きる姿とともに、神との出会いを通して、無礼に気づき、助けられる様子を示しています。

樋口一郎《沼名前神社》油彩・カンバス 本館蔵

樋口一郎《沼名前神社》油彩・カンバス 本館蔵

樋口一郎《西大寺観音院》油彩・カンバス 本館蔵

樋口一郎《西大寺観音院》油彩・カンバス 本館蔵

第3期 神の頼みを受けて

【対象時期】43歳:安政3年(1856)~50歳:文久3年(1863)

 神の頼みはじめ、「立教神伝」から広前奉仕初期のころまで。養父の面影をたどるか のごとく三男延治郎を連れての宮参り、実弟香取繁右衛門をとおして金神の宮の建築に始まる神からの頼み、七墓つかされた理由を知らされるなど深まりゆく神との関係、そして「立教神伝」を受けて「仰せどおり」に家業をやめ、居宅に手を加えながら広前を勤めはじめていく過程を示しています。

内田律爾《大うんかの年に豊作》

内田律爾《大うんかの年に豊作》-金光教祖様御伝記絵物語り-

内田律爾《15 歳の浅吉が牛を使う》

内田律爾《15 歳の浅吉が牛を使う》-金光教祖様御伝記絵物語り-

《教祖遺跡・大新田下の田》

《教祖遺跡・大新田下の田》

《金毘羅宮参拝の記録》

《金毘羅宮参拝の記録》
典拠:「金光大神事蹟に関する研究資料」103頁


《金毘羅宮参拝の記録》読み下し


讃州金比羅(さんしゅうこんぴら)様、参り。

 十三歳の年、父[が]連れて参り候。

 三月

 はじめての時。その後度々参り。

 私戌年(いぬのとし)、悴巳年(みのとし)浅吉

 連れて参り。岩谷(いわや 現倉敷市玉島黒崎)船出、

 安政三丙辰(ひのえたつ)六月十七日ばん。

 十八日御礼、同夜中明け六つ、帰宅。十九日。

 [子]供は、またも参り。私はその時切り、止め。

第4期 広前を訪れる人々とともに

【対象時期】51歳:元治元年(1864)~57歳:明治3年(1870)

 二間四面の宮建築のお知らせから、浅尾藩による出社神号差し止めの指令まで。金光大神が奉仕を始めた広前には、助かりを求め来る人々はもとより、修験者や官憲なども引き寄せられていました。こうした様々な人々との関わりを視野に入れつつ、変化する環境や制度に応じた神勤資格の取得の動きと神のお知らせ、宮建築をめぐる動き、そして「生神金光大神」をはじめとする神号授与の様子を示しています。

樋口一郎《寂光院》油彩・カンバス 本館蔵

樋口一郎《寂光院》油彩・カンバス 本館蔵

《「二間四面の宮建築」のお知らせ》

《「二間四面の宮建築」のお知らせ》
典拠:「金光大神覚」105~106頁

内田律爾《神命で表戸を取り、門は開け放す》

内田律爾《神命で表戸を取り、門は開け放す》-金光教祖様御伝記絵物語り-

内田律爾《御神命でのぼりを立てる》

内田律爾《御神命でのぼりを立てる》-金光教祖様御伝記絵物語り-


《「二間四面の宮建築」のお知らせ》読み下し


元治元甲子正月朔日お知らせ 天地金乃神

には 日本に宮社なし まいり場所もなし 二

間四面の宮を建ててくれい 氏子安全守りて

やる 天地乃神にはお上もなし 其方に

はお上もあり 世話人頼み お上願い申しあげ 世話人

当村午の年川手保平 同所森田八右衛門巳年 大工 安

倉丑の年元右衛門 弟子 中六子年国太郎 手斧はじ

め きたる四月吉日 こしらえてお上がかなわねば、どこへ

でも 宮のいるという所へやるけに かまわん こ

しらえいたせい お上がかのうて建てば 其方の宮

天地乃神が宮へ入りておっては この世が闇

になり 正真 氏子の願い礼場所 其方取次で 神も

立ち行き 氏子も立ち 氏子あっての神 神

あっての氏子 子供のことは親が頼み 親のこと

は子が頼み 天地のごとし あいよかけよで頼

み合いいたし 村お役場へお伺い 願主浅吉

第5期 信心深化の歩み

【対象時期】58歳:明治4年(1871)~64歳:明治10年(1877)

 神命による六角畳の撤去から、行政による広前臨検のころまで。金光大神は、既に書き始めていた「お知らせ事覚帳」に加えて、神から出生以降のことを書くよう明治4年(「金光大神年譜帳」) と明治7年(「金光大神御覚書」)に指示を受けています。日夜の広前奉仕をはじめ、「生まれ変わり」や「天地書附」の確定等の出来事が起きる中、行われていた帳面の執筆の経験に思いをいたしてみます。

《六角畳》

《六角畳》
芸備教会所蔵

《申し渡しの覚》

《申し渡しの覚》
典拠:「金光大神事蹟に関する研究資料」106頁

金光大神筆《天地書附》本館蔵

金光大神筆
《天地書附》
本館蔵


《申し渡しの覚》読み下し

一、申し渡しの覚。諸稽古の事は、とめ申さ
ず候。中にも、字書く、書き読み、算そろばん、身上の為に
なる事、考えていたし候。身の為にならん事は、
せんがよし。商売の事と、よそへ行くの、出るの、
誰行けいの、とは言うな。誰一人よそへは
やらんのぞ。仲よういたせい。人の喜ぶ事はいたし
てよし。おいおい縁談事も神が指図いたす。
衣装、諸道具一切、少々の物は時々に買うがよし。何
があっても、いらん時節がくるぞ。誰が身上にでも
あるぞ。何事でも神の事忘れな。神を
願い。悪き事は神は言わん。男はなりたき(なるたけ)家の為、みんな
の身上の為の事いたすようにせい。女はなりたき(なるたけ)に白の木綿いたし
ためおき。女のつむり(頭)道具にもなり。金にも田地にも、
何なりとも望みしだいに神が時の考えでしてやる。
なんぼう氏子が利口発明でも、病気、難あった時には、
いけんぞ。欲の事言うな。気をせんな(せくな)、気短に言うな。
短気は損気という事あり。五人子に宮建てて、それぞれに、
総氏子を助ける守り役を申し付けるぞ。先を楽しみ。
どこにどう、あそこにこうと、よその事は言うな。何事も
世間の通りにはならんぞ。御上御変革に相成り候。
御上通り。神の言う通りに、実意丁寧いたし候。
まことの心、ひと口も嘘を言うな。言う通り聞かねば、めいめい
の難儀、神が残念に思うだけ。家内[子]供中。
取り次ぎ生神金光大神 天地金乃神 明治六癸酉十二月十日、
          同(明治)七甲戌一月二十七日当たり。

第6期 助かりの道の行く先

【対象時期】65歳:明治11年(1878)~70歳:明治16年(1883)

 四男萩雄の賀茂神社祠掌就任から、金光大神帰幽まで。村民を中心とした宮建築の動きに関わって、表だった対応を萩雄に任せつつ、神からしばしば意にそわない点を指摘されています。神の意思と食い違う状況に生じるもどかしさ、その後、「広前のことはせがれに任せよ」、「人民のため、大願の氏子を助けるため、身代わりに神がさする。金光大神ひれいのため」とのお知らせに至る過程を追っています。
 「黎明の安芸守山(あけのかみやま)」の絵画は、金光大神様ご帰幽について、「安芸守山」に朝日がさすころに亡くなったという伝承にちなんだものです。

樋口一郎《黎明の安芸守山》油彩・カンバス 本館蔵

樋口一郎《黎明の安芸守山》油彩・カンバス 本館蔵

《お知らせ事覚帳 擱筆》読み下し

二十一日早々にお知らせ 今明日 飯 茶も
          食べず 菓子 水だけ
人民のため 大願の氏子助け
ため 身代わりに神がさする
金光大神ひれいのため 書きとめ

《お知らせ事覚帳 擱筆》

《お知らせ事覚帳 擱筆》

作者紹介

樋口一郎〈ひぐち・いちろう、1908~1971〉

 洋画家。玉島町乙島(現倉敷市玉島乙島)出身。昭和8年、第14回帝展「初秋」初入選。画風は、鮮やかな色彩で描く、明るい風景が特長。20歳後半に、金光鑑太郎師と親交を結ぶ。

内田律爾〈うちだ・りつじ、1890~1979〉

 後月郡木之子村(現井原市) 出身。昭和19~27 年、金光中学校(現金光学園中学高等学校) 校長。昭和27~42年、金光図書館長等を歴任。昭和15年、金光教教師補任。展示作品は、金光図書館の求めに応じて、晩年に描かれたもの。

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