特集展示「資料歳時記」は資料それぞれが持っている時期や季節に目を向ける試みとして企画したものです。
この度は、4月かた6月にゆかりある資料として、文書資料群から、元治元年(1864)4月9日(新暦換算5月14日)、金光大神の白川家入門のことが記されている《諸国御門人帳》と入門にあたって白川家から金光大神に下付された《神拝式許状》と《神拝式副状〔えそじょう〕》、そして博物館資料群から、麦の収穫期(6月頃)に用いられる《麦打ち台》を展示します。
金光大神(入門時、赤沢文治)は、元治元年(1864)4月、白川家に入門し、居宅記念の許状を得ています。
白川家は、古来神祇伯[じんぎはく]という、調停の祭司を司る神祇官の長官職を世襲する家柄で、神職への補任や各種神事に関わる許状を下付したり、神職や祭神にへの叙位や照合の下付を調停に取り次ぐ神道の宗家(神祇道家)の一つでした
金光大神は、元治元年正月一日、二間四面の宮の建築を指示するお知らせを受け、宮建築の許可を得るために、同年4月9日付で、金光大神の広前に参拝していた白川家の門人橋本卯平を介して入門しました。
この入門によって金光大神は、神職以外の身分の者が自宅で神を拝むこと、装束を着用することの許しを得ました(「神拝式許状」)。白川家から下付された許状には、神を拝する際の式次第を授与した旨が記されており、神祇伯王の署名と押印があります。
もっとも、この許状は自宅で神を拝むことを許すもので、宮建築の許可には不十分なものでした。金光大神はその後、慶応3年(1867)2月に神主職を取得しています。
総じて、こうした資格取得は、宮建築を発端として、自宅で行っていた神勤行為に制度上の公認を得るための方途であったと解されています。
《諸国御門人帳》 |
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《神拝式許状》 |
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《神拝式副状》 |
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《麦打ち台》 |
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