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「あらわされた金光教」展

「写真物語金光教祖伝」より
 教祖様に出会い、お道の教えにふれ多くの人々が救われていった。
 その中で、このお道のありがたさ、教祖様のお徳を伝えあらわしたいという願いは、教祖様在世中から現代に至るまで、さまざまな方法で営みつづけられている。このたびは、『あらわされた金光教』をテーマに、絵画、本、絵巻、映画、歌舞伎などを展示し、それぞれの願いから生まれた作品を紹介することにした。
 さまざまな方法で、このお道をあらわそうとした作り手の熱い願いとその形に、ふれていただければ幸いである。

展示品

修養 道歌いろは歌留多

ご霊地滞在中の参拝者向けの玩具として、また、ご霊地参拝のお土産として売られていたようである。

教祖御伝記(ガラス版)

ガラス版に絵を描いて幻灯機で投影した。 製作/金光教北條教会幻灯部

金光教祖伝絵巻






 渡辺霞亭の「金光教祖」を元に作られた絵巻。日本絵画形式の一つである絵巻物(えまきもの)形式で、教祖様のご生涯を絵と文章を織り交ぜながら、連続した1枚の紙に表している。絵巻に描かれている絵の構図やタッチは、後に刊行される「金光教祖御絵伝」「金光教教祖伝画帖」とも類似性が認められる。

  筆/松井四友
  画/松井俊夫
  注/渡辺霞亭
  出版/輝文館
  大正6(1917)年刊

金光教教祖伝画帳


子ども向けに、教祖様のご生涯を絵と簡略な文章で紹介した小冊子。

著/坪田倫平
発行/立誠堂出版部
大正13(1924)年刊

教祖誕生絵




平成7年、白萩荘(旧管長邸)から発見。氏神である大宮神社の祭礼の日、ご生家での教祖誕生の瞬間が描かれている。ついたての奥に光を宿らせる形で、誕生を表現している。

1435ミリ×857ミリ
作者不明
製作時期不明

写真物語 金光教祖伝

 映画『金光教祖伝』(昭和8年)のスチル写真をストーリーに沿って構成したものである。写真は35枚あり、教祖誕生から帰幽までの35場面が収められている。この映画は、教祖50年を記念して製作・上映されたもの。本教信奉者で「日本映画の父」と称された牧野省三氏が設立したマキノプロダクションの流れをくむ、京都嵯峨嵐山ニッポンフィルム社が制作した。監督は人見吉之助が務め、主役は当時の人気俳優、谷崎十郎が演じた。

 

 
『金光教徒』によると、「本教教経典英訳者の一人、大阪商科大学教授米国文学士・津田和也氏原作脚色の『金光教祖伝』の謹映を企て、この程その完成を見たので(金光家邦)管長様、(金光攝胤)御広前金光様のご覧を頂き、(昭和8年3月)19日には弥広館にて本部講究所の諸師に試写して批評を乞うこととなった」(昭和8年3月17日号)と伝えている。この映画は、4月15、16日大阪中央公会堂で封切られ、中山亀太郎師が解説を務めた。


演劇 金光教祖

 教祖30年祭に当たり、熱心な信奉者だった五代目・中村歌右衛門が、「平素のご恩徳を酬ゆる(報いる)」ために、11月10日の東京教会所教祖記念大祭を初日として上演。
 渡辺霞亭の「金光教祖」を底本に、劇作家の中原指月が脚本を担当した。佐藤範雄師の校閲や畑徳三郎師(東京教会初代)の意見を取り入れて公演された。(「あらわされた金光教」 展では、 同公演のパンフレット 〈早稲田大学所蔵〉 が展示される)
 また、翌年4月には大阪道頓堀の中座で、脚本に変更を加えた上で上演された。

二つの教祖伝

金光教祖
天地金乃大神
 明治40年、教祖25年祭のお年柄を迎えた教団は、記念事業として、「教祖御略伝」の編さんに着手した。その取り組みは、明治43年、「教義(み教え)と御伝記とを兼ねた」新たな教典の編纂に向けた取り組みへとつながっていく。
 その資料収集の過程で、教祖様のご手記である「金光大神御覚書」の存在が明らかになり、教祖伝編さんの取り組みは大きく進展するものと思われた。ところが、明治45年に迎える教祖30年祭まであと1年あまりという時点で、御略伝編さんの取り組みは先送りとなり、教団では教祖様のみ教えを取りまとめた教典の編さんに注力していくこととなった。
 教団から正式に教祖伝が刊行されたのは、「御覚書」発見から43年を経た昭和28年のこと。それほどまでに教祖伝刊行に時間を要したのは、「御覚書」をはじめとする根本資料の正確な解読、客観的な事実確認など、時間をかけた研究の蓄積を優先したためだったようである。
 正式な教祖伝は出なかったものの、明治44年、大阪朝日新聞では社会課長を務める小説家、渡辺霞亭(かてい、碧瑠璃園/1864年〜1926年)と、大阪毎日新聞の社会部記者、早川督(1885〜1914)が、それぞれ教祖伝の執筆を開始する。そして、教祖30年祭に間に合うような形で「金光教祖」(渡辺)、「天地金乃大神」(早川)が刊行された。「天地金乃大神」は、明治45年1月から大阪毎日新聞で「金光さん」として43回連載された教祖伝を含むルポで、後に改題されたものである。
 これらの教祖伝は教団から公式に刊行されたものではなかった。しかし、渡辺は佐藤範雄師、高橋正雄師らの、早川も近藤藤守師やその高弟の支援を受けて出版に至ったものだった。そのため二つの教祖伝には、当時、存在が明らかになったばかりの「金光大神御覚書」の内容も盛り込まれている。このことから、非公式とはいえ、教祖30年祭の記念事業の一環として位置付けられ、取り進められたものだったようである。
 教祖30年祭は、明治天皇崩御を受けて、大正2年に延期されて執行された。明治43年に「教義(み教え)御伝記とを兼ねたる教典」の編さんを目指した取り組みは、公式の「金光大神御理解集」の刊行と、非公式の二つの教祖伝が刊行されるという形で結実したのだった。そしてこれ以降、物語化された教祖様のご生涯が、出版物、演劇、映画など、さまざまな形で表現されていくことになる。
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