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 本部総合庁舎1階第2展示室で、「立教 その意義と教えの広がり-霊地の移り変わりを中心にして-」というテーマで、平成21年3月29日より平成22年2月末日までの期間、立教150年展を開催しました。

 以下に展示の一部を紹介します。【解説:金光図書館 文責:「金光教ホームページ」係】

 第2展示室は、金光図書館開館時間帯(10:00~17:30)に観覧できます。観覧希望の方は、金光図書館(TEL:0865-42-2054)までお申し出ください。休館情報はこちら


立教 その意義と教えの広がり-霊地の移り変わりを中心にして-


 金光教は、教祖金光大神様が天地金乃神様から取次のお頼みを受け、取次に専念されるようになったことに始まります。

 教祖様に託された取次の業は、教祖様から直信(じきしん・教祖から直接教えを受けた信者)へ、さらに直信から先覚先師へと伝わり、湖面に落ちた石が波紋を描き広がっていくように、その教えが広がっていきました。

 教えの広がりとともに、ご霊地金光にはたくさんの参拝者が訪れるようになります。参拝者を受け入れる施設や宿泊所等もそれに従って増えていきました。

 また交通手段も、当初は船や人力車、徒歩であったものが、鉄道や道路の整備により、列車、バス、乗用車へと変わっていきました。

 かつては「お国参り」とも言われていた本部参拝。

 信奉者の多くが、この教祖立教の聖地に足を運び、広前や奥城に座して祈り、金光様のお取次をいただいて、それぞれの地に帰っていきます。

 こうした営みは、教祖様ご在世中に始まっており、これからも変わることなく続いていくでしょう。

 その一方で、ご霊地のたたずまいは大きく変わっていきました。

 このたびの立教150年展では、金光教の立教の意義と、教えの広がりによって多くの参拝者が訪れるようになったご霊地の移り変わりを、さまざまな資料をとおして、たどってまいります。


絵馬(取次の座が定まる以前の広前)


 森政禎治郎(もりまさ ていじろう)が教祖の広前に奉納した絵馬です。
 森政禎治郎(1848-1912年)は上御領村の人で、1879年(明治12)に九死一生の重病になり、佐藤範雄の取次により全快しました。
 この年、教祖広前に初参拝し、同年、この絵馬を奉納しました。
 『御覚書』1858年(安政5)の記述には、「上(かみ)の間(ま)の正面へ棚(たな)いたし、厨子(ずし)、三方(さんぼう)、酒二合入り徳利(とっくり)調え」とあり、取次の座が定まる1873年(明治6)以前の広前の様子をうかがい知ることができる資料ですが、この絵馬が教祖広前を描いたものであるかは不明です。
 神棚の下には、「生神金光大神」「天地金之神」「八百八金神」の神名が記された書付が掲げられています。


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立教の意義

 本教にとっての立教は、教団の草創期には、直信からの伝承で、安政2(1855)年とされていましたが、明治43(1910)年、教祖伝を編纂する過程で、教祖様のご手記を金光四神様が写された『金光大神御覚書』の存在が明らかになり、神様のお頼みの内容と、お頼みになったその日が安政6(1859)年10月21日ということがわかりました。

 これが、こんにち「立教神伝」と呼ばれているお知らせです。

 「立教神伝」では、取次に専念して欲しいという天地金乃神様から教祖様へのお頼みが、細やかな心配りをもって述べられています。そして教祖様はそのお頼みに対し、「仰せどおりに家業やめて、お広前相勤め仕り」と謹んで受けておられます。

 「立教神伝」の中では、天地金乃神様は教祖様に対して、命令や押しつけではなく、了解を求めておられます。

 また、奥様に対しても同様の姿勢で臨まれています。そして何より「天地金乃神を助けてくれ」というお言葉を寄せておられます。

 これまで人間の欲深さやさまざまな迷信にとらわれている難儀な氏子に対し、助けの手を差し伸べることができなかった天地金乃神様は、「立教神伝」をとおして、「神も助かり氏子も立ち行く」世界の実現を教祖様に託されたのです。それは教祖様にとっては、天地金乃神様に従い、救済者、取次者として生きていこうとする覚悟を定めた日でもありました。

 本教にとって、この日は、教祖様をとおして神が助かり人が助かる道がはじめて開かれた日なのです。

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立教神伝の公表

 「立教神伝」は、明治の終わりには主だった教団関係者には知られていましたが、公にされたのは昭和8年の教祖50年祭に刊行された『金光教大要』からであり、当時は「立教の神宣」と呼ばれていました。教典へは昭和16年から「立教神伝」として全文が収載され、同年の教規に「立教神伝」の名前が明記されました。

 しかし、それまでは、個人の著作や雑誌等で次々とその断片や全文が発表されており、そのためか、各著作ごとに表記の違いがみられます。


『天地金の大神』(早川督 明治45年) 『金光教祖』(渡辺霞亭 大正元年)

『金光教観』(和泉乙三 大正4年) 『金光教青年会雑誌』(金光教青年会 大正13年)

『金光教大要』(金光教本部 昭和8年)
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「立教神伝」の現代語訳

 「立教神伝」の現代語訳として、教祖伝『金光大神』(平成15年刊行)では、次のとおり紹介しています。


 金子大明神、この幣を作ったことを区切りに、肥灰(こえはい・農業)を差し止めるから、そのように承知してくれ。家業として、外へ農業に行き、人が願いに来ると、家から呼びに来、家へ戻る。願いが済むと、また農業へ出、またも呼びに来る。それでは農業する間もないし、願いに来た人も待ち、両方の差し支えになる。どうであろう、家業をやめてくれないか。

 其(そ)の方(ほう)42歳の歳には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏に願い、おかげで全快した。その時、死んだと思って欲を放して、天地金乃神(てんちかねのかみ)を助けてくれ。

 家内も後家になったと思ってくれ。後家よりはまし。ものも言われ、相談もできる。子供を連れて、ぼつぼつ農業しておってくれ。

 此の方(金子大明神)のように実意丁寧神信心している者が、世間に多くの難儀な人があるから、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、人も立ち行く。人あっての神、神あっての人、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く。


※傍線の部分は、「此の方のように実意丁寧神信心している者であって、しかも難儀をしている人が世間に多くあるから、その人たちを取次ぎ助けてやってくれ」と読むこともできる。

抜粋:教祖伝『金光大神』(平成15年刊行)から

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教祖広前の時代

掛軸 教祖広前絵図


 教祖広前は、「木綿崎山(ゆうざきやま)」の丘陵と、「小田(こだ)の山」の丘陵に挟まれた大谷(おおたに・地名)にありました。

 「木綿崎山」丘陵の麓に作られた道路に沿って1列に9軒が並び(教祖広前は、北から3軒目)、「小田の山」丘陵の麓に作られた道路に沿って1列に5軒が並び、その間は水田地帯でした。

 参拝者は、玉島方面、鴨方方面ともに、里見川堤防上の道を通り、木綿崎山西麓の道あるいは水田地帯中央を南北に通る道から教祖広前に参拝していたと考えられています。

 これらの道は、大正初年の境内地拡張工事のため正門の位置が大きく南に変更されるまで、主な参拝道として使用されていました。水田地帯中央を南北に通る道は、こんにちでも「中通り」として残っています。

 遠方からの参拝者増加にともない、宿泊の必要が出てきましたが、まわりはすべて農家であり、まずは教祖様の奥様の実家である古川家がもっとも近いことから、農業をしながら、宿泊者を引き受けることになりました。文久年間(1861-63)のことであり、霊地における旅館の始まりと言われています。その後ほどなく、藤井駒次郎(後の木綿崎館)も宿泊者を引き受けます。明治14年には教祖様の頼みを受けて藤井恒治郎が、宿泊者のお世話を専らとする藤恒屋(ふじつねや・後の吉備乃家)を開業しました。

 こうして、遠方からの参拝者の宿泊が可能になることにより、大谷が霊地となっていく第一歩となりました。


地方からの参拝図 航路 徒歩路

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旧広前の時代

旧広前(明治24~大正9)


 教祖広前が老朽化したため、古木を取り替えて改築したもの。平屋建て、瓦葺きの入母屋造りで、広前は28畳であった。大正14年4月大教会所炎上により消失。

 金光四神様、三代金光様が取次に当たった。写真は三代金光様。


 明治20年代になると、教祖広前は手狭になり、また老朽化もあって、改築が計画され、それとともに本部境内地の拡張や付属建物が建てられることとなりました。

 教祖広前の古木を取り替え新築した旧広前が明治24年(明治23年とも言われる)に完成、同30年には教殿が完成、後にそれに接して本部事務所や倉庫が建てられました。

 境内の入り口に至る参拝道の両脇には、旅館業や商業を生業とする人たちや、本部職員らが居を移し構えるようになりました。

 明治24年に笠岡まで開通した山陽鉄道(全線の開通は明治34年)には鴨方駅が設けられ、参拝者が利用するようになります。

 占見には仮駅がつくられ、大祭時には団体列車による参拝が可能となりました。明治34年には、正式に金神駅(現金光駅)になりました。

 教祖様から取次の業を継承した金光四神様のもとで、教勢は全国へと伸び、その後さらに三代金光様のもとでは、台湾や朝鮮半島、北米へも広がっていきました。

 道が広まるにつれ、参拝者はさらに増加していきました。

 田舎ののどかな農村であった大谷は、少しずつ本部広前の門前町を形成していくことになりました。

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大教会所の時代

教祖30年大祭記念霊地全景(大正2年)


 教勢はさらに伸び、旧広前が手狭になってきました。この時代には、「金光様の2度びっくり」という話がささやかれていました。地方の教会にお参りして、その霊験あらたかなことにまずびっくり。そして本部にお礼参拝して、建物のみすぼらしさ2度目のびっくり。全教の信奉者にとって本部広前の拡張は大きな願いでした。

 そこでまず、大規模な土地造成と家屋の移転が行われ、参拝道として現在の門前通り(アーケード通り)と呼ばれる道路が田んぼの中につくられ、旧正門通りにあった家々が、その門前通りに移転しました。

 これにより門前通りが中心街となり、金神駅から里見川を渡り門前通りに至る道沿い(大通り・本通り)には、土産物屋をはじめ、旅館、飲食店等が立ち並び、郵便局や銀行、消防機庫、巡査駐在所が軒を連ねました。

 境内には、大教会所、祖霊殿、大教殿、神饌殿、楽殿、管長室、本部事務所が建築され、大正10年に新築落成祝祭が執り行われました。境内の南側には、修徳殿(現学院講堂)が、さらにその南側に金光中学(明治37年築)がありました。


霊地絵図(大正12年)


大教会所新築落成祝祭(大正10年2月22日) 大教会所広前(大正9~大正14)
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本部広前ご造営の時代

航空写真(昭和28年4月7日撮影)


 残念なことに大教会所は、大正14年4月に焼失します。焼け跡に仮神殿(現修徳殿中央教場)が急きょ建設され、大教会所復興造営部が組織されて、新たな境内地構想が立てられました。

 昭和の初年から、本部関連施設の移転が始められ、教義講究所の鍛冶屋谷(現地)への移転と、聖ヶ丘に客殿の新築がはじまりました。これに伴い、金光中学から同寄宿舎を結ぶ直線道路と、その途中から客殿、講究所建設予定地を結ぶ道路がつくられました。この道に沿って新たな家屋が建ち並び、町は、南に向かって広がりはじめました。

 また、金光中学の移転予定地(現占見新田)の造成工事も進められましたが、昭和10年に大教会所復興造営部は解散し、本部広前の建築工事は中断したまま、太平洋戦争が起こります。

 戦後まもなく、本部広前造営を願って、大谷は大きく動きはじめました。

 戦後の新学制による高等学校を併置した金光中学は「金光学園」となり、昭和23年から占見新田への移転新築工事が進められました。

 昭和30年には本部広前御造営の諭告が発せられ、旧金光中学跡地に祭場を造営するため、木綿崎山西側を切り取り、境内地を南東に拡張し、昭和34年に本部広前祭場(当時は斎場)が竣工しました。そして同年10月から11月にかけて、立教百年祭が執り行われました。

 昭和37年には、大谷の南側に新たな国道が開通しました。これにより、バスや乗用車での参拝が増加し、立教110年(昭和44年)には、下淵、殿部駐車場に加え、新たに大谷駐車場(現金光学園幼稚園敷地)が造成されました。

 昭和48年には、本部広前会堂が竣工。昭和58年には、本部総合庁舎が竣工し、現在とほぼ同じ霊地のたたずまいとなりました。


立教100年祭 里見川北側土手 金光駅前の奉祝アーチ
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団体参拝

 「お国参り」とも言われる本部広前への参拝は、教祖ご生前中から始まっています。

 団体参拝も鉄道網が整備されるにしたがって、盛んになり、こんにちにおいても続けられています。

 関東地方では、明治21(1888)年に東京布教が開始され、その年の10月、「おくに参り」として東京から霊地への参拝が行われました。当時は東海道線が全線開通していませんでしたので、横浜から神戸へ、さらに岡山へと汽船を乗り継いでの旅であったと考えられます。

 東京駅-金神駅間が開通した明治42(1909)年には、「東京参拝団」として初めて臨時列車による参拝が行われました。

 鉄道が開通したことで、近畿地方では、船を利用しての参拝から、列車での参拝になりました。明治41年からは、「お国への千人参り」として団体列車を編成しての参拝が始まりました。

 九州地方では、主なルートとして門司港から船に乗り、尾道で上陸し、その後は、徒歩や人力車での参拝でした。尾道駅-金神駅間の鉄道開通後は、汽車に乗り換えて霊地を目指しました。下関駅-金神駅間が開通した明治34(1901)年からは、門司港の松延旅館に参拝者が集結し、その後団体列車で参拝するようになりました。

 霊地への参拝には、多くの時間を要します。団体列車に揺られながら参拝者たちは、自らいただいたおかげを語り合ったり、信心共励会が始まったり、また余興も行われました。団体列車の中は、信奉者たちの濃密なコミュニケーションの場、信心研鑚の場でもありました。


教祖45年祭 熊本参拝団
団体列車内(昭和3年)
旅館吉備乃屋の様子

布教功労者報徳祭に参拝の近畿教区参拝団(昭和27年)


こんこう号 首都圏布教100年 昭和63年
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こんにち

 昭和28(1953)年に刊行された、佐藤一徳先生の著書『常のみすがた』の中に「三代94年」と書かれた文章があります。これは三代金光様ご在世中に書かれたものであり、現在からは56年の隔たりがあります。

 しかしこれは、当時佐藤先生がお感じになった三代金光様の「常のみすがた」が56年の時を経てなお、五代目となられた現教主金光様に確かに継承され、教祖様以来150年間変わらぬお姿であることを思えば、感慨深いものがあります。

 以下に、引用いたします、文中の「三代94年」を「五代150年」としてお読みください。佐藤一徳先生の感じられた本部広前御取次の尊さ、その永遠性が現在によみがえるようです。


『常のみすがた』改訂増補第4版 佐藤一徳著より


 それから今日(昭和28年)まで、実に60年の間、金光さまは、そのご生涯の毎日毎日を、ご霊地本部広前のお結界に坐り通しに坐ってこられ、そして、今もなお、坐りつづけておいでになります。

 この長い間に、どれだけ多くの人があの本部広前にお参りして、金光さまのお取次をいただいたことでしょう。かつて教祖さまにまみえた直信たちも、四神さまにお取次を願うた先覚の方々も、引きつづき金光さまのお取次をいただかれました。おじいさんからひ孫まで、四代にわたって、金光さまのお取次をいただいている家もたくさんあります。

 さらに遡って、教祖さまのときから数えてみると、教祖さまが神さまから、今日私どもが「立教神伝」と呼んでいるお知らせをお受けになり、それまでの家業であった農業をおやめになって、六畳一間の御神前にお坐りなされたのが安政6年、それから明治16年おかくれになるまで、24年間、その後を四神さまがお継ぎになって10年間、さらにその後を、今の金光さまがお継ぎになって、今日まで60年間、これを合わせると、94年になります。今年(昭和28年)が、教祖70年大祭、四神様60年祭、そして教主金光様御神勤満60年という記念のお年柄であるということは、実に、この本部広前の御取次が、立教以来94年の間、一日も絶えることなく続いてきたということなのであります。

 今後とも、たとえ世は移り、代は変わっても、このお勤めは、あたかも輝いてかわらぬ太陽のごとく、流れてやまぬ川のごとく、いつまでもいつまでも続くでありましょう。そして、世界中の総氏子が、縦にも横にも、次々に、ご神縁をいただき、おかげをこうむって、天地の親神さまの思召しは、次第次第に世界中へ伸び拡がっていくのであります。

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