本部あんない

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常設展

教祖使用農具 唐箕(とうみ)

収穫した穀物を脱穀した後、籾殻や藁屑を風によって取り除く農具。


「弘化四年未九月二日これを整う 赤沢氏」と教祖の直筆が見える。
 弘化四年は1847年。教祖が立教神伝を受けた後、親戚筋の大橋孫兵衛に譲った。
 後、昭和初期に、教祖直筆の字が書かれているという貴重さから、大橋家より金光家に寄贈された。
 後に金光図書館に寄贈されたもの。
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教祖使用農具 万石どおし

籾殻を分離した玄米を分別する道具。籾殻を分離した玄米には、まだ籾殻を覆ったままの籾が混入している。これを分別する段式のふるい分別機。
 石や屑米など、重いものや網の目より小さい屑が最初に網の目を通って落ち、籾が中程で落ち、最後に籾殻など軽いものと網の目より大きい屑が落ちる。道具の下に筵を敷いて使用する。
 「極無類田川万石たうし」(極めて無類 田川万石たうし)と、この道具の性能の良さを謳っている文字が見えるが、教祖によるものではない。
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教祖使用農具 麦打ち台

下に筵をひいて小麦の穂を叩いて籾を台の隙間から下に落とした。
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松浦一太夫が教祖から授かった神名書付

足守藩の郡奉行・松浦一太夫(いちだゆう)が教祖から授かったと伝わる神名書付。
松浦一太夫は、江戸時代の末期に、浪華の方位家相見であった松浦(とうけい)の門に入り、足守藩の郡奉行をつとめていた。松浦(とうけい)の養子となり、児島の近藤嘉平治(かへいじ)の長女てるを嫁に迎えた。松浦(とうけい)は、江戸時代、大阪に在住し、『方鑒精義大成』(「ほうがん せいぎ たいせい」方位の善し悪しを見る方法についての詳しい講義を一冊にまとめた書物)『家相圖解』(かそう ずかい)などの書物を著した。日柄方位の日本一の研究家として著名であった。

 松浦一太夫が教祖広前に来訪した経緯については、次のような伝承が残っている。
 松浦一太夫の妻が日柄方位についての教祖の教えを伝え聞いて、夫である一太夫に伝えた。一太夫は義父の著作『方鑒精義大成』他4種の著作を携えて教祖広前に出向き、半日、教祖と問答した。そして教祖の話に納得した一太夫は、携えてきた著作をお供えし、信者となることを述べて、書付の下賜を願った。この神名書付はその際に教祖から授かったものという。

 後に一太夫の子息が教祖三直信の一人・佐藤範雄(のりお)に鑑定を依頼したところ、佐藤が『教祖御筆』とお墨付きを与えたという。その後、四代金光様の時代に、松浦家の子孫から買い取ったもの。

 『家相大全』は、以前より金光図書館所蔵のものがあったが、『方鑒精義大成』はなかった。教祖120年(2003)の前年10月に古本市で売りに出されているものを埼玉県の古本店を営む信奉者が購入し、金光図書館に寄贈した。

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垂教聖机(すいきょう せいき)

教祖が立教初めに神前で使った机。
 大阪教会から寄贈されたもの。「この机は教祖様が立教初めにご神前にお使いになった机であります。二代白神(しらかみ)先生がお下げを願ってただ今の金光様から頂いたものであります」との説明が付いている。「ただ今の金光様」とは、三代金光様・金光摂胤(せつたね)のこと。
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糸車

 金光とせ(教祖の妻)使用のものと思われる糸車。
 境内下にあった蔵の2階に保存されていたもので、「金光」と書かれている他、裏側に「明治六年一月二十一日之を整う」と書かれているが、それはちょうど布教差し止めの時期にあたり、その時期、教祖の妻が糸車を回して参拝者の話を聞いたという、その糸車であると考えられる。
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金光四神の上着・股引・投網

 金光四神(しじん)の妻・喜代(きよ)の弟・安部喜三郎(きさぶろう)の家に伝わったもの。
 金光四神の妻・喜代が安部家の出であることから、安部家には金光四神の関係のものが伝わっている。金光四神が書写した『金光大神御覚書』の一部も伝わっており、それは明治40年代に教祖伝、教典編纂のための資料として提出された。
 金光四神は漁が好きであり、得意でもあり、投網がたいへん上手であったと伝わっている。漁には、よく沙美へ行っていたと伝わっている。その際に、この上着と股引を着用し、この投網を使ったという。金光四神は「大谷の海坊主」とも言われ、長時間、海に潜ることができたとも伝わっている。


 金光四神が教祖の結界奉仕を後継してからは、漁を修行として行っていたらしいという伝承がある。
 金光四神は、結界奉仕が終わってから夜に沙美へ漁に行っていたが、ある信者が「四神様は沙美へ夜遊びに行っているのではないか」と勘ぐり、結界奉仕を終えた四神様のお供として付いて行って、それを見極めようと考えた。2日続けてお供をしたが、3日目には体がふらふらしてお供ができず、お供を断った。一方、金光四神は3日目も変わりなく、漁に出て行ったという。この信者は、自らが「お取次くださる金光様ともあろう人が、漁に行くのは、どうもよろしくない」と非難めいた気持ちを持ち、それを人にも話してきたことを振り返り、「あいすまぬことであった。いっしょにお供をして、本当のことが分かった。決して、ただのお遊びではなかった。ご修行であった。どんなにまねても、およぶものではない」と心からお詫びを申し上げたという(『しんじんさま』67~69頁)。
 また、伝えによると、金光四神の妻・喜代も、金光四神が帰宅するまで寝ずの修行をしていたという。
 これらの上着と股引は当時としても質素な作務衣である。
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立教聖場の瓦

 教祖の広前が古くなり、狭くなったので、明治二十四年に立て替えられた際に、もとの広前の屋根の瓦が保管された。研究所で保管されていたものが図書館に移管された。
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立教聖場の木片

 立教聖場が解体された際に、近藤藤守(ふじもり)が木片に至るまで大切に受け取った。由緒書きには、明治38年、名古屋教会の初代教会長の妻が病気になり、医師から絶望を宣告された際、この木片を削って煎じて飲み、全快のおかげを受けたことが書かれている。
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立教聖場の絵

 樋口一郎氏の絵 昭和八年作。樋口氏は『聖跡十二絵』を書いた。その中の一枚。
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唐金灯籠

 立教聖場の神前の両脇に吊されていた1対の灯籠のうちの一つ。古川家に伝わったもの。
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御膳箱

 教祖使用のもの。安部家【金光四神の妻・喜代の弟である安部喜三郎(きさぶろう)の家】に伝わったもの。
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洗面盥

 教祖使用のもの。安部家(金光四神の妻・喜代の弟・安部喜三郎の家)に伝わったもの。
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教祖生誕の絵

 立教聖場横のご神殿の中にあったと伝わる教祖生誕の絵(部分)。
 絵の上部には幟が見え、大宮神社の祭り日であることが分かる。教祖と思われる赤児には後光が差している。
 和堂と号が見え、画家・中山和堂(わどう)の絵ではないかと推測されるが定かではないので、作者不詳としている。中山和堂は天王寺教会の信者であった。
 明治末から大正にかけて、教祖を目に見える形で表現しようとする気運が見られ、その頃のものと推察されるが、定かなことは不明。
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三代金光様の「お車」

 3台あった「お車」のうちの1台。三代金光様であった金光摂胤(せつたね)は、この「お車」を1953年(昭和28)1月18日から、毎日、自宅と広前の往復時に使用した。
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境内模型


 昭和48年現在の本部広前会堂が竣工し、その境内を再現したもの。本部広前造営の構想が一応達成されたことを記念して、金光図書館が企画し、ヤマネ工芸(芦屋市)が製作したもの。材質はすべて和紙が使われている。

 300分の1の縮尺模型で、当時、航空写真を撮ったり、実測したり、入念に再現され、木の形、時代による石垣の石組みの違いまで正確に再現している。会堂と祭場の屋根は取り外しができ、内部も正確に再現されている。当時設置されていた教祖奥城の屋根も作られたが、現在は取り外して、墓石が見えるようにしている。正門の下に人が立っているが、彼の身長は6mmであることから、実際は、身長180センチであることが判る。
 当時の制作費は500万円であった。当時の大卒初任給全国平均57,000円を基準にすると、2009年現在の貨幣価値で、大体2,000万円位。

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