神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 1月号 神人あいよかけよの生活運動


「よきものを与えられる信心の稽古を」  塚本 道晴(愛媛・来見)


「働く」ことの意味は
 ある日、教会の教職舎の玄関の呼び鈴が鳴りました。出てみると、そこには50代前半の某有名生命保険会社の制服を身につけた女性が立っていました。私は用件を聞くこともなく、保険の勧誘だと決めつけて、「間に合ってます。結構です」と言うと、彼女はNと名乗り、「お参りさせていただいてよろしいですか?」と言われました。私は少し怪訝(けげん)に思いましたが、「どうぞ、どうぞ」とお広前の玄関から中に入るよう誘いました。
 Nさんは金光教の教会は初めてのようで、何をどうしていいのか分からずにお広前の後ろの方にたたずんでいました。私はお結界に座らせていただき、Nさんを手招きしてお結界へと導きました。
 「よくお参りです。何か困ったことがありますか?」と尋ねると、Nさんは「保険の勧誘のノルマが達成できません。このままでは給与も激減し、仕事を辞めなくてはなりません。どうしたら保険に加入してもらえるでしょうか」と苦しい胸の内を訴えました。
 さらに話を聞くと、Nさんが生保レディーとして働くようになって4年目、これまでは生保への加入者のノルマは順調にクリアできていたそうです。しかし、一方それは、夫や子どもたちをはじめ、親兄弟や親戚など、関わりある人たちに無理をお願いして加入してもらっていたということで、「もうこれ以上、頼れる人も頼める人もいない」ということでした。一般的に生保レディーの8割から9割が、3年から5年の間で退社を余儀なくされてしまうのは、こういった実情もあるそうです。
 私はNさんに一つ質問をしました。
 「あなたは何のために生保レディーとして働いているのですか?」。すると彼女は、「生きるため、よりよい生活をするためです」と即座に答えました。私は「あなたは保険の契約が取れないと言われましたが、あなたが生きるため、よりよい生活をするために、他の人たちから大切なお金を取るのですか。もし、あなたが取られる立場になったらどうしますか?」とさらに尋ねました。彼女は黙って話を聞いていました。
 私は続けて、「何事も取ろうとすれば、誰だって取られまいとするのが普通じゃないですか。それはあなたの仕事だけではなく、働くということ自体、他の人によきものを与えて、傍(はた)の人たちが楽になるから、『働く』と言うのでしょう。自分が楽になるだけなら働くではなく『自楽(じらく)』でもよさそうなものですが、そうじゃないでしょう。そもそも保険に加入した人たちが、安心して助かってもらうために保険のセールスをしているんでしょう。だから、これからはセールスで各家を訪問させていただく前に、神様に『どうぞこの家の方々のお役に立たせてください。よきものを与えさせてください』とお願いをしてお仕事をされたら、必ず神様が立ち働いてくださいます」と申し上げました。
 さらに私は、「金光教の教祖様は、『人にはできるだけのことをしてあげ、人に物をあげたくてしかたがないという心を持ち、自分だけよいことをしたいというような心を持つな』『自分のことは次にして、人の助かることを先にお願いせよ。そうすると自分のことは神がよいようにしてくださる』と教えてくださっています。このように、あなたの生き方を少しでも改めさせていただけば、必ず神様はお働きくださいます」と付け加えました。
 それから後、Nさんは定年退職するまでの間、ノルマを達成できなかった月はありませんでした。時にギリギリまで契約が取れない月もありましたが、そのたびに御取次を願い、頂き、初心に戻って少しでも神様のみ心に添わせていただくように努めると、不思議にお繰り合わせを頂くことができたのです。

足りないことを嘆くのでなく
 また、Sさんという40代半ばの女性が初めてお参りしてきました。教会にやってきた彼女の顔は鬼のような形相で、私が「何か悩み事ですか?」と尋ねると、彼女はせきを切ったように夫への不満を語り始めました。
 というのも、Sさんの夫はギャンブル依存症で、サラ金に何百万円もの借金を作り、その返済は毎月10万円、月収は20数万円で、それでもギャンブルをやめることもなく、帰宅するのは早くても午後10時以降、遅ければ午前様になることもしばしばで、帰宅後は毎夜のように大げんか。そんな毎日が何年も続いているということでした。彼女は「今すぐ、夫のギャンブルをやめさせてください」と、鬼の形相のままに訴えました。
 私はあまりの勢いに冷や汗をかきながらも、心中祈念をさせていただいた後、「今すぐと言うなら、ご主人に大病で入院してもらうか、死んでもらうかしかないですね。どちらにします?」と伝えました。するとSさんは、「どちらも駄目です」と言うので、「ところで、あなたはご主人の悪いところだけをかき集めて、あれが悪い、これが悪い、あれも足らん、これも足らんといって腹を立てているけれども、ご主人のよいところは何かありませんか?」と尋ねると、「一つもない」と答えるので、私が「仕事をしてくれているでしょう」と言うと、「そんなことは当たり前です」と言うのです。「でも今、ご主人に入院されるのは駄目なんでしょう。だったら元気に働いてくれているということは、よいことなんじゃないですか」と伝えると、納得しないままに「はあ」とだけ答えました。
 私は続けて、「確かにご主人のしていることは、とても褒められるようなことではないが、私がご主人の立場になって思うのは、毎日毎日、家に帰れば鬼が待っていると思うと、帰りたくなくなるのも当然だと思いますよ。あなたはご主人に悪いもの、足らぬものを与え、自分にはよいもの、ありがたいものをくれくれと言っているように思えます。悪いものである愚痴や不足、不平や不満を相手に向けて、自分によいものが返ってくるのであれば、この世に難儀なことはないと思いませんか。どうでしょう。今日からご主人によいものを向ける信心の稽古をさせてもらいませんか。嫌なこと、悪いことは教会へ置いて帰り、ここからよいものを持って帰って、家庭の中で育ててください」と申し上げました。
 彼女はその言葉を素直に受け入れ、日参が始まった。最初のうちは悪い心とよい心がせめぎ合っていましたが、時が経つにつれて、鬼の形相は次第に笑顔へと変わり、それと同時にご主人は知らぬ間にギャンブル依存症から抜け出すことができ、また借金も無事に返済することができました。

わずかな違いが天地を分ける
 仏教の逸話に、「極楽見学ツアーと地獄見学ツアー」という話があります。昔々には、あの世へ行ける天国ツアーとか、地獄ツアーというのがあったそうです。どちらのツアーに行くかを参加者たちは話し合い、まず天国ツアーに参加しました。
 天国に着くと、ちょうど食事の時間で、大きな丸いテーブルの真ん中には、それはそれはおいしそうなご馳走が大皿に山のように出されていました。席に着いている人たちもみんな、布袋(ほてい)さんや恵比須(えびす)さんのように、ふくよかでにこやかな人ばかりで、想像していたとおりの和やかで楽しい情景でした。
 さらに、この世へ戻ってきたツアーの参加者たちは、地獄へも物見遊山、話のネタにと見に行くことにしました。さて地獄に着くと、天国と同様にちょうど食事の時間でした。見るとそこには、天国とまったく同じテーブルの真ん中に、同じ料理が山のように並んでいました。ところが、席に着いている人たちは天国とはまったく違い、体はガリガリ、ギスギスした雰囲気で、目はギラギラと輝き、今にも襲いかかろうとしているような、まさに想像していた地獄絵に出てくるような情景でした。
 天国と地獄では出される料理もしつらえもまったく同じであるのに、そこにいる人たちはなぜそのように違うのかということなのです。そこで、あの世とこの世での違いは何かと言うと、たった一点、食事の時の「箸の長さ」の違いだけで、あの世の箸は2メートルもあり、その長い箸を使って食事をしなくてはなりません。
 地獄の人たちは、その長い箸で料理をつかみ、われ先にと自分の口に料理を運ぼうとするのですが、箸が長すぎてとても自分の口に運ぶことができない。「食らわんとして、食らうに能(あた)わざるとき心は火のように燃える」ということです。そして、その心の火が一瞬にしてテーブルの上のご馳走を焼きつくすのです。ですから、地獄の人たちはいくらご馳走を出されていても食べることができず、いつも空腹で身も心もギスギスしているのだそうです。
 一方、天国の人たちは、その長い箸を使って自分の目の前の人の口元にご馳走を運び合うのです。お互いが感謝とお礼の心をもって。ですから天国の人たちはみんなふくよかで、にこやかでいられる訳です。たったそれだけの違いが、天地を分けるというお話です。
 先の二人のご夫人も、このようによきものを与えることに気付かず、よきものをもらうことだけを考えて難儀をしていたと思うのです。教祖様は「おかげはたらいの水である。向こうへやろうとすれば、こちらへ来る。こちらへ取ろうとすれば向こうへ行く」であるとか、「人が人を助けるのが人間である」とみ教えくだされているのは、まさにこのことであろうと思います。
 今、お道は「神人あいよかけよの生活運動」に取り組んでいますが、殊に「運動」7年目を迎える本年、現代社会を鑑みても、いよいよ「願い」の4行目に示された「神心となって 人を祈り 助け 導き」という信心実践が大切となり、この4行目の実践こそが、このお道の真の助かり、立ち行き、ご神願成就へとつながる大切な中身であると思うのです。
 さらにこのことは、分かっている、知っているだけでは何の意味もありません。ことわざに「三歳の童子これを知るといえども白髪の老人これを行い難し」とありますが、そうなってはならないと思います。「運動」に日々真摯に取り組ませていただき、少しでも世界の平和と人類の助かりに向けて、「神人の道」を開くお役に立たせていただかねばと心新たに願わせていただいています。
(2018/1)




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