信越教区では、「『神人あいよかけよの生活運動』と輔教の役割」をテーマに、上越市直江津「学びの交流館」で輔教集会を開催し、15人が参加した。
はじめにセンター所長から、「神人の道を一人ひとりの生活に現させていただくご用を共々に頂いている。自らの生活からおかげの世界が周囲の人や後の世代に広がっていくよう、『運動』の『願い』をわが願いとして主体的に取り組ませていただきたい」と挨拶があり、引き続いて輔教の藤堂明美氏(富山・富山)と大代明美氏(富山・中伏木)がテーマに基づいて発表を行った。
藤堂氏は、3年後に迎える教会開教100年祭に向けての取り組みや、自身の信心目標について述べ、「日々お取次を頂きながら、何よりもありがたく過ごすことを心がけている。先を楽しみに、今の信心を大切にしていきたい」と語った。
大代氏は、教会長夫人でもある立場から、教会での日々のご用、7年前から娘さんと始めた典楽をとおして感じた信心継承の大切さや祭典への意識、大祭での直会準備から、みんなが心一つに真心のお供えをすることの喜びを語った。
午後の班別懇談では、それぞれの取り組みや願いを話し合い、続いての全体懇談では、各班からの報告、質疑応答や感想、今後の課題などを出し合った。
教区内では、輔教としてご用に当たる喜びを確かにしながら、その輪をさらに広めて仲間が増えていくことを願っている。集会をとおして、それぞれが生活のなかに神様を現し、教会、教会連合会、教区にあって連帯を深め、輔教としての活動を積極的に進めていくことを確認した。 西中国教区では、広島市安芸区民文化センターで、「神人の道を現そう」というテーマのもとに輔教集会が開催され、32人が参加した。
西中国教区では、広島市安芸区民文化センターで、「神人の道を現そう」というテーマのもとに輔教集会が開催され、32人が参加した。
はじめに教務センター所長が、「2年目に入った『神人あいよかけよの生活運動』への理解を深め、ここからの取り組みを輔教として相互に学び合いたい」と挨拶した。
講話では、全国信徒会委員長である原田幸次氏(山口・東小郡)が、「『神人あいよかけよの生活運動』に取り組む」という講題で、祖父母や両親の信心姿勢を受け継いだ今日までの歩みを振り返りながら、「親(親神様、教えの親、肉親の親)を頂く」ことと、「お取次を頂いて、おかげを受ける」ことについて語った。
講話後、参加者からは、「おかげを頂いて、そこで留まってはいないか。神様は、なぜ、このおかげを下さったのかと、神様のみ思いに迫っていくこと」「神様を飾り物にしてはいないか。生きた神様を信心しなければならない」という言葉が心に響いた、との声が聞かれた。
班別懇談では、「お礼を土台とした信心への取り組み」「家庭や社会生活のなかでお道を伝える取り組み」について発表し合い、共に信心を磨き合った。また、教祖130年のお年柄に当たり、「教祖さまを描く」というテーマで、それぞれが頂いている教祖様について語り合う時間を設けた。
参加者からは、「あらためて、お道にご縁を頂いているありがたさを認識した」「お取次を頂き、神様と自分との縦軸を強くし、少しでも神様の願いに添った生き方をしたい」「輔教としての自覚を持ち、何事もありがたい気持ちで取り組み、お役に立ちたい」などの感想が寄せられた。
北海道教区では、「『運動』推進を担い、輔教としての自覚に立ち、教会、教会連合会、教区における活動と輔教としての役割を求める」との願いのもと、「道を伝える」をテーマに輔教集会が開催され、6人が参加した。
講義では、講師の高村志郎師(亀田教会)が、「本教の道を伝えるために」と題して、次のように語った。
「道を伝えることに関わって、教祖様は晩年、唐樋常蔵師に『此方金光大神は百日の修行が足れば神になるのぞ。西23か国は、その方らに頼むぞ。…体がなくなれば、願う所に行って氏子を助けてやる』とおっしゃっている。これは、教祖様が亡くなっても取次の神になられるから安心だということではなく、この道の信心を頂く者は、教祖様から道伝えの担い手としての役割を負わされていることが示されている。
教祖130年のお年柄を迎え、あらためて私どもの役割が問われており、それぞれが信心の基礎固めをさせていただかなければならない。信心の基礎とは、例えば『体の丈夫を願え、体をつくれ、何事も体がもとなり』『信心は家内に不和のなきがもとなり』に示されたように、決して難しいものではなく身近なことである。『恩を知り、その恩に報いる』生き方を願っていくことが大事であり、そのためには、やはりお取次を頂いていかなければならない」
その後の質疑応答では、「道伝え」に関わって、「まずは家族に信心を伝えていくことが必要だが、なかなかうまくいかない」「無理に伝えるのではなく、家族に感謝するという信心の実践を行うことで、自然と伝わっていくのではないか」「道伝えにしても、ほかの活動でも、『これが私のご用』と決めつけるのではなく、常にお取次を頂き続けることが必要」といった意見が出された。