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『天地は語る』から 検索結果

天地は語る

『金光教教典』から400のみ教えを抽出し、現代語訳を施し、「神と人間」「人間の難儀」「信心とおかげ」など、事項別に編集しました。持ち運びできる新書版サイズです。
教祖金光大神様の信心を理解する書として、また、信心生活を勧める糧として広く活用され、さらには、『金光教教典』に接する機会になればと願っています。

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該当レコード数 : 49 件

352 金光様が、「私は生神ではない。百姓である。天地金乃神様に頼めばよい。私はただ、神様に申しあげるだけのことである」と仰せられ、ご神前に進まれると、すぐ神から、「金光大神は、自分は百姓であるから天地金乃神に頼めばよい、と言うが、金光大神があって天地金乃神のおかげが受けられるようになった。神は何千年来、悪神邪神(じゃしん)と言われてきたが、金光大神があって神は世に出たのである。神にとっての恩人は金光大神である。人間も、金光大神があってこそ神のおかげが受けられるようになった。人間にとっても恩人である。神からも人間からも両方の恩人は金光大神である。金光大神、と頼んでおけばよい。金光大神の言うことを聞いてそのとおりにすれば、神の言うことを聞くのと同じである。金光大神の言葉にそむかないように、よく守って信心せよ」とお知らせがあった。その後、金光様は、「今、神様があのように仰せられたが、私は神様の番人のようなものであるから、私に頼んでもおかげはいただけはしない。どうあろうとも、天地金乃神様、と一心にすがれよ」と仰せられた。すると、「金光大神はあのように言うが、金光大神にすがっていればよい。まさかの折には、天地金乃神、と言うにはおよばない。金光大神助けてくれ、と言えば、すぐにおかげを授けてやる」とお知らせがあった。
353 金光大神の取次で、神も立ち行き、人間も立ち行く。人間あっての神、神あっての人間、子のことは親が頼み、親のことは子が頼み、天地(あめつち)のようなもので、あいよかけよで頼み合いをせよ。
354 金光大神の話は、学者の話や講義と違(ちが)って、ここが続き、ここが切れ目ということがない。天地のある間は、天地の話が尽(つ)きることはない。金光大神は天地の道理を説くのである。
355 「天地金乃神と人間との間柄(あいだがら)を、参って来る者に話して聞かせよ」と、神が仰せられるので、金光大神は話をしているのである。
356 金光大神がご神前を離れれば、世の人々がけが過ちをするかも知れない。世の人々にけが過ちのないように、本当のおかげが受けられるようにと願っていると、金光大神はここを動く暇(ひま)がない。
357 金光様は、いつも、「たとえ、この身は八つ裂(ざ)きの仕置きにあい、村々の辻に曝(さら)し者にされるようなことがあっても、私の屋敷跡(やしきあと)に青草が生えるようになっても、少しもかまいません。世界の人々が、生神金光大神、と真心で一心に願えば、どのような願い事でもかなえてくださいませ」と願っておられた。
358 「金光様、あなたがお隠(かく)れになりましたら、この道はどうなりましょうか」とお伺いした。すると、「心配することはない。形を隠すだけである。肉体があれば、世の人々が難儀(なんぎ)するのを見るのがつらい。体がなくなれば、願う所に行って人々を助けてやる」と仰せられた。
359 生神金光大神といっても、今までは形があったから暑さ寒さも感じたが、これからは形を去って真(まこと)の神になるから、一目(ひとめ)にすべての者を見守ることができる。
360 月も雲に隠(かく)れることがあろう。隠れても月は雲の上にある。金光大神も生身(なまみ)であるから、やがては身を隠す時が来る。形がなくなっても、どこへ行くのでもない。金光大神は永世生き通しである。形のあるなしに心を迷わさないで、真(まこと)一心の信心を立てぬけ。美しい花を咲(さ)かせ、よい実を結ばせてくださる。
361 人民のため、大願の氏子を助けるため、神が金光大神を身代わりにさせる、金光大神のひれいのため。
362 金光大神のことを生神(いきがみ)と言うが、金光大神ばかりではない。この広前に参っている人々がみな、神の子である。生神とは、ここに神が生まれるということで、金光大神がおかげの受けはじめである。みなもそのとおりにおかげが受けられる。
363 人は金光大神のことを生神(いきがみ)と言うが、金光大神も、あなた方と同じ生身(なまみ)の人間である。信心しておかげを受けているまでのことである。あなたも、神の仰せどおり真(まこと)一心に信心しておかげを受け、人を助けて神にならせてもらうがよい。
364 無学で人が助けられないということはない。学問はあっても真(まこと)がなければ、人は助からない。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀(なんぎ)をしている者がある。金光大神は無学でも、みなおかげを受けている。
365 人を一人助ければ、一人の神である。十人助ければ、十人の神である。
366 わが身、わが一家を練習帳にして、神のおかげを受けて人を助けよ。
367 神から金光大神に、いつまでも尽(つ)きないおかげを話にしておく。金光大神が教えたことを違(ちが)わないように人に伝えて真(まこと)の信心をさせるのが、神へのお礼である。これが神になるのである。神になっても、神より上になるとは思うな。
368 信心しておかげを受けて、難儀(なんぎ)な人を助ける身にならせてもらうがよい。神の心になって、受けたおかげを人に話して真(まこと)の道を伝えるのが、神へのお礼である。それが神のお喜びとなる。信心するといっても、これまではみな神を使うばかりで、神に使われることを知らない。天地金乃神は人を使いとなさる。神に使われることを楽しみに信心せよ。
369 「私はこれまで広大なおかげをいただいていますので、何か神様にお礼をさせていただきたいと思いますが、何を奉(たてまつ)ったら、この神様は一番お喜びくださるでしょうか」とおたずねした。金光様は、「神にお礼をするのに物を奉ってすむのならば、これまであなたが神のおかげを受けられたそのお礼には、何もかも奉っても足りはしまい。神はそんなものをお喜びになるのでもなく、また望んでおられるのでもない。神のありがたいことを知らない世の中の人々に、あなたがおかげをいただかれたことを教えてあげよ。そうすれば、その人々が助けられ救われる。それが神の一番喜ばれるお礼である」と仰せになった。
370 生きている時に神になっておかないで、死んで神になれるか。
371 自分のことは次にして、人の助かることを先にお願いせよ。そうすると、自分のことは神がよいようにしてくださる。
372 今まで長い間痛くてつらかったことと、今おかげを受けてありがたいことと、その二つを忘れるな。その二つを忘れさえしなければ、病気は二度と起こらない。これからは、人が痛いと言って来たら、自分のつらかった時のことと、おかげを受けてありがたかった時のことを思い出して、神に頼んであげよ。自分はもう治ったから人のことは知らないというような心を出すと、またこの病気が起こる。今の心でおかげを受けていけば、病気が起こらないばかりか、子孫の末までおかげを受けられる。
373 人の悪口を言う者がよくある。もし、その場にいたら、なるべく逃げよ。陰(かげ)で人を助けよ。陰で人を助けておけば、おのずと神の恵みがある。
374 人に悪く言われた時に、信心しているからこらえなければならない、と思ってこらえるくらいではまだいけない。先方の心をどうぞ直してあげてください、と拝んであげるようにならなければいけない。
375 たとえ人にたたかれても、けっして人をたたいてはいけない。人に難儀(なんぎ)をさせるな。よい心にならせてもらえばありがたいと思い、すれ違(ちが)った人でも拝んであげよ。できるだけ人を助けるようにせよ。
376 信心する人は、人に頭をたたかれても、私の頭は痛みませんが、あなたの手は痛みませんか、という心になり、また、頭から小便をかけられても、ぬくい雨が降って来たと思えばよい。
377 ある時、金光様の家の麦わらの垣(かき)に、だれかが火をつけて焼きかけになっていた。それを見た人が、「金光様、こういうことをする者には罰(ばち)を当てておやりなさい」と言ったら、「こういうことをする者こそ神に願って、心を直してあげなければならない」と仰せられた。
378 盗難に遭(あ)った時は、大難を小難に逃(のが)れさせてくださったと神にお礼を言い、また、盗人(ぬすびと)が本心に立ち返り正業(せいぎょう)に就くように、と神に願ってあげよ。
379 金光大神があって神は世に出た。金光大神の話していることを、そのまま人に聞かせてあげればよい。あなたが、これまでおかげを受けてきていることを話せば、それでよい。何も、そう心をつかわなくてもよい。後ろに金光大神がひかえている。
380 神が金光大神に教えてくださり、話して聞かせよと言ってくださるから、話してあげる。それを聞いて、子供にでも他人にでも話して聞かせてあげよ。めいめいにそれを心得、神はありがたいとわかって信心する人が一人でもできれば、神がお喜びになる。そうなれば、あなた方も神のご用に立つことになる。
381 たびたび参られても、何も手から手に渡すものはない。私のは話がおかげであるから、帰られたら話をして、おかげを受けさせよ。世の中に他人ということはない。
382 道を歩きながら話をしても、腰(こし)をかけて話をしても、心から納得すればおかげになる。
383 機(はた)を織りながらでも着物を縫(ぬ)いながらでも、教えをしてあげよ。教えてあげれば人は助かる。
384 教えてもらって信心しておかげを受けたら、人にも教えてあげなければ、神へのお礼にならない。信心する者の役目がすまない。
385 寒い日であったが、お参りの途中(とちゅう)で気の毒なおじいさんに遭(あ)い、かわいそうに思って、着ていた物を脱(ぬ)いであげた。それからお参りすると、金光様が、「今日は結構なおかげを受けたなあ。不幸せな者を見て、真(しん)にかわいいという心からわが身を忘れて人を助ける、そのかわいいと思う心が神心である。その神心におかげがいただける。それが信心である」と仰せられた。
386 神に参るだけが信心ではない。至急の時には、お礼を当てにするようなことでなく、格別の親切を尽(つ)くすがよい。急難にかかっている人がいたら早く行って助けてあげ、火事があれば早く行って火を消す手伝いを潔(いさぎよ)くすれば、これが真(まこと)の信心親切となる。何事にも心がけておれ。
387 病人に品物を贈る親切だけが見舞(みま)いではない。見舞いの言い方で、気分が強くもなり弱くもなる。せっかく見舞いに行く親切があるなら、病人の心が元気になる見舞いを言ってあげると、病人の心が広く大きくなる。この時から、神のおかげをすぐにいただけるようになる。金光大神の話したことを、病人や家族に話してあげれば、悪いことを思わないで、安心して全快することを楽しむ。人によると、見舞いに行っても病人を見て涙(なみだ)を流し、さぞつらかろうと言ってなでさすりして、病人の心を苦しめる者もある。また、病人の顔色を見て嘆(なげ)き、やせたのを見て嘆く。家族へはあちこちの悪い話を集めて聞かす。そうすると悪い思いが満ちて、神のおかげを入れる所もないようになる。そのような心配をさせては、見舞いに行って見舞いにならない。病人の心が元気になるように話をし、また家族の者には余計な心配をさせないように話し、できるだけの手伝いをせよ。また、貧しい人には金や品物を贈るなど、助ける道はいろいろある。何事にも心がけて信心をせよ。
388 農業する人は、自分の田の水の様子を見に行ったら、人の田の水も見てあげれば、人もまた自分の田の水を見てくれる。互(たが)いに親切にし合えば、人も喜び、神もお喜びになる。
389 天地の間のおかげを知った者がいない。しだいに世界中、日の照らす下、万国まで残りなく金光大神ができ、おかげを知らせてやる。
390 天地の道がつぶれている。道を開き、苦しんでいる人々が助かることを教えよ。
391 道は人が開け。おかげは神が授ける。
392 道を立てる者は、目先の欲を放して末の徳を取れ。どれほど艱難(かんなん)苦労をしても、人の杖(つえ)とも柱ともなるがよい。
393 世の人があれこれと神のことを口端(くちは)にかけるのも、神のひれいである。人の口には戸が閉(た)てられない。人は先のことを知ってはいない。いかに世の人が顔にかかるようなことを言っても、腹を立てるな。神が顔を洗ってやる。
394 お道のご用をさせていただこうと、真(まこと)の教えをする者が一町に一軒(けん)、一村に一軒になれば、お道を伝えるにはらくである。
395 あなた方は小さいことばかり考えているが、金光大神は、世界をこの道で包み回すようなおかげがいただきたいと思っている。
396 欲を捨てることについておたずねした時、「いやいや、私にも欲がある。世界の人を助けたい欲がある。欲を捨ててはいけない」と仰せになった。
397 金光様は、「道を世界中に広めなければならない」と常に仰せられていた。
398 信心をせよ。はじめは一人でも、後には日本中の人が信心をするようになる。外国の人までも信心をするようになる。金光大神もはじめは一人であったが、今ではこのとおりに大勢になった。
399 真心(しんじん)の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えよ。
400 金光とは、金(きん)光るということである。金は金乃神の金、光は天つ日の光である。天つ日の光があれば明るい。世界中に天地金乃神の光を光らせて、おかげを受けさせるということである。

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