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おかげを頂いているからこそ

光本真一(岡山・落合)

 私が在籍している落合教会は、昨年、開教90年を迎え、11月に記念祭を仕えさせていただきました。おかげを頂き、とてもありがたいお祭りでした。一方で教会の現状を見ると、参拝者数の減少や、信心継承の困難さなどが目に付きます。必然的に財の問題も生まれてきます。こうした現状の中で、最近特にありがたく頂いているみ教えがあります。
 それは「人間はみな、生まれる時に約束をしてきているのである。だから、家族が一人よりは二人、二人よりは三人、三人よりは五人と大勢いるほど、家庭の中に種々の難儀がある。幸いに信心をしていると、まあ、それを除いていただくのであるが、下地(生まれつき)の約束であるから、また、こういうことが起きたというようなことが出てくるかも知れない。その時に、これほど信心するのに、なぜこういうことが出てくるのだろうかと思えば、もう信心はとまっている。これはまだ私の信心が足らないのだと思い、これはどこまでも私の勤めるべき役であると思って、信心をしていかなければならない。そこからおかげがいただける。これほど信心するのにと思えば、もう、それきり信心の筋はとまっているのである」という津川治雄師の伝えです。
 この現状も、生まれる時の神様との約束であり、私の勤めるべきお役であると思えば、心が落ち着き、神様と共に通らせていただこうという気になります。難儀にも意味がある、というより、難儀の中にこそ神様がおられる、という気がしてきます。
 現在、私は東中国教務センター職員の御用を頂いていますが、業務の一環として、岡山県同宗連(同和問題に取り組む岡山県宗教教団連絡会議)の役員をしています。以前、ある牧師さんから「召命感(しょうめいかん)」という言葉を教えていただきました。神様から呼ばれること、使命を与えられること、といった意味だそうですが、その牧師さんは一般家庭に育ち、自らの意志で洗礼を受け、その後、牧師を目指して教団の養成機関に入られたそうです。養成機関に入るに当たって、面接で厳しく問われたのが「召命感」だったと言います。それが曖昧であると入学を許可されないと聞き、驚くとともに自分自身の来し方を振り返らされました。
続きはこちら → 「神人あいよかけよの生活運動」ページ

投稿日時:2020/02/19 11:44:06.567 GMT+9



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