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本部広前元日祭 教務総長あいさつ

「神に信ぜられる」「神に用いられる」信心

 新年を迎え、立教百五十年のお年柄の新春でもあり、改まった思いと喜びを感じ、ご同慶のことと存じます。皆様には、昨年のよきことも悪きことも振り返り、あらためて「今年こそは」と、仕事や家庭生活、健康のうえにも、願いを新たにされたことと思います。

 容易ならない経済状況のなか、先行きの見えない不安はありますが、常日ごろから経済という一つの側面だけにとらわれない生き方を心がけていくことが大切かと思われます。

 塩飽きよという方が、教祖様に、「私は長らく信心させてもらっていますが、貧乏で困ります」と申し上げると、「貧乏といって、食べない時があるか」とお尋ねになったので、「いや、食べられないことはありません」と答えると、「いくら金や物を積み重ねていても、食べられないことがあってはどうにもなるまい。壮健(まめ)で麦のご飯が食べられれば、それが分限者ではないか」とおっしゃられました。

 人生のなかで何が大切か、人はどう生きるべきか、ということについての教えであり、まさに価値の転換をなさしめる教えです。私たちは、とかく他人と比べて「自分定め」をしますが、それは教祖様の信心世界とは異なる価値観での生き方です。今日、食事が満足にとれるのは地球上でほんの一にぎりといわれるなか、現代にも通じる痛烈な文明批判といえます。

 昭和三十年半ばに始まる高度経済成長以来、大量生産・大量消費を美徳とし、快適で豊かな生活を第一の価値として追い求め、物を大切にする心を失い、信仰心を古いものとして顧みず、生きる意味を考えることを怠った結果、どのような人生でありたいかという、人間としての基本を問い忘れています。

 人間とは何か、生きるとはどういうことか、自分なりに納得しているつもりですが、あらためて問われると、目に見えるものに置き換えて計算可能なものに意味を見いだしたり、自分を立てるためには他人を傷つけ、 自分の思いを遂げることのみに快感を覚えがちですが、自分の欲望を満たす生き方は、いわば自分の「ご機嫌成就」のための生き方に過ぎません。

 あらためて教祖様の教えを拝読すると、「人間は、万物の霊長じゃというが、その霊長は何からできたか知っておられるかな。それは母の体内で作られたに相違ないといっても、人間の分別で作ったものではない。食物は百姓が作ったというても、百姓の力でも肥料の力でもなく、天地のお恵みの外から、生まれてくる所はないのであります。そうすると、人間は万物の霊長というても、まだその上に天地がござっしゃることを忘れてはなりませんのう。子供が恩を知らぬというて嘆く親があるが、天地の神のご恩を忘れておっては、みだりにはいえませんことであります」と、神と人とが信仰で結ばれた関係の本来性を説いてくださっています。

 現代人のだれもが納得し、容易に理解できるみ教えを、私どもが早くから頂いてきていることに、あらためて感じ入ります。

「神が世に出る」「ここに神が生まれる」という働きをする生き方を貫かれた教祖金光大神様のご生涯が、そのまま「神が助かる」と言われる生き方であり、そのまま歴代金光様に継承されて、百五十年ということです。それは、「神に信ぜられる」「神に用いられる」信心あってのことでした。

 私どもは、教祖様から、「先の世までも持ちて行かれ、子孫までも残るものは神徳である。神徳は信心すれば、だれでも受けることができる。神徳は尽きることがない」「生きたくば神徳を積みて長生きをせよ」と教えられていますが、とかく「長生きをせよ」という部分だけに納得してしまいがちで、大切なことは「生きたくば神徳を積みて」にあります。「神徳を積む」ということに答えや形はなく、めいめいが分かるまで求めていくほかはありません。

 そうとして、取り組む手がかりとなるみ教えを挙げてみますと、「神徳を受くるは、人間心の位も思わず、理屈も言わず、学問うぬぼれ心なく、清き一心さえあらば、神のみ戸は開ける」(佐藤範雄師)、「人に好かれれば神にも好かれる。神に好かれれば人にも好かれる。人徳神徳を受けるように信心せよ」(佐藤光次郎師)、「他人に、わずらわしいこと、気にいらぬことを辛抱させるような不徳なことでは、神徳は頂けぬぞ」(島村八太郎師)、「仮にも負け惜しみをすな。少しにても一番先に勘弁した者が勝ちで、神徳を受けた信者なり」(同)とあります。

 「生きたくば、神徳を積みて長生きをせよ」とは、この世で長命するというだけではなく、神徳とは「寿命長久」と教えられているように、肉体を越えて永遠に生きることとうかがえます。

神様がありがたいという思いが変わらぬ生き方

 四国のある先生が、信心の師匠から次のような教えを受けられたという話が、心に残っています。

 「ミカンはいくら大切に保存しても、十月ごろから出はじめて、翌年の三、四月までしか持たない。半年の寿命である。そのミカンの一個を一人の少年が食べて、ミカンは少年の体内に入って血の一滴となったとする。そうすると、半年の寿命しかないミカンが、その少年の生きる限り、七十年でも八十年でも生きることができる道理である。

 ミカンの皮は、中身が熟れるまで外から保護するために必要なのであって、人間が食べる時には、皮はむいて捨てるのである。人間は、この世に生きておる間に、死んだ後に神の血の一滴となれるよう、すなわち天地の親神に帰一できるよう、神徳を頂いておけば、天地とともに永遠に生きることができるのである。肉体はミカンの皮と同じで、親神の氏子として完成する(熟れる)まで必要なのであって、死んだ後、神となる準備ができたら、必ずしもいつまでも肉体をもって、生きねばならぬというものではない。

 こういうことになれば、生きてよく、死んでもまたよいのであって、ここにはじめて、この世に生まれてきた意義をも自覚し、日々生きることに生きがいを感じ、安心の生活ができるのである」

 教祖様が神様の願いにこたえられて、人を助けるご用に当たられて、百五十年。そのお年柄のごひれいを頂き、「氏子かわいい」との親神様のおぼしめしを頂き、世の動きがどう変わろうと、神様がありがたいという思いが変わらぬ生き方をいよいよはっきりとさせていただきたいとの願いを込めて、年頭のごあいさつといたします。(要旨)
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投稿日時:2009/02/03 15:35:49.158 GMT+9



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