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未知を待ち受け入れる構え

現代に見直される「座る」精神

本部広前会堂で日々お取次くださる教主金光様
 「不確実な時代」といわれる現代社会にあって、より確かなものを求めて、私たちは何かに追い立てられ、かえって不安に陥ってはいないだろうか。それはなぜか。そして、こうして不安を抱えている私たちが大切にすべきものとは何なのか。【金光新聞-フラッシュナウ】

 哲学者の鷲田清一氏は著書『「待つ」ということ』の中で、「すべてが前傾姿勢になっている」人間の在り方を指摘している。鷲田氏は、企業のさまざまな活動や業務に使われる言葉に、ある共通の接頭辞が付いていることに気がつき、驚愕(きょうがく)したという。

 その言葉とは、プロジェクト(企画)、プロフィット(利益)、プロダクション(生産)、プログラム(計画)などであり、それらの接頭辞「プロ」は、「前に」「先に」という意味を表す。

 その言葉たちが示すように、すべてが前のめりになっている現代社会にあって、「未来と見えるものは現在という場所で想像された未来でしかない。未来は決して何が起こるか分からない絶対の外部なのではない」という鷲田氏による現代人のとらえ方は、未来すらも他者と見なさない私たちのごう慢さを浮き彫りにしている。未知としての未来のはずが、いつの間にか既知としての未来、想定内の未来にすり替えられてしまっているのだ。

 この、未来さえも想定内に囲い込もうとする究極の姿が、金融工学を駆使した投資に代表される金融資本主義ではないだろうか。投資という名目で、未来を先取りしてお金を動かし、利益だけを追求していく。その前傾姿勢がグローバル化という宣伝文句で世界を巻き込み、ブレーキがかからなくなって、ついにはつんのめって転んでしまった。それが昨年末からの、百年に一度といわれる経済金融危機なのだと思う。

何かを待つ構えが整えられた時

 その約百年前、金光大神が生きた時代も激動期であった。先が見えない状況の中で、誰もが来るであろう世の中を先取りしようとし、かえって不安になっていた。そうした中で、いまから150年前に座り始めた金光大神は、座ることで前のめりにならずにいた。

 誰の言葉か忘れたが、「他者は不意に訪れる」ものなのかもしれない。金光大神の広前にもいろいろな訪れがあった。難儀を抱えた人はもちろん、喜びを供えにくる人、中には「生き霊死霊の恨み訪ね」もあったようで、こうした不意の訪れを金光大神は座って待っていた。それと同時に、神様の訪れ、現れを待っていた。このような不意の訪れを待つ構え、受け入れる構えが、「座る」ということだったのだ。

 信心をしていると言っても、知らず知らずのうちに前のめりにならされている私たち。何かを追い掛けて焦り、逆に何かに追い掛けられて不安になる。そんな現代だからこそ、金光大神広前にご縁を頂く私たちは、その広前に参る時には、「座る」ことを大切にしたい。

 ただただじっと座るのである。前のめりでなく、追い求めるのでもない、何かを待つ構えが整えられた時、他者が不意に訪れ、それを私たちは迎え入れることになる。

 そして、それは私たちが他者としての神様に迎え入れてもらう時でもある。岩﨑道與(静岡教会長)

*本文に出てくる他者とは、人物に限定せず、コミュニケーションが成り立たない相手、自分と違う物差しを持ったものすべてを意味する。
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投稿日時:2009/09/19 11:30:00.317 GMT+9



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