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「結界取次の充実と助かりの実現」を願って

「結界取次の充実と助かりの実現」を願って

 現当局発足以来、活動方針の柱に「結界取次の充実と助かりの実現」を掲げて取り組みを進め、書籍『取次に生きる』の編集・刊行と、その内容を手がかりに、「今日の自分を問う」を課題とした教会長信行会を開催した。
 教会長信行会では、いろいろな問題を抱えながらも、日々の教会ご用に真剣に取り組んでおられる先生方の姿に触れることができた。その一方で、自身の信心やご用姿勢について、「決して、このままでよいとは思っていない」としながらも、「ここからどうしてよいか分からない」「なかなか一歩前に出られない」などの悩みも示されていた。
 そのなかで思い起こされたのは、「縦軸は神様と人、横軸は人と人とがつながっています」という現教主金光様のお言葉である。人と人とがつながっている人間関係は横軸であり、そこにはさまざまな問題や困難が生まれてくる。けれども、神様と自分という縦軸のパイプを太くし、その中身をもって横軸である相手とのかかわりを求めていけば、そこから新たなおかげの世界が開かれてくる。そのようなみ教えとして頂くのである。
 そこで、『取次に生きる』に目を向けてみると、そこには、この縦軸の大切さを示す事例が多く見られる。例えば、ある教師は、「先生は欲がないですね」との問いかけに、「私は天地の無尽蔵に手を突っ込んでおるから、人間に向かって欲しがらんだけのこと」と答えられていた。
 また、ある教会では、教会建設のための材木を買い求めた段階で初代教会長が亡くなられ、その十日祭の日に、二代教会長と立たれた初代夫人に届けられたのは、教会建設委員全員総辞職の連判状であった。その時、初代夫人は、「広い野原にただ一人、力になってくれる人は一人もいない。… しっかり修行せよ、だれもおらぬと思って、神をつえにしていけ、という神様の深いおぼしめしを悟らせていただき」と語っておられる。
 先人たちは、このように、自分と神様との太い縦軸のパイプを土台に、迫りくる事柄や、結界に持ち込まれる問題に取り組んでいかれた。その場合、もし取次者と神様との縦軸が弱く、そのままに横軸に対応していけば、世間の価値観に流され、人智をもって物事を計り、人を当てにしたあり方になりかねないということでもあろう。

 ある教会に、耳の病気で参拝した婦人が、「左耳に太鼓が鳴るような音がして、やかましくてたまりません」と、親先生に訴えた。「それはさぞ、にぎやかであろうなあ」との先生の返答に、婦人は「やかましくてたまりません」と、重ねて訴えた。しかし、先生は、「さぞ、にぎやかであろうなあ」と、同じ受け答えであった。婦人が気色ばんで、「先生は何ともないから、そんなことをおっしゃるけど、私はやかましくてたまりません」と言うと、先生は厳しい顔をされ、「○○さん、昨年、無い命を神様のおかげで助かったのであろう。あの時死んでおれば、今のような音は聞こえなかった。生かされておればこそ、子どもや孫の顔も見られる。どちらがよいか」と、諄々(じゅんじゅん)と諭された。しばらくすると、婦人が右耳にタオルを当てて、涙を流している。そうして、「先生、やはり子どもや孫の顔が見られるほうがいいです。そのお礼を申し上げていると、悪いほうの耳が聞こえはじめました。聞こえるほうの耳をタオルでふさいでも、先生のご理解が聞こえています」と答えられたという。
 ここでは、目の前の問題に翻弄される婦人の心を、おかげの自覚へと立ち返らせ、自分と神様との間柄を再確認させていくという、縦軸中心の取次がなされている。
 教祖様は、荻原須喜さんに、「今まで長う痛うてつらかったことと、今おかげを受けてありがたいことと、その二つを忘れなよう」と諭された。おかげの自覚を深め、自分の立ち返る場所を忘れないようにとのみ教えであるが、教祖様は、常に神様と共に自らの信心を整理され、過去のおかげの事実の意味把握を深めていかれたのである。
 そのような作業に、われわれも日々取り組ませていただき、それによって自分と神様との縦軸が強化されていけば、この婦人に対する先師の取次に迫るものが生まれてくるのではなかろうか。
 これからの教務の手立てとして、「ここからどうしてよいか分からない」「なかなか一歩前に出られない」という先生方と共に、一歩が無理なら半歩でも前に出させていただきたいとの願いを持って、本部や各教区が連携しながら教師研究会などを開催し、結界取次の充実に取り組んでまいりたい。
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投稿日時:2010/01/28 16:15:04.604 GMT+9



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