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難儀は自分の内にある【金光新聞】

生きて帰すことはできないかもしれない

 昭和37年5月、雅彦さん(当時40)は肺結核で国立療養所に入院しました。医師から「生きて帰すことはできないかもしれない」と言われるほど、症状は重いものでした。
 雅彦さんは一般家庭で生まれ育ち、6歳の時に両親を病気で亡くしました。それからは金光教の信者であった母方のおばの元で育てられ、その後、縁あって教会の子女だった昌子さんと結婚しました。
 やがて、それまで勤めていた石炭採掘会社を退職すると、それを機に、妻の父の勧めで金光教の教師となり、教師不在の教会でご用に当たることになりました。その矢先の入院だったのです。雅彦さんの心には、「教師にまでなったのに、どうして」という思いが渦巻いていました。

 一方、昌子さんは4人の子育てに追われながら、夫の留守を守っていました。しかも、長らく教師が不在だった教会のため、参拝する人はほとんどなく、お下がりもわずかでした。そのため、育ち盛りの子どもたちに満足な食事を与えることもできません。そんな厳しい状況の中で、昌子さんは、わずかなお下がりをやりくりし、お金が貯まると40キロほどの道のりをバスに乗って見舞いに行くという生活を続けました。
 しかし、雅彦さんはそんな昌子さんの苦労をよそに、「家族のみんなは、ぬくぬくと暮らせて幸せなものだ。どうして自分だけ…」と、わが身の不幸を嘆き、不満は募っていくばかりでした。
 そんな状態が4年ほど続いたころ、雅彦さんは、妻の父親からよく聞かされた、「人やお金を頼りにしてはならん。難儀のもとは自分の内にあると心得て、まず自分が変わることだ。常に心を神様に向け、共に立ち行くのが、このお道の助かりである」という言葉を、しきりに思い出すようになりました。
 「私は妻のことを責めてばかりいるが、子どもたちも大きくなり、PTAの活動もあると言っていたな。教会の経済も苦しいはずだ」。次第に雅彦さんの中に家族のことを考え、思いやる心が強くなっていったのです。

神様とともに立ち行く

 ある日、見舞いに来た昌子さんが、「長い間、来られずにごめんなさい」と言うと、雅彦さんの口から「私だけがつらいんじゃない。お前も大変な中で頑張ってくれているんだよな」と、昌子さんを気遣う言葉が出たのです。
 昌子さんは、「できることなら、毎日でも見舞いに来たかった。でもお金もなく、苦労して来たら文句ばかり言われて、つらかった」と、胸の内を明かしました。
 この時から、二人は祈り合える関係になっていきました。昌子さんは見舞いの都度、教会に参ってきた人のお届け内容を話し、雅彦さんはそのお届けへのご理解を昌子さんに託しました。それを昌子さんは教会で信者さんに伝えたのです。

 そうしたやりとりは、雅彦さんが48歳で亡くなるまで続きました。雅彦さんは、「人やお金、物を目当てにするのではなく、神様とともに立ち行く」という生き方を病院内でも語り続け、同じ病棟の患者さんはもとより、主治医も回診の順番を最後に回して、雅彦さんに抱えている悩みを打ち明けるようになっていきました。
 「自分の悩みを受け止めてくれ、正しい道を教えてくれる神様のような人でした」。雅彦さんのご用は、病の身でありながら、病院を祈りの場、取次の場として人を助けるものでした。
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投稿日時:2010/03/31 10:21:53.567 GMT+9



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