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「あいよかけよの生活運動」の推進を願って

―「氏子あっての神、神あっての氏子」に思いを寄せて―

 平成13年に発足した「あいよかけよの生活運動」は、この6月をもっていよいよ10年目に入る。この運動は、発足当初から、教祖様が拝受された安政6年の立教神伝、元治元年の神伝、明治6年の神伝という3つのお知らせをくくるものとして重要視されてきた「氏子あっての神、神あっての氏子」という神様のお言葉と、それにかかわる先輩諸師の教義的研さんに基づいて進められてきた。
 すなわち、人間は、天地金乃神様のお恵み、お働きの中に生かされて生きている。そのお働きを受けて、真実の生き方を進め、神の願いを現すことができ、また、神様も、人の働きによってこそ、そのお働きを十全に果たすことができる。「あいよかけよ」は、そのような「氏子あっての神、神あっての氏子」という関係の具体的、動態的なあり方を指しており、そのような神と人との本来的関係の回復を実現するため、大いなる天地のいのちのなかで生きる人間としての生き方と、果たすべき使命を明らかにすること。そのことを大切な願いとして確認しながら、この運動は進められてきた。
 ある先輩教師は、不登校の子どもを抱えて苦悩する母親に対して、四代金光様の「ちちははも子どもとともに生まれたりそだたねばならぬ子もちちははも」というお歌を引用して、次のように語られたという。
 「このお歌は当たり前のことをおっしゃっていますが、大変な内容です。親がいたから子どもが生まれたと思いがちですが、子どもが生まれなければ親になりません。子どもが生まれた瞬間に、親になれる、親子同時誕生です。『親あっての子ども』ということと、『子どもあっての親』ということを同時に言うことはできません。同時に言うことができないから、表そうとすると順序がついてしまいます。順序がつくとなった時、教祖様は、『子どもあっての親、親あっての子ども』とか、『子どものことは親が願い、親のことは子どもが願う』というように、子どものことを先に言っておられます。このお心をしっかりと頂きたいものです。これから先の世の中は、親子とも経験していません。経験していない世の中を共に歩むのですから、偉そうな親風を吹かせないよう、子どもと共に育つことを願いましょう」
 この母親は後日、「こんなにも親を困らせてと思っていましたが、あの子こそ苦しんでいるんだということがやっと分かってきて、不憫でたまらなくなり、不憫に思っていると、この子が生まれて親になれたことが、次第にありがたく思えるようになりました」と言われ、以来、先生と共に、「子ども(あなた)あっての親(私)」という生き方を求められ、そこから新たな親と子のかかわりが生まれ、親子で立ち行く世界へと導かれていったという。
 ここでは、四代金光様の深い信仰的洞察への驚きのもと、「子どもあっての親、親あっての子ども」と、あえて子どものことを先に示された教祖様のみ心に思いを寄せながら、どこまでも「子ども(あなた)あっての親(私)」に貫かれた生き方となりたいとすることの大切さを語られ、それを得心させられた母親が、子どもを責めるのではなく、まず親としての自分の行き方をただしながら、新たな親子関係へと導かれているのである。その生き方は、「氏子あっての神、神あっての氏子」という関係の順序に示された神様のみ心に着目した具体的、動態的な信仰実践にほかならず、積極的な運動の取り組みの一例といえよう。
 ところで、順序ということで見ると、教祖様のご理解では、たとえば「神があっての氏子、氏子あっての神じゃによって、病気災難をはじめ何事でも、非常と平生とにかかわらず神に願いをかけよ」ということを先に表されている。
 人間が、天地金乃神様のお恵み、お働きのなかに生かされて生きていることは、記述のとおりである。この点、教祖様は、「人間は、おかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである」とも教えられているが、そのような教祖様のご信心からすれば、参拝者に対して示されるべきは、まずもって「神があっての氏子」ということであり、それが教祖様のご信心の基本姿勢であったと思われる。
 それにもかかわらず、先の三つのお知らせでは、「氏子あっての神」ということが先に表されている。このことは、その表された順序に、氏子に対する神様の深いみ心がこめられているのではないかと思われる。
 そこで思い起こされるのは、先ほどの四代金光様の信仰的洞察である。それは当然のことながら、神様にご自身によって指し示されたお言葉から導かれたものでああろう。考えてみると、すべての人間を「神の氏子」と仰せられる神様は、この世に人間が誕生することで、はじめてその人間の親神様となられるのである。また、そのようにして親神とならあれる天地金乃神様でおありになるからこそ、人間の自覚を超えて、一人ひとりの人間の親神として、「人間がおかげを受けないで苦しんでいるようでは、神の役目が立たない。人間が立ち行かなければ、神も金光大神も立ち行かない」とまで仰せられ、それぞれの生活に添った慈しみの働きを現されてきたのではないか。
 つまり、「氏子あっての神」という神様のお言葉には、そのような氏子と親神との同時誕生という本来の間柄が秘められており、その間柄への神様ご自身の自覚に立って、どこまでも氏子の立ち行きを願い続けてこられた天地金乃神様の親心があり、その親心から、「氏子あっての神」が先に表されることになったのではないか。四代金光様の信仰的洞察は、そのような親神様の深いみ心に根ざしてのことであり、そこにこの道の道たるところがあると思われる。
 先ほどの先輩教師は、「氏子あっての神、神あっての氏子」という神様のお言葉を、「あなたあっての私、私あってのあなた」と頂き直し、それを親子関係のみならず、夫婦や、教師と生徒、社長と社員の関係など、さまざまな人間関係へも敷衍して、どのような場にあっても、相手に求めるのではなく、まずは私が、「あなたあっての私」という自覚から努力を始め、やがて「私あってのあなた」と認めてもらえるような値打ちが、その場に生み出されていくことが大切なのではないか、とも指摘している。このような「あなたあっての私」という生き方は、まさに天地金乃神様のみ心に基づけられた「あいよかけよ」の信心実践として理解される。とはいえ、その生き方が貫かれていくためには、やはり繰り返す信心のけいこが欠かせないということも、忘れてはならないであろう。
 十年をめどに進められてきた運動であるが、共々にそれぞれの信心生活のなかに天地金乃神様のみ心を頂き直し、ここからのさらなる運動の深化と展開に取り組んでまいりたい。
 
 

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投稿日時:2010/06/02 10:29:27.650 GMT+9



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