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教会長教師集会に願われるもの

金光教報 『天地』 2月号巻頭言

 2月下旬から7月上旬にかけて、新運動の理解と結界取次の充実を願いとして、教会長教師集会が各教区で開催される。
 1月1日に発足した「神人あいよかけよの生活運動」の願いは、1行目に「御取次を願い 頂き」と示されている。御取次を願って、その内容を承服し、納得して、教えを実践するということであるが、そこから2行目の「神のおかげにめざめ」ということがあり、3行目の「お礼と喜びの生活」が生まれる、というような方向で一人ひとりの信心が展開していくことが願われている。そのことからすれば、運動の始まりや推進には、結界取次の充実が大切なかぎとなるであろう。
 お道の繁盛は、教団の内実とある教会の活性化なくしてはありえず、教会の活性化は、各教会の生神金光大神取次の充実にかかっている。その生神金光大神取次に、結界取次と各種の活動が包摂され、その責任者が教会長であるが、『これからの教会─結界取次の充実を求めて』(赤本)で確認されているように、教祖様は、立教神伝を拝受されてからご帰幽になるまでの24年間、常時広前にあって、取次のことに専念された。それは、「此方(金光大神)がここ(ご神前)を離れれば、世の人々がけが過ちをするかも知れない。どうか、世の氏子に、けが過ちのないように、本当のおかげが受けられるようにと願っていると、此方はここを動く暇がない」とのご理解にあるように、世の人々の願いを一身に引き受けてのご用であらせられた。そのような生神金光大神取次の業を歴代金光様が受け継ぎ現してくださり、現教主金光様が今日に具現されている。そのことに思いを寄せる時、教会長教師が、教祖様に神習い、神様と人との間を取り結ぶお結界に座りぬくことは、大切なお道の中心の営みと信念させられるのである。

 各地の教会は、基本的に一人の布教者の結界取次から始まっている。結界取次によって助かる信徒群が生まれ、やがて施設や組織が出来て、一つの教会になっていく。年月がたち、教会長が亡くなり代替わりがあると、一時的に結界取次の力が弱くなると考えられるが、信徒群や施設、組織や各種の活動がそれを支えていくなかで再び結界取次が充実し、教会全体の働きが再生していく。しかし、結界取次が充実していかなければ、教会全体の弱体化は避けられないことになろう。
 ある教会の初代が、なかなか道が開けない苦労のなかで夢を見た。それは、秤(はかり)の両側に下がった皿の上に、片方には古綿が山のように載せられており、もう一方には小さな鯛が1匹載せられていたが、よく見ると、ほんのわずか鯛のほうが下がっていた。そこで、この夢のことを師匠にお取次頂くと、「古綿は家のめぐり、身のめぐりじゃ。まだ大層あろうが、鯛は信心辛抱の徳じゃ。ほんのわずかだが、めぐりの綿よりは少しは重い。もうひと辛抱じゃ」と励まされ、その後、多くの人が助かることになったという。
 また、書籍『取次に生きる』には、ある先生が、二代教会長としてのご用に行き詰まった時、「お道の教師にお取り立て頂いて、人を助ける身になるということは、並大抵のことではありません。…今のあなたのこの苦労こそが、神様からその資格を頂くための修行です」という母の言葉に、迷いを払拭しておかげを頂いた、という話が掲載されている。
 「神は守りが徳を頂くまで待つ」とは教祖様のみ教えであるが、結界取次のご用に立つとはどういうことかを示唆する事例として頂くことができよう。 

 結界取次のご用に立つうえで大切なことは、取次者自身と神様との縦軸(神様との関係、つながり)をいかに構築し、強化するかということであろう。あるいは、そこに生き生きとした神様のごひれいが現れているかどうかということであり、そのこととの関わりで、求道心、修行、自己管理のことなどが問題になってくる。取次者において、神様との縦軸の構築や、信心実践の具体化が求められていかなければ、神様の存在が観念的となり、取次の内容も具体性に欠け、人に対して神様の存在や信心を伝えていく力が弱くなり、「神のおかげにめざめ」、「お礼と喜びの生活」が生まれるという信心の展開にも影響していくことになるのではなかろうか。
 結界取次が充実して、神様のごひれいが現れてくるうえで、何が大切なのか。そのために、直信や先覚、先師は何を求め、何を大切にされてきたのかを共に問い求め、頂き直しながら、運動や各種の活動を推進・展開する力を涵養し、教会活動が活発になり、教団全体が活性化していくという願いを持って、教会長教師集会を開催させていただきたい。

メディア 文字 金光教報『天地』 

投稿日時:2012/02/07 16:42:02.798 GMT+9



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