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天地金乃神大祭を迎えて

金光教報 『天地』 4月号巻頭言

 冬の寒さもいつの間にか去って、天地はすっかり春である。柔らかく降り注ぐ日差しにも、ほおをなでる風の動きにも、春の気配がいっぱいである。今年も、天地金乃神大祭が、教主金光様ご祭主のもと、4月1日、4日、8日、10日の4回にわたって、本部広前祭場で執り行われ、そのごひれいを頂いて、各地のお広前でも同様に仕えられる。
 「この大地もその他の物も、みな神の物であるのに、わが物である、わが金ですると思い、神にお願いしないでするから、叱られるのは無理もない」との教祖様の仰せである。疑うことのできない事実であるが、しかし、この事実に人間がどれほど目覚めているであろうか。
 「天地の間に氏子おっておかげを知らず」との神様のお言葉にあるように、人間は天地の間にあって、あらゆるものを生かし、育みくだされてある天地金乃神様のおかげを知らずに、難儀をしている。神様はそのことに心を痛められて、生神金光大神様を人の世に差し向けられたのである。生神金光大神差し向けの意義は、神のおかげを知ること、「人間は神の氏子」であることを悟ることにあるといってよい。そして、その生神金光大神取次をもって、「神も助かり氏子も立ち行く」世界の顕現を願い続けておられるのである。

 ある先師が、借金の保証に立って負債ができ、ついに田地を売って整理しなければならなくなった人に、次のようなご理解をされた。
 「神は田地売買の世話人ではない。その田地は、どうした田地ですか」
 「先祖の遺産です」
 「その遺産を売り払ってよいと思いますか」
 「それはすまんとは思っております」
 「税金は納めていますか」
 「それは完納しています」
 「自分の田地に、何で税金を納めるのですか」
 「……」
 「土地は、もともと日本の土地である。その土地をお互いが所有しうるのは、納税の義務を果たしているからであって、税金を納めるのは、いわば借り賃である。さらに信仰的に申せば、天地は元からの天地であって、人が作った天地ではない。この天地があって、人は生まれたのである。『大地の内において金乃神の大徳に漏るる所はなきことぞ』と教えられてあるごとく、わずかの土地も天地金乃神様のご地面であり、しかも生きたお土地である。
 人間が泥と水で何が作れるか。物が出来るのは、人が作るのではない。あなたは農家だから農家の仕事はせねばならぬが、作物は神様がお作りなさるのである。人間はそのお手伝いである。それに神様には少しの礼も言わぬ。自分の田畑、自分の山、自分が作った、自分が獲ると思っている。自分の山に、自分の木や竹があると思っている。神様の御物として、ありがたく頂戴しているかというと、そうではない。国には税金を納めるのであるから、神様にはお礼を申し上げなければならぬ。
 幾先祖の昔から、わが田地、わが山、自分の小作米というて、旦那様になって、裕福に暮らしてきておりながら、神様のご恩が分からずにいるから、神様から売買を差し止められたのであろう。神様が正しい道を教え、正しい道を履(ふ)ませ、本筋に出して、末々安心のおかげが受けられるにしてやろう、とのおぼしめしである」

 私たちは、生神金光大神様の御取次によって天地金乃神様に出会うことができたのは、誠にありがたいことである。では、「神の氏子」として、ここからどのような歩みをさせていただけばよいのであろうか。それは、今年一月に発足した「神人(かみひと)あいよかけよの生活運動」に示されている。 御取次を願い、お取次の言葉を「神の理解」として頂く。
 天地の間に住む人間氏子の命と生活を、根底から支え続けてくださっている「神のおかげ」にめざめていく。「神のおかげ」にめざめれば、そこに自ずと「お礼と喜びの生活」が生まれてくる。しかし、その「お礼と喜びの生活」は、ともすると時間の経過とともに薄れてしまうことがある。そのためには、参拝をして信心の稽古が大切である。
 さらに、「わが心に生きたる神様がござる」とみ教えくだされてある「わが心の神」にめざめ、「神信心しておかげを受けて、難儀な人を助ける身にならせてもらうがよい。神心となって、受けたおかげを人に話して真の道を伝えるのが、神へのお礼である」とのみ教えを頂き、一人ひとりの生活に、神と人とあいよかけよで立ち行く「神人の道」を求め現してまいりたい。



メディア 文字 金光教報『天地』 

投稿日時:2012/03/31 10:55:35.314 GMT+9



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