title.jpg

HOME › お礼と喜びの生活をすすめる

お礼と喜びの生活をすすめる

金光教報 『天地』 5月号巻頭言

 「神人あいよかけよの生活運動」は、発足三年目を迎えた。ここまで「運動」の理解と共有化を図ってきたが、そうした取り組みをとおして、「『運動』に取り組むとは、具体的に何をどうすることか分かりにくい」という多くの声が聞こえてきた。
 発足当初から、「願い」の全体がこの道の信心の筋道を表現したものであり、それは多くの直信・先覚・先師の信心にも確認でき、どの文言から求めても、「運動」の実践につながるとしてきた。そのうえでの、「説明としては理解できるが、どうすることが具体的な実践なのか示してほしい」との意見でもあろう。
 そうした声をお受けしながら、今年度から信奉者一人ひとりのさらなる信心の展開を願い、三行目にある「お礼と喜びの生活をすすめ」に焦点を当てて、「運動」の推進に取り組んできている。「お礼と喜びの生活をすすめ」ることは、この「運動」に取り組むうえでの大切なキーワードであり、この道の信心の根幹をなすものであるといえる。さらには、ここまで「運動」にどのように取り組んできたか、紹介されている内容を概観すると、こうした視点で取り組まれた事例が多く、具体として実践に結びつきやすいといえる。


 教祖様は、その前半生でさまざまな苦難に出遭われるなかにも、常に神様に心を寄せ、実意丁寧な生き方を貫かれ、天地の親神様と出会われることになった。そして、「神の氏子」としての自覚に立たれ、どのような問題のなかにも喜びを見いだし、お礼を申すというあり方となられ、信心が進展していかれるなかで、いっそう際やかになっていかれた。人間的に見れば苦難との出遭いであっても、絶えず神様のおかげに目覚め続けられ、お礼と喜びを見いだすありようを生活のなかで進められ、現していかれた。
 教祖様が神様のおかげと頂かれる世界は広く深く、「天地の間におかげは満ちわたりてある」とのみ教えのとおり、同じように天地の間に生活をしていながら私たちが気づかず見過ごしてしまいそうな事柄にも、「ありがたさ」を実感しておられる。
 「山にも種々の物ができ、川にもいろいろの魚がおる。海にも種々の魚がおる。これを漁師が取りて商人が売買し、何人にても、好きな物を買い求めて食い、体を丈夫にして国のために働くように天地の神様がお守りくだされてある。何でも世の中の実物に当たって考えれば、しだいにありがたいことがわかる」
 誰もが見聞きする事実、当たり前と思い、見過ごしてしまうことのなかに、神様のみ働きを感じ、お礼を申される。このような教祖様のあられようを、神様はいかにお喜びになられたかと思わずにはおれない。
 そうした教祖様に教え導かれた直信たち、また先覚先師たちも、起こりくる苦難のなかに、神様に心を向け続け、お礼を申し、喜びを見つける生き方となるような稽古を求め続け、現し続けられた。そうした信心の輪、喜びの輪が広がっていき、今日の各地のお広前がある。


 それでも起きてくる問題にとらわれてしまうと、お礼や喜びを見いだせなくなりがちである。そのような私どもに、四代金光様は次のように示してくださっている。
 「衣・食・住、生活の全面にわたって、すべてに対して礼を言う心持ちをもって接していきたいものでございます。これがなければ困る、これがあるから助かるのだと、礼を言う心持ちで接する。天地の恵み、あらゆる恩恵のなかにあっての生活でありますから、礼を言う心持ちをもって接していく、その稽古を繰り返し繰り返しさせてもらいつづけていかねばならぬと、しみじみ思うのでございます」
 不平不満が多くなると、生活が乱れ、暗くなっていく。お礼を言う心持ちが多くなればなるほど、生活が明るく豊かになっていく。「当たり前」と思って物事を見聞きすることと、「これがなければ困る、これがあるから助かる」との思いから見えてくる世界には、大きな違いがある。そして、「これがあるから助かる」との思いから喜びが生まれ、おかげへとつながっていくのであり、そうした稽古を積み重ねていくことの大切さを示してくださっている、と頂く。


 来る6月8日には、教団独立記念祭に併せて「神人あいよかけよの生活運動」全教集会を開催させていただく。集会を通して、「お礼と喜びの生活をすすめ」る中身を求め合い、ここからいっそう一人ひとりの生活に「神人の道」が現されていくおかげをこうむってまいりたい。

メディア 文字 金光教報『天地』 

投稿日時:2014/05/01 14:30:37.820 GMT+9



このページの先頭へ