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検診結果に揺れた信心【金光新聞】

検診結果に不安と戸惑い

 昨年8月、前月に受けた集団検診の結果が私(54)宛に届きました。私はそれを教会の神前にお供えしてから封を開けて見ると、胃がんの精密検査が必要という文字が目に飛び込んできました。これまで異常がなかっただけに、「どうして?」という思いと、これは困ったという気持ちが心の中で交錯し、動揺を抑えることができませんでした。
 「もし、入院手術となったらどうしよう」。私は検診の結果と、不安な気持ちを妻に伝えました。すると妻は、「よかったですね、悪い所が早く見つかって」と言ったのです。その言葉に私は、はっとさせられました。 
 世間では、検査に引っ掛かることを悪いことのように言いがちです。でも、それは引っ掛かったのではなく、見つけて頂いたのであって、まずはそのことにお礼を申すべきでしょう。なのに、私自身も不安や不足にばかりとらわれていたことに、妻の一言から気付かせられたのでした。

 しかし、時間がたつにつれてまた、不安が波のように押し寄せてきて、気がめいりました。
 そんな中、父が生前よく「ありのままに、どんなことでも神様に願いなさい」と言っていたことを思い出しました。
 また、私が結婚して最初の子どもを授かった当初に、四代金光様(金光鑑太郎〈かがみたろう〉様)から頂いたみ教えが思い起こされました。
 当時、私は金光教本部でご用を頂いていました。ある日、夜中に子どもが熱を出したので、翌日、本部広前に参拝し、金光様に「このたびはお神酒とご神米(*)でおかげを頂きたいと思います」とお届けすると、金光様は「信心といっても道理に合う信心をしなければなりません。病院もお薬も神様のお働きです。自分たちで勝手に判断せず、お医者さんに診てもらいなさい」とみ教えくださったのです。
 私には、できるだけお神酒とご神米でおかげを頂きたいという思いがありました。それは一つの信念でもありますが、私の場合はどこか偏った自分勝手なところもあって、神様のご領分と人間の果たすべき領分をはき違えてはいけないと、あらためて考えさせられました。

ご用にお使い頂けるように

 そうしたことを思い返しながら、私は“死んでもままよ”の気持ちで、全て神様にお任せして検査を受けようと心が決まりました。
 そんな折、教内の刊行物を読んでいると、進行性のがんを宣告されたある教会の先生の話が目に留まりました。
 手術に臨むに当たって、その先生が近親者に、「死んでもままよ、一切を神様にお任せしているから何も心配していない」と伝えたところ、その近親者から「死んだら周りの人らが迷う」と言われ、はっとして思い直し、「ここから一層、人を助けるご用にお使いください」と祈りを変えられた、という内容でした。
 この話を読んで、私もさらに半歩でも信心を進め、何としてでもご用にお使い頂きたいと思わせられたのです。

 さて、精密検査の結果ですが、悪性の腫瘍はありませんでした。ただ、胃の中に少し炎症があり、薬で治療することになりました。
 このたびのことは、検診結果をめぐって信心の在り方が神様から試された経験として、私はありがたく思わせてもらっています。


*ご神米=神徳が込められたものとして授けられる洗い米。

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています。
メディア 信心真話 金光新聞 

投稿日時:2015/05/02 09:00:00.000 GMT+9



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