title.jpg

HOME › 人の喜びを生きる力に【金光新聞】

人の喜びを生きる力に【金光新聞】

故郷へのご恩返しとして始めたボランティア

 昭和55年、私は父の生まれ故郷に布教しました。
 父は、中学を卒業すると故郷を離れ、人生の大半を他県で送りました。私がこの地に布教して15年がたった平成4年、母が亡くなったのを機に、父は私たち家族と暮らすことになりました。
 80歳を前にして故郷に戻ることを決意した父は、それまでできていなかった故郷へのご恩返しとして、地域のお役に立つことを神様のご用としてさせて頂きたいとの願いを持っていました。そこで、近所にある神社の境内掃除と、小学校に通う子どもたちの安全登校の見守りをボランティアとして始めたのです。
 この見守り活動は、父が立つ前までは、月曜日にしか行われていませんでした。通学路には車の通行量の多い道路を渡らなければならない所もあり、父は毎朝そこに立って、登校の見守りをさせてもらおうと考えたのです。

 そうして、父がこの活動に取り組んで2年目のある日、父は体調を崩し倒れました。幸いなことに大事には至らず、1週間ほどで退院できましたが、この時を境に足腰が弱り、認知症の症状も少しずつ出始めました。
 それでも父は、「交通安全の見守りは、私の生きがいだから」と、退院後もつえを突きながら立ち続けました。
 しかし、父のそんな姿は、周り人からはとても危なっかしく見えたのでしょう。「お父さんの見守り活動を遠慮してほしい」と言われたのです。
 私は、父の意思を尊重したいと思い、父と一緒に私も立つことを条件に、続けさせてもらえることになりました。

父の生きざまから教わったこと

 その後、父の足腰は日を追って弱っていき、奉仕活動以外は、部屋で横になっている時間が長くなっていきました。
 また、認知症もだんだんと進み、時間の感覚がなくなり、やがて私たちの介護が不可欠となりました。
 そんな状態にもかかわらず、父は見守りの時間になると、すっくと立ち上がり、自分で身支度をして、つえを突きながらもしっかりとした足取りで、いつもの場所で見守り活動を続けたのです。雨天でも、自分で雨がっぱを着て立ちました。
 そんな父の姿を通して、私は人が生きる上で大切なことを教えてもらいました。たとえ、足腰が弱り認知症でも、地域や人のお役に立とうという意思が父に生きる力を与えていたのです。
 平成8年11月に、父は亡くなりましたが、その3日前までこの見守り活動を続けました。
 最後の見守りとなった日には、歩くこともままならない中で、教会の玄関前に出て椅子に座って旗を持ち、子どもたちを見守りました。そしてその3日後、子や孫に見守られながら、静かに息を引き取りました。

 後日、お世話になった老人クラブの会長さんが、「お父さんは、地域のためになることを一生懸命された。良い生き方をされたので、良い亡くなり方をされたのですね」と言ってくださいました。
 父は、形のある財産は何も残しませんでした。しかし、人の喜びやお役に立つ生き方をすることで、自らの命が輝き、生きがいや喜びが生まれることを、身をもって教えてくれたように思います。
 そうした父の生きざまは、父と接した人の心の中で生き続け、また、みたまの神となって、今もなお、私たちを見守り続けてくれています。

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています

(「心に届く信心真話」金光新聞2015年5月24日掲載)
メディア 信心真話 金光新聞 

投稿日時:2016/10/25 15:06:40.044 GMT+9



このページの先頭へ