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信心という母の“財産”【金光新聞】

満州の地で父が急死

 私は昭和3年に5人きょうだいの末っ子として生まれました。両親が金光教にご縁を頂き、熱心に信心をしていました。
 当時、両親は自営の商売がうまくいかず、困窮していたのですが、お参りしていた教会でご用に使って頂くことを何よりも優先していました。周りからは「そこまでしなくても」という声がありましたが、母は「信者の本分として、せめてもの思いでさせてもらっている」と、真を尽くしたのでした。
 その後、私が小学生になって間もなく家族で満州(中国東北部)に移り住みました。両親は炭などの燃料を扱う商売を手広くしながら、満州の教会でさらに熱心に信心を進めました。両親は、私を日本人学校ではなく、現地の子どもが学ぶ小学校に通わせました。この地に根を下ろすつもりだったのだと思います。

 そのような中、私が10歳の時に父が急死したのです。母は満州の地で5人の子どもと共に、日本が戦争に向かう混乱期を、お道の信心だけを頼りに神様におすがりして生き抜きました。そうして戦況が悪化していた昭和19年の秋、私は学校を中退し、海軍の飛行予科練習生への志願を決心しました。
 翌日に満州から日本へ出発するという夜、これで家族とも今生の別れとなるかもしれないと、複雑な思いを抱えた私に、母が同じ部屋に布団を並べて寝ようと声を掛けてくれました。
 布団に入ってしばらくすると、母が「こんな時代状況で、あなたも私も明日がどうなるか分かりません。もう二度と会えないかもしれない…。しかし、信心させて頂いたおかげで、今日まで来させて頂いたことは、あなたも知っての通りです」と話し始めたのです。そこには今までに見せたことがない真剣な顔つきの母がいました。

母が残した財産の重み

 続けて、「私は何も残してやれないけれど、信心という財産だけは残してあげられます。しかし、この財産は、あなたが受けると言ってくれなければ、渡すことができないのです。信心という財産、受けてくれますか」と、母はこれまでの人生の全てを懸けて私に迫るのです。そんな母からは殺気にも似たものを感じました。
 しかし、私は当時、まだ信心というものをよく分かっていませんでした。その時は、母を悲しませたくないという思いだけで、「はい、受けさせて頂きます」と、返事しました。すると、「そう、受けてくれますか。これでお父さんにも、親先生にも顔向けができる」と、母は心から安堵(あんど)していました。
 翌日、私は家族らに見送られて日本へ向かい予科練生となり、そして翌年8月、長崎県の五島列島で終戦を迎えました。母は、私が日本へたって間もなく、けがが原因で破傷風にかかり、急死したと知らされました。あの夜、母と交わした言葉が本当に最後となってしまったのです。

 その後、あの時の母の言葉を大切にしようと思い、分からないなりにも教会参拝に励みました。信心の大切さが身に染みて分かるようになればなるほど、母が残した財産の重みを感じました。後から聞くと、きょうだいの中で、母からこのような財産の授受があったのは私だけでした。
 今、心から幸せをかみしめながら日々を送られているのは、あの日の母の言葉のおかげだと思い、親孝行しているつもりで、信心を続けています。

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています

(「心に届く信心真話」金光新聞2016年9月25日号掲載)
メディア 信心真話 金光新聞 

投稿日時:2018/02/26 11:17:14.513 GMT+9



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