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車で人と神様のお役に【金光新聞】

人のお役に立つ車を

 広島県の教会で奉仕する私(40)は、7年前まで自動車を所有したことがなく、運転免許証も取得していませんでした。
 しかし、結婚して娘が生まれると日常生活のさまざまな場面で車の必要性を感じるようになりました。日増しに思いが募った私は、車が当たる懸賞に応募することにし、毎日教会の神前
に応募はがきを供えて当選を祈り、翌朝ポストに投函しました。30日間続けてみましたが、結局、当選しませんでした。
 それでも諦め切れず、欲しい気持ちは募るばかりです。そこで神様の思いにかなう願い方になるように考え直してみました。すると、人のお役に立つ車が欲しいと願っていくことが大切ではないかと思い至りました。それからはそのように願いを込めてご祈念しました。

 それから数日して、友人に車に乗せてもらう機会がありました。しばらく話をしていると彼が「この車もらってくれない?」と言ったのです。私は願い方を変えた途端に起こった出来事に驚き、教会に帰って神前で神様にお礼を申しました。その後、わが家でただ一人運転免許証を持つ妻の快諾を得て、車を譲ってもらうことにしました。
 いよいよ待望の納車日、交通安全祈願祭を仕え、ご神米(※)をフロントガラスに貼り付け「お役に立つ車になりますように」と神様にお願いしました。それからはどこに行くのも妻の運転で移動し、私は助手席に乗せてもらっていました。ところが時間がたつにつれて、車があるのに妻の世話になるばかりで、自分で運転できないことをもどかしく感じるようになりました。
 そんな3年が過ぎ、私は一念発起して自動車学校に入学しました。しかし、教習が始まると何もかも分からないことばかりで、運転感覚がつかめず失敗の連続です。教官もあきれ返るほど運転技能は上達せず、私は、自動車学校に行くのが嫌になってしまいました。

免許取得へ気持ちを新たに

 そんな時、大変車が好きだった信者さんが亡くなりました。その車好きぶりは、危篤になる直前まで毎日病院の駐車場へ愛車を見に行くほどで、その姿はまるで大切な人に会うかのようでした。そして車で誰かを送迎してはうれしそうにしていたことを思い出し、私は再び「人のお役に立つ車の運転をさせてもらう」という初心に帰ることができたのです。
 それからは自動車学校の車に手を合わせてから教習に臨むようにしました。すると教官も驚くほど上達し、見事一発で本試験に合格でき、免許取得後は家族や信者さんを乗せて出掛けても不安なく運転できるようになりました。

 そして、免許取得から2カ月がたった平成26年8月20日、広島土砂災害が発生したのです。被害は甚大で、全ての公共交通機関がストップし、道路があちこちで寸断されました。
 そんな中、私は愛車で被災した信徒総代さんの安否確認のため被災地に行くことができました。
ほんの2カ月前には考えられなかったことで、まるでこの日のために逆算して免許を取得したかのように思いました。 人のお役に立ちたいという私の願いを、神様は後押しくださったのでしょう。ここからも神様のお役に立つドライバーとして走り続けたいと願っています。
※ご神米=神徳が込められたものとして授けられる洗い米

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています

(「心に届く信心真話」2018年5月20日号掲載)
メディア 金光新聞 信心真話 

投稿日時:2019/07/05 13:30:27.386 GMT+9



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