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神様の財布として頂く【金光新聞】

なくした財布は誰のもの

 今から5年前、私(41)が奉仕する教会でご大祭を無事にお仕えすることができ、金光教本部と親教会へお礼参拝をさせて頂きました。
 参拝を終え、夕方、教会に戻った私は、関係教会のご大祭のお供えを郵送するため、閉店間際の郵便局へ駆け込み、何とか発送することができました。
 その翌日、出掛けようとしたところ、長年愛用してきた財布が見つかりません。仕方なく他の財布を代用して家を出ましたが、心は上の空で、私は無くした財布の心配ばかりをしていました。
 道中、前日行った郵便局にも問い合わせてみましたが、見当たらないとのことで、近くの交番に紛失届を出すことにしました。

 後日、お供えを郵送した教会から、ご大祭のお下がりとして冊子が届きました。何げなくその冊子を手に取ると、盗難に遭った信者さんが、とっさに「大難を小難にしてくださった」とお礼をしたという話が目に飛び込んできたのです。はっとした私は、神様にお礼を申した上で、「私の不注意で財布を無くしてしまい、相済みません」とおわびしました。
 すると次第に、「あの財布は、神様から頂いたお金を大切に使うために、神様から頂いた物だったのだ」と思えてきて、「どうぞ、これからは神様の財布として使わせてください」と願うようになりました。
 数日後、弟夫婦に次女が生まれたので、私は再び、金光教本部と親教会に出産のお礼参りをさせて頂きました。
 ご本部から親教会に向かう途中、乗り換えのバスが1時間も来ないことが分かり、私は山道を歩くことにしました。その道中も無くした財布のことが頭をよぎります。「無くしてしまって惜しい」「ご用中にこんな不手際を起こしてしまった」と、いろんな感情が湧き起こりましたが、神様にすがるような思いで、ご祈念をしながら山道を登っていきました。
 ふと立ち止まり、ご本部のある方向を振り返ってみると、そこには歩いてきた道のりが見えます。その光景を眺めているうちに、不思議と心が軽くなり、私は思わず「ありがとうございます」と手を合わせ、深々と頭を下げていました。起こったこと全てが、ありがたく思えるような感覚になったのです。

大切なことに気づいた  

 財布を無くしてから10日後、警察から「財布を拾った人が届けてくれた」と、連絡がありました。私は早速、神様にお礼を申し、すぐに警察署に駆け付けました。聞くと、財布は立ち寄ったことのないガソリンスタンドのごみ箱の下にあったそうです。財布の中身はそのままでした。拾い主は名乗られなかったため、お礼は言えませんでした。私は返ってきた財布をすぐに使うのはもったいなく感じ、次の月例祭までご神前にお供えさせて頂きました。
 月例祭後、参拝者と談笑する中、今回のことを話すと、ある信者さんが「お金を盗んで、罪をつくる人が出なかったお礼も必要ですね」と言われ、その通りだと思い、私はすぐさま神様にお礼申しました。

 財布が無事に戻ってきたこともおかげですが、それ以上に、財布を無くして気付かせてもらったことの一つ一つが、お金には換算できないほどありがたいことだと今も感じています。財布を手にするたびに「神様の財布を使わせて頂きます」と、祈りを込める毎日です。

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています

(「心に届く信心真話」2018年11月18日号掲載)
メディア 信心真話 金光新聞 

投稿日時:2019/12/24 08:30:31.295 GMT+9



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