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母は幸せな人生だった【金光新聞】

母のことをふりかえり

 梅の花が咲き誇る季節となりました。2月は私 (41) にとって特別な月です。私の母は2月に生まれ、私が17歳の時、2月に43歳でみたま様となりました。
 15年祭の2日後のこと。独身時代に幼稚園教諭だった母の当時の同僚3人が、遠方から、わが家を訪ねてきてくれたことがありました。3人は「いつも園児たちに囲まれていて、皆が喜ぶようなことをたくさん考えてくれる人だった」と、当時の様子を口々に話してくれました。私はその言葉に耳を傾けながら、母と過ごした日々を重ね合わせていました。
 母は病を患っていたため、記憶の中の母といえば、入退院を繰り返している姿ばかりでしたが、3人の息子が喜ぶようにと、誕生日や季節ごとのお祝いをしてくれ、いつも楽しませてくれていたことを思い出します。
 母は入院中、同室の患者さんやスタッフのことを、よく励ましていたと、当時の担当看護師さんから教えてもらったこともありました。病気になって家族にも会えず、つらく寂しかったはずなのに、いつだって誰かを思い、祈ってくれていたのです。人や家族を大切に思い、接してきた母の生き方は、後になっても、多くの人に優しさと力を与えてくれているのだと感じました。

 亡くなるまでの1年間、京都の実家で療養していた母は、平成7年2月23日、広島の自宅に電話をかけてきてくれました。「この間の阪神淡路大震災で、広島は大丈夫だった?」「ご飯は作れるようになった?」と、離れて暮らす私たち息子のことを気に掛けた内容ばかりでした。私の一番下の弟には障がいがあるため、母はきっとそのことも含め、心配でたまらなかったのだと思います。
 その5日後、母の実家から亡くなった旨の連絡がありました。病気のことは分かっていながらも〝亡くなった〟という事実を受け入れられないまま、私たち家族は広島から京都へ向かいました。

慕われ愛されていた母

 途中、震災発生から約1カ月がたった神戸を通過しました。車窓に広がる荒廃した街並みを眺めると、重苦しい気持ちになりましたが、それまで口を閉ざしていた父がこう話し始めたのです。
 「お母さんが亡くなって悲しいけれど、悲しいのは私たちだけじゃないんじゃ。神戸では多くの方が、建物の下敷きや火災に巻き込まれて亡くなられた。お母さんはたくさんの方に見守られ、お世話になって亡くなることができた。ありがたいことなんで。お礼申さんといけん。…ほんまに幸せもんじゃ」
 そう話しながら車窓に目をやる父のまなざしは、温かくも強く、母の生きざまを振り返っているかのようでした。
 私は初めて、父の母への深い思いに触れました。「なんでお母さんは亡くなったんじゃろう」と嘆くこともありましたが、何年たっても思い出してくれる人がいて、多くの方に慕われ愛されていた母を思うと、幸せな人生だったのだと思えるようになりました。

 母が亡くなって5年後「子どもたちに負けないよう、私もよいお母さんになれるように、神様にお願いしています」と書いた、私宛ての手紙を見つけました。母の思いは今、子を持つ親となった私を常に支え続けてくれています。私は母の生き方を心から誇りに思います。
 「幸せ者のお母さん。私たちにたくさんの幸せをありがとう。これからもよろしくね」

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています

(「心に届く信心真話」2019年2月17日号掲載)
メディア 信心真話 金光新聞 

投稿日時:2020/04/28 10:16:58.558 GMT+9



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