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食物への感謝と改まり【金光新聞】

手元をすべらせ 吸い物をひっくり返してしまい

 昨年の春、私(46)は教会で聞いた先生の教話から、自らの生活を省みる機会を得ました。その内容は、教会で行われた中高生を対象にした集いの中で、先生と子どもたちが昼食を共にした時の出来事にかかわってのことでした。

 子どもたちが手分けして配ぜんをしていた時、ある男の子が手元をすべらせ、吸い物をひっくり返してしまいました。すると、別の子が機転を利かせ、すぐにふきんでテーブルにこぼれた汁と具材をふき取り、新しい吸い物を持ってきてくれたそうです。

 その様子を見ていた先生は、機敏な対応に感心する一方で、「でも、私なら、できるだけ食べさせてもらうがなあ」と、ふと思われたというものでした。

 その話を聞いた時、私はドキリとしました。もし、私がその場にいたとしたら、おそらく私も、ふきんでふき取ったか、近くにいる子に、ふき取るように指示したに違いありません。

 もちろん、とっさにお世話ができた子どもの行動は、素晴らしかったと思います。しかし、先生はその行動を褒めながらも、さらにその先の、食物を大切にする在り方にまで思いを寄せられていたのです。

 「食物はみな、人の命のために天地の神の造り与えたまうものぞ。何を飲むにも食べるにも、ありがたく頂く心を忘れなよ」

 私は、物心ついた時から、この金光教祖のみ教えを、食前に唱えてきました。しかし、それは唱えていたに過ぎず、果たしてどれほど「ありがたく頂く心」になっていただろうかと、このお話から考えさせられたのです。

 最近では、賞味期限や産地などにばかり意識が向きがちですが、私たちは天地のお恵みなくしては、何一つ作ることはできません。その食物を頂いて、日々の命をつないでもらっている私たちであることを、あらためて考えさせられました。

ネギの一刻み、コップ一杯の水・・・

 以来、日々の生活の上に、少しばかり変化が生まれてきたのです。

 たとえば、食事の支度でネギを切る時にも、「ネギの一刻みさえ、私には作ることができないのに、今までどれだけ粗末に扱っていただろう」という気持ちになり、コップ一杯の水を手に取れば、「これがあれば、助かる命が世界中にどれだけあるだろうか」と思うようになりました。

 そのような思いで生活を見直していくと、改めていくべきことが次から次へと見えてきました。同時に、どうすれば食材を大切に使わせて頂けるかという、生活上の工夫も生まれてきて、そうした気付きや取り組みが楽しくもあるのです。

 それは、私自身が食物のありがたさに気付かされ、改まる機会を得たからだと思います。

 「私なら、できるだけ食べさせてもらうがなあ」という先生の一言に対して、あの時もし、「落ちたものは不衛生だから、食べない方がいいのに」と、不満を感じて聞いていたなら、私は改まる機会を逃していたかもしれません。そう考えると、先生のお話を、自分のこととして聞く心をお与えくださった神様に、感謝とお礼を申さずにはいられないのです。

 これは、日常のほんのささいなことかもしれません。でも、そうした中にも神様の働きを感じさせて頂くことで、感謝と喜びの生活を生み出していけるものと思わせて頂いています。

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています。
メディア 文字 信心真話 よい話 金光新聞 

投稿日時:2009/09/25 10:12:25.670 GMT+9



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